夜市の晩1.「揺らぐ結界」
ユイによってコハクと名付けられた男が再び目を覚ましたのは、その日の夕暮れ時のことだった。依然として鈍く痛む銃創、言うことを聞かない重い身体を横たえて、コハクはただぼんやりと外の景色を眺めていた。小さな窓から見える鋭く切り立った山脈の稜線が夕陽に焼かれていく。
やがて部屋が薄暗闇に沈み始めた頃、枕元にあるガラス瓶が発光しはじめた。発光しているのはガラス瓶の中に窮屈そうに閉じ込められたダンゴムシのような見かけの光虫。光虫は数のは違えど、この国の森にならどこでも生息している生活には欠かせない大事な虫である。電気のない代わりに光源として一般市民の間ではポピュラーな存在だ。
この教会があるレグナータ地区ではダンゴムシ型の光虫がよく取れるらしく、目にする回数は一番多い。光虫は育つ地域の環境によって姿かたちが異なり、ほかにも温暖な地域では、羽虫型、レグナータよりももっと北にあるハノユリア地区では蜘蛛といったように。
レグナータ地区はパルステビア王国の首都ソルシエルから200キロほど離れた北西の方角にある地区を指す。教会があるのはレグナータ地区の中心、カイムリという町だ。地区の中心ということもあり、比較的道路の整備も進み、大きな商会もあるため行商人の出入りも多い。夜市が開かれる水曜日にはいつも賑やかな町がいつにもまして大勢の人で賑わっていた。遠くに夜市の象徴ともいえる赤提灯がチラチラと見える。
教会の中は静まりかえっていてユイの気配も感じられなかった。夜市にでも出かけているのだろうか。
闇が濃くなってくる。その闇に紛れるように教会に近付いてくる者たちがいた。互いに押し黙ったまま、不気味なほど規則的に歩きながら、彼らはまっすぐに教会を目指していた。
ちょうどその頃夜市の人ごみに辟易していたユイは目当ての品を見つけられずにさらに苛々していたところだった。ユイが教会を留守にするときには教会の敷地のある一定の範囲内に強力な結界をはってある。結界とはすなわち外と内を隔て制限すること。ユイが教会に施した結界は境界線の内と外を完全に分かつものだ。外から内の空間に干渉することは同等以上の魔法技術で結界の境界線を消去することができない限り、もしくは結界の術式を把握したうえで結界構造そのものを破壊することができない限り、不可能なことだ。
慢心するわけではないが結界が破られることにたいして、ユイは不安を抱いていなっかた。
少なくとも、この時までは。
今までとは状況が異なっている。あの教会にいるのはいくら無害そうだとはいえ、正体不明の人物。ユイのいない間に何がおこるかなど、とても予測できるものではない。しかし、ユイには前から少し心にひっかかっていたことがあった。コハクを撃った者が使っていた銃弾のことだ。
「銃弾・・・・市にも流通していないあの形・・・軍用品となればコハクを撃ったやつは軍人だということじゃ。やつを殺すつもりなら鬼の居ぬ間にというのも考えられる」
ユイはぶつぶつと呟きながら嫌な予感しかしない家路を急ぎ始めた。
「しまったっ!!」
わずかな結界の揺らぎが意識の縁に到達した。
結界の揺らぎを感じたとき、ユイは教会を空けた自分を心底呪っていた。
コハクのそばを離れた自分の軽率な行動と浅はかな考えに腹が立った。コハクのことは自分が守らなければ。死の淵からユイ自身の願いを叶えるかのように戻ってきてくれたあの男。こちらに引きとめてしまったことでコハクは苦しんでいるというのに・・・自分勝手でもいい。これ以上傷ついて欲しくない。止めどなく溢れてくるその思いがユイを前に進ませている。
どうか無事でいて・・・
今はそう願うことしかできない自分は完全に無力な子供。
守りたいと、助けたいと願うだけでは何も変わらない。そうと知っていても、願ってしまう、コハクを信じられない自分はやっぱりどうしようにもないほどに、コドモだった。