無色透明
大学院受験に失敗した。最近、僕は京都のとある大学の大学院を受験した。専攻は臨床心理学。僕はかなり本気だった。仕事まで辞めて臨んだ。しかし、やっぱりダメだった。
僕もこれまで、小説家になりたい、ミュージシャンになりたい、心理カウンセラーになりたいなど、いろいろな夢というやつを抱いた。しかし、ミュージシャンは、大学時代バンドを組み何度かステージに立ってみたところ、自分が極度のあがり症(実際に気を失うほど)であることに気づき、これは自分には到底無理だと早々に諦めた。小説家は、二年前にとある文学賞に応募したところ、一次選考で落ちてしまい諦めた。実を言うと、僕は応募したとき文学賞を取れるかもしれないと思っていた。かなり確信していた。取った時の挨拶まで考えていたし、受賞することで世間にこの冴えない風体がさらされる心配までしていた。さらには、せめて体型だけはスマートに見せようと筋力トレーニングまで始めていたことも白状する。まあ、そこまで本気だったわけである。長年密かにいろいろ試行錯誤を重ね、満を持しての応募だったのだ。世紀の名作のはずだった。世間をあっと言わせるはずだった。しかし、一次選考であっけなく落選した。落選し改めて自分の作品を読み直してみると、そのお粗末さに戦慄を覚えたものだ。僕はすっかり打ちのめされてしまい、あっさりと小説家の夢を諦めることにした。そして、今度は心理カウンセラーにトライすることにした。今度こそは、と思っていた。三度目の正直だと思っていた。これが最後だと思っていた。僕はすでに数年前からある大学の通信過程を受けていた。そして、何とか修了の見込みをつけ、仕事も辞め、大学院の受験に臨んだというわけだ。ちなみに、臨床心理士の資格習得のための受験には指定大学院を卒業することが必要条件である。しかし、試験の一週間後にやってきたのは不合格通知だった。わかってたよ。特に英語の問題が全然解けなかったもんな。勉強している時点でチンプンカンプンだったもの。そうだ。中学時代から僕は英語が大の苦手だったのだ。特に英文法がダメだった。語彙力も極度に乏しかった。辞書無しだと、とてもじゃないが全く歯が立たぬ。面接もしどろもどろだった。ああ、がっくし。それにしても僕を不合格にするなんて気に食わねーな。例えそれが妥当な判断だったとしても、僕を不合格とした連中の事は終生心の底からお怨み申し上げる。もちろん、とある文学賞の選考で、僕の作品を一次選考で落とした連中もな。
僕はダメだ。多分、いや僕はもう絶対にミュージシャンにも小説家にも心理カウンセラーにもなれないだろう。不合格したことに絶望しているのではない。いとも簡単に諦めてしまう自分自身に絶望しているのだ。ちょっと壁にぶち当たると、無理だよ無理、やーめた。となってしまうのだ。要するに意気地がないのだ。典型的なダメ人間の特徴である。
いやいや、そんなことはないかもしれない。僕は僕なりに必死に試行錯誤してきたと思う。それは確かに全く非効率的なやり方で、十分なものではなかったのかもしれない。でも必死ではあったはずだ。これからも、もっともっとトライすれば良いのかもしれない。文学賞だって何度も応募すればいいじゃないか! 大学院の受験だって来年の春もまた挑戦できるじゃないか! そういう思いもあるのだが、もうダメなんだ。疲れちまったんだよ。そこまで執心できないんだよ。その程度の情熱だったんだよ。ああ、疲れた。
僕はすでに世間で言うアラフォーという年齢に差し掛かっている。時が経つのは早いもので、日本人の平均寿命から考えると、もう人生の後半に差し掛かっているといって良い。けど、僕には何もない。仕事も派遣を中心に途切れ途切れにやってきたので、何のキャリアも技能ない。全てが中途半端である。大学の通信で心理学を学んだといっても、それはごく基本的なことを学んだだけだし、忘れてしまっていることも多い。それで食っていけるような十分な専門的な知識や経験といったものはない。おまけに世渡りも下手ときている。特別優れた人格の持ち主でも無さそうだし。守るべき家庭もなければ恋人もない。でも猫はいるか。
しかし、今意外なほど気持ちが軽いのである。大学院の不合格通知を受けてから、長年自分を苦しめてきた憑き物が落ちたようなそんな気分さえするのだ。もう音楽にも文学にも心理学にも執着しなくていいと思うと嬉しいのだ。熱が冷めちまった。夢は終わった。そんな気分。絶望感はなく、なんというか、素晴らしく解放感に満ちているのだ。世界のすべてが無色透明で澄み切って見える。今のこの気持ちを一言で表すと「無色透明」だろうか。そう、僕は今無色透明な男である。
いや待て。音楽にも文学にも心理学にも興味が持てないというのは違うと思う。もう、それで食っていこうとか、それで名声を得ようとか思わなくなったのだ。これまでの興味はどこかでそういうギラギラした欲求に結びついたものだった気がする。いや待て。まだそういう欲求は無くなってはいない。ただ、以前ほど切実なものではなくなったのである。まあ、僕も歳を取ったということかもしれない。それは寂しくもあり嬉しいものでもある。音楽も文学も心理学も個人的に細々とやっていこうと思っている。いや、もうこうなりゃ意地だよ。「自称」なんとかでも構わん。一生やってやるぜ。自分の書く作品がお粗末だったとしても、文学に取り組むだけの資格は自分にあると思っている。それだけの内的体験は経てきたつもりなのだ。試行錯誤の末にたどり着いた結論がすでに手垢にまみれた月並みなものだったとしても良い。僕にとっては単なる知識ではなく、自らの苦悩の中から掴んだ生きた知恵であり真理なのだ。すでに誰かが言ったことだったとしても、それは僕の真理であり表現でもあるのだ。もちろん、著作権的には最初に言い出した人のものなのだろうし、そのことへの配慮は当然必要だろうけど、本質的には僕のものでもあるのだ。僕は自分にとって切実なことしか書けない。すでに文学史的には過去のテーマだったとしても、それが本人にとって切実で今現在の問題であるなら、それを書くべきなのだと思う。僕はそれを書く。
僕は今何が何だかわからなくなっている。全ては相対的で恣意的に思え、例えばどんな心理学的言説に関しても、完全には身を委ねられないのである。さらに、そうした言説だけでなく、僕は自分の感情も思考も信じられないのだ。呆れるほど気まぐれで相対的なのだ。どこにも軸がないのである。思想的にも僕は今無色透明といえる。この無色透明な感覚、これもニヒリズムの一つの感覚なのかもしれない。そして、それが世界の本質なのかもしれない。ただ、一方で、最近こういう考えも頭をもたげている。世界には何かの意味をもたらす真理が確かにある。しかし、それは人智を遥かに超えたものであり、人類がそれに限りなく近づけたとしても決して到達は出来ないものである。ただ、個々の人間は具体的な状況の中で真理の一端を捉え、それをその時その時で行動、愛、仕事、生き方、芸術的表現といった具体的な回答で示さなければならない。また、人類全体の共通の記念碑としてそれを示したものが聖書や仏典といったものであり、様々な科学の定理や公式、優れた歴史的芸術作品もそれに含まれるのかもしれない。人間は巨視的に見て真理に向かって行っているとは思うのだ。僕にとっての真理は、実存分析の創始者であるヴィクトール・フランクルの「超意味」という概念に近いのかもしれない。これを「神」と呼ぶ人もいるかもしれない。とにかく、僕はいろんな人の考えを借りながらだけど、自分なりの真理という概念を微かに掴んだと思うのだ。といっても、まだまだ確信はあまりに薄く、心もとないものではある。しかし、一応は自分の中でニヒリズムの問題はこれで決着できると思っている。これからの僕の課題は、文学においても日常生活においても、どう具体的な回答を見出していくかということに移っていると思う。もしかしたら、こんなことは実存哲学で言われてきたことなのかもしれない。ただ、何度も言うようだけど、これはある程度自力で導き出した自分なりの回答なのだ。僕はそこに誇りを持ちたい。
まあ、そんなちょっとばかり大仰で尊大なことも書いたが、僕の日常とやらは実にささやかでお粗末なものである。最近親知らずを抜いてもらってきた。右奥歯にあった親知らずで、もう何年も前から抜いてもらおうと思いつつ、歯医者に行くのがひどく億劫でずっと先延ばしにしてきた。歯を抜かれる恐怖に加え、歯科医や歯科助手に症状を説明したり治療方法の説明を受けたりというコミュニケーションが億劫だったのである。ちなみに僕は散髪なども、行こうと決めてから実際に行動に移すまで十日程かかる。親知らずはすっかり虫歯に侵され、頻繁に周辺の歯茎が腫れるようになっていたし、悪臭も放つようになっていた。自分でも臭いがわかるということは、おそらく僕は相当ひどい口臭を撒き散らしていたはずだ。一年ほど前のまだ仕事をしていた頃、職場の若い女性職員と二人きりで車に乗るという状況があったのだが、その時彼女は唐突に「これ食べてください」とフリスクを差し出したことがある。今になって思えば、あの時彼女は僕の口臭が耐えられなかったのに違いない。とまあ、そんな苦々しい思い出にもつながる臭いの元凶も無くなり、今は非常に爽快な気分なのである。親知らずも僕にまとわりついていた憑き物の一つだったような気がする。
これは、ほんのつい先日のこと。僕は近くの自転車屋で自転車を直してきてもらった。ここ数年愛用していた自転車なのだが、一年前くらいからランプが壊れ点灯しなくなっていたし、最近はチェーンが緩み、走行中度々チェーンが外れるというアクシデントに見舞われていた。自転車屋へ行こう行こうと思いながらこれまたずっと先延ばしにしていたのである。もちろん、その理由はお金が無いからなどということではない。ただ自転車屋のおっちゃんとのコミュニケーションが億劫だったからである。自転車屋にはちょっとした嫌な思い出もあった。いや、それどころか、酷く傷つきやすい僕にはほとんどトラウマであったといえるかもしれない。ずいぶん前の話だが、パンクした自転車を持っていったところ、何だかよく分からないが、この程度のことで持ってくるなとこっぴどく怒られたのである。そういう嫌な思い出があり、なおのことなかなか足が向かなかった。しかし、無色透明な気分の今日この頃であるから、少し行く気力も湧き、行ってきたのだ。おっちゃんに以前のような態度を取られたら、帰り際に「二度とこんなところ来ねーよ」という捨て台詞を吐く心積もりでいた(出来ないけどね)。でもおっちゃんはことのほか愛想が良かった。チェーンの締め直しとランプの交換(中古だったけど)を千円でやってくれた。僕は嬉しくて思わず「今度ここで自転車買いますよ」なんていう社交辞令まで口にしたくらいだ。それにしても、以前おっちゃんはなぜあんなに怒ってたんだろう??? たまたまその日は虫の居所が悪かっただけなのだろうか。今回の様子からは、僕に原因があったわけではなさそうだが……。まあ、いいや。これで、自転車屋のトラウマから解放されたし、明日から快適な自転車ライフも待っている。自転車屋へ行けたのはその日の僕の「回答」なのかもしれない。
僕は今気分が良いのだ。お酒も飲まず気分良くなれるなんて実に久しぶりなのである。だから、こんな文章まで書いちゃった。ああ、でもこれから、仕事見つけないとなあ……。僕は今、無色ならず無職なのである。仕事を見つけるという行為は僕にとって億劫の最たるものだから、思い立ってから行動に移すまでかなり時間がかかるに違いないんだろうなあ。
とりあえず明日はやめとくよ。