翡翠の恋心12
梨香は屋敷の奥を目指して、暗い廊下を過去の記憶を辿りながら歩く。光へ、梨香が縷々空と呼ばれていた頃の話をしながら、己が耶赦を封じた部屋の場所を思い起こしていく。梨香は話しているうちに、段々と歩くペースを落としていった。
懐かしく通り過ぎていく、過去の光景と今の風景。
やがて梨香と光は、屋敷の最奥の一番大きい襖を持つ部屋へとたどり着く。そこに耶赦がいるはず。
梨香はとうとう立ち止まる。
「あたしは別にあの白いのに特別な感情を抱いてるわけではないのよ。時々、波のようにやってくる懐かしい気持ちはもうあたしの物ではないから。だから、あたしは白いのとけじめをつけたい。あれにも分からさせてあげなきゃいけないのよ……」
消え入るような声で囁く梨香の表情は光には見えない。隣に並んで歩いていたが、梨香の表情を見る気になれずにいた。
光は最後の襖を前にして言う。
「別に俺は、先輩のやりたいようにすれば良いと思いますよ。先輩が誰であろうが、俺にとっての先輩は結姫梨香先輩ですから」
今までの話を全て聞いて、それでもなお、光は結姫を受け入れる。
日記のこと、烏之瑪のこと、妖怪のこと、前世のこと、白すぎる狐のこと、そして目の前の奥に潜むはずの大妖のこと。
それら全てを聞いても光は梨香を認め、受け止めることができた。梨香にとってこれほど心強いことはない。
梨香は微笑んだ。随分気が楽になるものだと初めて知った。今までこんな込み入った話をした事なんて無かったし、する相手もいなかった。同じ世界を共有できる者がいなかったから。
光だって最初はただの後輩でしかなかったけれど、今では全てを知っている特別になっていた。やっぱり人生は何が起こるか分からないものだと思う。
梨香は光を見た。その視線に気づいた光とばっちり目が合う。
「蛍野君、準備は良いかしら?」
「当たり前です、と言っても俺はいざとなったら先輩を担いで逃げるくらいしか無理ですけど」
「あら、その細い体であたしを担げるの?」
「火事場の馬鹿力って奴ですよ!」
「ふふふ、冗談よ。そうならないように、あたしの全力を尽くすから」
梨香はそう言うと、光の手を取った。ひやりとした梨香の手に光は驚いたが、されるがまま襖に触れた。
バチッ!
「~っ!!? 痛いっ!!」
「さ、これで結界は破れたわね」
「あるならあるで言って下さいよ!!」
涙目の光に、梨香はにっこりと微笑み返した。
☆†☆†☆
襖の向こうは更なる異界が広がっていた。ただただ広いだけの座敷がある。四隅が全く見えない。
果てのないお座敷。
梨香と光は奥へ奥へと進む。光はきょろきょろと辺りをせわしなく見渡している。梨香はしっかりとした足取りをもって確信のある方へと歩む。
遠くとも近くともいえない距離。どれだけ歩いたか分からないが、入ってきた襖が見えなくなる頃、誰かが傘を差して座っていた。男か女か傘で隠れて分からない。まだ染められていない真白な紙が張られた番傘は、以前梨香か部室に持ち込んだ番傘と作りが似ていた。
「やっぱり起きていたのね、耶赦。そんな生易しい封印のつもりじゃなかったんだけど?」
梨香が話しかけると、耶赦と思わしきモノが嘲笑う気配がした。
くすくすくすクスくすくすくすくすけすくすくすくすくすくすくすクスくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすクスくす………
声は反響し、ざらりと耳の奥を撫でてくる。光は気味が悪くなって両手で耳を塞いだ。
梨香は眉を顰めると一つ、柏手を打つ。途端、声が聞こえなくなり、目の前にいたモノも消える。あからさまな幻術だった。
「蛍野君、進むわよ」
「は、はい……」
今ので光はすっかり腰が引けてしまっているが、今更後には引けず、動くのを止めたくなる体を叱咤した。梨香はそれが微笑ましくてならない。
「何笑ってるんですか」
「怖かったら怖いって言っていいのよ」
「こ、怖くなんかないです!」
「こんなに震えているのに?」
きゅっと。梨香は三味線を持たない手で光の手を握る。再び感じるひやりとした指先に、光ははっとした。
「……先輩だって震えてるじゃないですか」
梨香でも。いつも飄々としていて何でも簡単にこなしてしまえそうな梨香でも。震えている。
それはれっきとした恐れだった。
梨香にだって分からない。耶赦から光を傷一つつけないよう守り、さらには封印を施せることができるのか、不安ばかりが募る。
「ふふふ、あたしだって普通の女の子なんだからお化けは怖いのよ」
「いやいやいや、どの口が言うんですかそれ。大丈夫です、先輩以上の電波系女子なんていないので、先輩は普通の女子ができないことでもできますよ」
その言葉には梨香も面食らってしまった。けれど何だかほっとする。ひどい言われようだが、失っていた自信が少しだけ戻ってきた気もした。
梨香はしっかりと前を見る。
「そうね、そこまで言われちゃ、頑張らないといけないわね」
梨香は足を止める。何もない空間に向けて言い放った。
「追放されし神狐・耶赦! いい加減に隠れていないで出てきなさい! こんな術、あたしが破れないとでも思っているの!」
声の限り梨香が叫ぶと、ゆらりと景色が歪んだ。数歩先の空間だけ異様に歪んで、ついさっき会った番傘を差して座るモノが現れる。
「これでも術を解かないの? いい加減にしなさい」
梨香は業を煮やしたように言い放つ。
「《結びし世界を解き給う》」
梨香の言霊だけで視界は晴れる。あのだだっ広い座敷は消え、天井高い洞窟のような空間が生まれる。ぽつりぽつりと灯篭があり明るく照らす。変わらず番傘を差して座るモノは目の前に座っていた。
『待っテいたゾ、小娘……』
「別に待たなくて良かったのよ。というか、またすぐに封印してあげるから」
『そうハいくものカ……』
くるりと耶赦が番傘を背に回せばその顔が覗いた。にたりと口は裂け、眼は虚ろ、髪は異常な艶と輝きがあり、浅葱の羽織を羽織っている。まるで幕末に生きる新撰組の末路のようだった。
耶赦は枯れ木のように細い腕を伸ばして、光を指差した。
「……俺?」
光はきょとんとした。どうして指差されたのかが分からない。
「蛍野君っ!」
はっと気づいた梨香が光を庇おうとするが、無意味だった。
『[«穿ち成せ¦火牙狐»]』
ずん、と。
光の腹を地面から現れた槍のように鋭い狐火が貫く。
「……あ、れ……………?」
かは、と。
光が血を吐くと狐火は消えた。
光の身体が傾ぐ。
「蛍野君───!?」
梨香は繋ぐ手から消えた力に茫然とする。一瞬、何がどうなったのかが分からなくて頭が真っ白になった。
力なく冷たい石の床に横たわる光の腹から溢れる赤い液体を見て、ようやく理解する。
「いやああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
梨香の絶叫がこだました。




