裏表
「美怨……美怨かあ」
あのパッと見普通の女性で、少し身長が高くてスタイルのいい美人といった感じの眼鏡をかけた学者風の女性――栞外美という名前なのだろうか――に言われるまで、美怨という女性を思い出すことなどなかった。
峰岸の事件の後、俺こと森山源五郎は美怨のもとで働いていた。各地の恨み妬みを持つ者を引き連れては、彼女にそれを食わせた。彼女もそれを喜んでくれたし、俺も報酬をいただいた。おかげで今は財布の中身は少々潤っている。
しかし、俺はそのバイトをやめた。その理由については今は語る必要もない。
目の前の崩れた洋館を見る。あれから随分と時間がたったようで、実は昨日のような感覚だったりもする。この錆びれた門も、かつて最初に来た時も同じくらい錆びていた。
俺はいつの間にか美怨のいる――正しくは美怨が”いた”その洋館まで来ていた。
三階に昇る。廊下には俺の足跡がいくつもできていたが、その足跡もうっすらとほこりがかぶっている。俺以外の足跡は、当然無い。
豪奢な部屋。それはもとから存在していなかったかのように、その部屋には何もなかった。美怨が座っていた椅子。ベルダンの淹れた紅茶が思い出されたが、それが置かれた机もカップもない。
「栞外美さんかあ」
あの時は、ふとしゃべるのを躊躇した。美怨を知る存在などろくなものでもないだろうし、きっとまたつらい目に合う。それでも、俺は彼女のことをすっと思い出した。未練……だろうか。
渡された名刺に書かれた、東京承和大学の文字。描かれたところに教授、と大きく描かれており名前が記載されていない。裏に栞外美という名前が手書きで記されている。殴り書きなのか雑だ。
既に俺とは一線を画した世界だと思っていたが、どうやら世界は俺をあちらに戻そうとしているらしい。いや、戻るのではないのかもしれない。俺は一度踏み込んだ世界から抜け出せてないだけなのだ。
「連絡をしてみよう」
俺がそう思うのは半ば必然だった。だってそうでしょ?
出なければ話は進まないんだから。
「で、彼から連絡があったかい?」
暗い部屋の中、椅子に座った彼女は言う。シャッターから洩れる光だけがこの部屋の唯一の光源たらしめていた。
「ええ、ありましたよ。城池前のコンビニに来てほしいみたい。美怨がいた部屋まで案内してくれるって」
少し声が震えていただろうか。私としては平静を装ったつもりだ。それでも彼女には気づかれてしまっているだろう。こうして考えていること自体、彼女の頭の中では想定内なのだから。「ほう、それはいいことだ」と、彼女はシニカルな表情を浮かべる。
「で、その美怨って子は一体何なんです?」
普段、彼女はこういったコミュニケーションをとってこない。そんな彼女がわざわざ私に頼みごとをしたのだ。おそらくそれはとても重大で。
「まあ、あとあとわかると思うよ。私から言うほどでもない」
彼女――教授はいつもそうだ。何もかもわかっている風で、それでも誰にも何も言わない。しかし、彼女のやることは絶対だった。
今回も、きっと良くないことが起こるのかもしれないのだろうなあ。
そう私は思った。
「私の固有能力が未来視とかなら楽なのになー」
教授に言うでもないただの独り言を漏らした。