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 と、そこへ差し込むようなひやりとした気配があった。咄嗟に察知し、朱莉は階段下の正面の道路へと目を向けた。


 対岸の横断歩道わきに居たはずの青年が動き出している。横断歩道の信号は赤。とても急いで、焦っているように見える。腕時計で時刻を何度も気にしながら足踏みをしている。茶色のピーコートに赤いマフラーを巻いた短髪の青年。


 車道の信号が黄色に変わり、赤に変わる。


 やがて歩道の信号が青になろうかという時。


 青年はマラソンランナーのスタートのように、腕時計に目を落としながら横断歩道へと躍り出た。


 彼の行動にすっかり目を奪われていた朱莉は、とっさに「あぶない!」と叫んでいた。


 車が行き交う道路の方をただ見つめて、何も話さなくなった朱莉の突然の声に、美玲は肩を跳ね上げて驚いていた。


 朱莉の視界には青年がマネキン人形のように、無防備に跳ね飛ばされ、路上に転がるビジョンが再生されていた。車に轢かれた。


 音のない世界で、なんの質量もない世界で、ただ青年の霊は宙に浮きあがり、地面に叩きつけられ、ゴロゴロと路上に転がり、そしてうつ伏せの状態で静止した。


 朱莉の胸の鼓動がドクンドクンと激しく脈打つ。


「大変……事故……だよ」朱莉は自らが視ているものと、現実の風景が認識できなくなっていた。


「朱莉ちゃん? どうしたの、事故って……なにが?」


 朱莉の斜め後ろから、美玲が二の腕をとってくるが、朱莉の意識は道路に転がった青年に釘付けになったままだった。


「ホラ……男の人が車にはねられて……倒れてる……」


「そんな……だれも、いないよ?」


「いるじゃない! 茶色いコートを着た男の子、赤いマフラー巻いてる……」


(朱莉ちゃん、目を覚ましなさい。地縛霊の記憶が見えてるだけよ、しっかりしなさい)鞠の声で薄ぼんやりと現実のビジョンが浮き上がってくる。


 それと同時に押し寄せる波のように、思念の塊が朱莉に襲い掛かる。


 それは美玲から発されたものだった。


「守屋君……守屋君が? そこに、いるの?」


 朱莉の中に美玲の思念が流れ込んでくる。それは言語でもビジョンでもなくイメージだけだ。彼女のような普通の人は念話が出来ない。ただ、霊感応力者は彼らが発する思念のイメージをとらえることはできる。それを便宜上オーラなどという表現をすることもある。


 美玲の発する、楽しい、嬉しいといった感情のほかに、今日この日を待ち望んでいたというわくわくした感情、早く早く、急いでという、喜びと焦りが入り混じった感情、良かった、とてもラッキーよ、運命を感じるね、といった幸福感。


 そしてその直後に訪れる強烈な質量を伴った、黒い絶望感。追って剣が降ってきて身を引き裂かれるような辛辣な痛みが全身を覆いつくす。


 そして氷河の海に投げ込まれたかのような悪寒。真空の宇宙に裸のまま投げ出されるような孤独感。


 胸が締め付けられて朱莉はうずくまりそうになるのを右手で自身の胸を押さえ、こらえながら、左手で震えて涙をぽろぽろと流す美玲の肩を抱く。


「ぐっ……うあああっ……」見えない力にさらに胸を押し上げられ、声が出る。美玲の感情が自分の中に入って泣こうとしている。自分の中で収めきれない感情が飛び出して、美玲と感応した朱莉を巻き込んでいる。


(取り込まれちゃダメよ、朱莉ちゃん!)


(だ、だいじょうぶ。だいじょうぶだよ。鞠さん――――けど、守屋君、助けてあげたい、あたしは……)


(――そう言うと思った……けど、とりこまれたらもっとひどい苦しみと痛みを受けるわよ。それこそ彼が受けた痛みを、朱莉ちゃんの身体で再現することになるかもしれないわよ?)


(いい、かまわないよ。あたしの目の前でこんなにも苦しんでいる人がいるのに、何もできないなんてあたしが嫌だ。あたしが苦しいもん)


 鞠から深い深いため息が漏れる。


(相変わらずね……好きにしなさい。仕方ないから、ちゃんと守ってあげるわ。だから、ちゃんと帰って来るのよ)


(ありがとう、鞠さん)


 朱莉はよろける美玲の肩を包み込むように、力強く掴んで、叫んだ。


「守屋君! そこから起き上がるの! 起き上がってこっちに来て! 美玲ちゃんが待ってたの! あなたが来るのを待ってたの、ケーキを一つだけ残して、あなたと一緒に食べるためのケーキを用意して、あなたが横断歩道を渡って笑顔でここに来るのを待っているの! 待ってたのよ! 立って!」



 すべての時間が止まったかのように辺りは静寂が支配していた。少なくとも朱莉と美玲を包み込む空間は止まっていた。朱莉は意識の認識と干渉を試みる。路上に伏したままの青年、守屋へと。


 すると、伏した体から背中が盛り上がるように、もう一つの身体が立ち上がる。何が起こったのかわからないといった風にして、守屋はあたりを見渡す。


「守屋君! こっちに! こっちに来て! 渡ってこっちに来るの!」


 声が聞こえた。声が届いた。


 守屋はしっかりと朱莉と美玲の方を向いていた。よろよろと横断歩道を歩み始め、そしておぼつかない足取りで駆けだす。首に巻いたマフラーがほどけて宙に舞う。彼は一瞬それを気にして足元がよろける。

「ふりかえらないで、そのまま、そのまま走って来るの!」


 歩道へと足を踏み入れた守屋はエントランスの階段を、二段飛ばしで駆けあがって来る。その顔には笑みが浮かべられている、息を切らしながら、困ったような顔をしながら、ただ一直線に美玲のことを見つめている。


「こっちへ来て! ここにきて……美玲ちゃんを!」朱莉は守屋に手を伸ばす。守屋も手を伸ばす。倒れ込んでくるように、飛び込んでくるように、朱莉の手を掴む。


 吸い込まれるように朱莉の身体へと守屋は入ってゆく。朱莉は残った意識で美玲の細い手首を掴まえ引き寄せ、そして意識が遠のく中で、両腕を使って美玲を強くきつく抱きしめた。


「ありがとう」


 その言葉は美玲か守屋か、それとも朱莉か、誰がどのような気持ちで発した言葉なのかはわからなかったが、確かに、心のずっと深い部分の水たまりに、波紋を描くように響いていた。



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