翡翠の恋心10
走る。靴を脱ぐ暇さえを惜しみ、履き慣れたスニーカーのままで、寝殿造りっぽい屋敷の廊下を走る。目に見える障子を片っ端から開けて行きながら。
ここでもない、ここでもない。適当に障子や襖を開け放ち、廊下だけでなく座敷にまで土足で入る。バタバタと走ってまた一つ、襖を開けた。
「───先輩?」
やっと見つける。
この屋敷で一番広いと思われる部屋の中心で、ぺたりと座り込んでいる黒髪の少女。結んでいた髪は解かれていて、光より幾分も小さな背中を隠していた。
見間違えはしない、いつも見ていたあの背中。
初めて会った時から、不思議と尊敬したあの姿。
光の、大切な人。
「蛍野君?」
ゆっくりと振り返った梨香の顔は驚きで彩られている。呆気にとられたような表情を見て、光は部屋の入り口でへたり込んだ。良かった無事だ。
朝の顔色の悪さもとうに無くなっているようで、いつもの飄々とした笑みで梨香は光を見た。
「ふふふ。まさか蛍野君が来るとは思っていなかったわ。それにしても可愛い冠ね。トーコから貰ったのかしら?」
「トーコ……あ、あのドレスの人ですね。そうです。その人から受け取りました」
冠を作ったのは梨香であることを知らない光が頷く。そして藤子の印象はあの淡い紫のドレスが印象深い。
光は長く息を吐くとぱっと立ち上がって、襖を越える。梨香が制止する間もなく光は境界を越えた。
今の梨香にはこの部屋に張られている結界が見える。編んである籠のような網目の結界は、その網に触れるだけで衝撃を受け吹っ飛ばされる構造になっている。それなのに光が触れた途端、ほろほろと崩れていったのだ。
梨香は我が目を疑った。が、すぐにそういう体質なのだと烏之瑪と同じように理解した。なるほど、だから烏之瑪は光を寄越したのだろうと考えると、自然と笑いがこみ上げてきた。烏之瑪が何も知らない光に一方的に事情を話している様子を脳裏に描いたのだ。シュールだ、今更だが喋るカラスはかなりシュールだ。
一人で笑い始めた梨香に、目の前までやってきた光は訝った。
「……何笑ってるんですか」
「ふふ、ちょっとね。でも蛍野君、ここはキミがいてはいけない場所よ。あたしのことは置いておいて、早く立ち去りなさい」
「嫌ですよ。せっかく来たんだから最後まで頑張ります。一人で帰る手段もよくわからないし。───先輩、預かり物です」
すい、と肩がけの鞄からだした緑色の冊子を取り出す。烏之瑪が持って行けと言っていたものだ。もちろん三味線もあるが……
「あ、一反もめんの上に忘れてきた……」
振り落とされた瞬間、気が動転して三味線を掴むのを忘れていた。どうしよう、と青くなる。
烏之瑪の話ではあれが重要な役割をするらしいのだ。それなのに忘れてきてしまった自分はどうしようもない。
「すみません先輩、三味線を一反もめんの上に置いて来ちゃいました……」
白状すると、梨香は目を丸くした。
「三味線を持ってきていたの?」
「はい」
「……烏之瑪は本気なのね」
梨香は目を伏せた。しばらくそのままでいてから、何かを振り切るようにして、さっと立ち上がる。解かれた髪がふわりと舞った。さらさらとした音がこぼれそうな髪を梨香は鬱陶しそうに後ろへと払う。
そして緑色の冊子──翡翠の日記帳を手に取った。
「これがあれば、三味線は戻ってくるわ」
梨香はページを繰って目的の箇所を探す。
看病の話、文字の話、過去の話、そして平和の話。
妖怪が書いたこの文字にはその妖怪の妖力が宿る。霊力が戻って、さらには妖力という戒めの力が消えた梨香ならば、その微かな妖力から、妖怪の召喚が意図も容易くできるはず。
梨香の霊力は妖力の封印のために抑えられていたために弱々しくはあったが、元々の潜在能力は高いのだ。──因果関係が関わる霊力は、梨香の前世の霊力を引き継いでいるはずだから。
梨香は繰り返している。前世、前々世と、梨香は烏之瑪のために日記を埋めるべく奔走していた。前々世は非業の死を遂げたために、烏之瑪が転生させてくれた。前世は烏之瑪が転生させてくれることを知っていたから、来世に想いを馳せて自ら命を絶った。そして今に至る。
梨香は目的のページを見つけた。“平和がいい”とはっきりと書かれたその言葉に梨香も同意だ。争いは互いを傷つけるだけで何も生まないことを知っているから。
「蛍野君、青いリングの単語カードって預かってない?」
「そういえば」
蛍野は鞄から四つの束の単語カードを出す。赤と黄と青と緑のリング全てを梨香に渡す。これで梨香に渡さないといけない物は全部のはずだ。
梨香は青いリングの単語カードから一枚、紙を千切った。その紙を手に持ったまま、そのページに手を翳した。
「《«式紙の四・具足・顕現»》」
ぼんっ、と白い煙に巻かれて紙片が黒光りする具足へと変わる。光はぎょっとして思わず後ずさりした。
かなりの大きさだ。光の背丈よりも大きいのではないだろうか。
「さ、三味線の……ネコマタの位置は分かったわね? 行きなさい」
梨香が言うと、具足はすいっと浮いて外へと出て行く。光は端と気づく。あちらでは烏之瑪と白すぎる狐が戦っているのだ。
不意に梨香が首を傾げた。
「……具足が消された?」
どうやら戦闘のとばっちりを受けたらしい。梨香はちっと舌打ちを打つと表に飛び出した。
裸足で庭へ飛び出し上を見上げる。光もそれに追随した。
「《«式紙の四・具足・顕現»》」
再び具足が現れるが、光はもう驚かない。
具足はまっすぐに飛ばず、ある一定の所でぼんっと紙に戻った。まるで目に見えない壁にぶち当たったような光景に梨香は一人うなずく。結界が張ってあるのだ。
どれほどの結界が張ってあるかわからない。でもきっとあの白すぎる狐のものだろう。さて、と梨香は首を捻った。
「どうしたんですか、先輩」
「ちょっと結界が邪魔でね……。あ、そうだ」
梨香は光を見た。ちょうど良い規格外が此処にいるではないか。
「ちょっと蛍野君、こっち来て」
梨香は光の腕を引いた。光は訝るばかり。
そのまま梨香は光の手のひらをぴとりと見えない壁に触れさせる。バチィィといって普通より少し派手で痛そうな静電気の音を響かせ、結界は破れた。光はあまりの痛さにうずくまり悶える。
現れたのは二人の異形。片方は白く、片方は黒い。白すぎる狐と天狗型の烏之瑪だ。今回の烏之瑪の変化には異界に漂う霊気を集めて使用しているので、梨香にも烏之瑪にもエコだ。
梨香はにっこりと笑うと、具足を今度は二つ呼び出した。一つは自由になった空へと放って三味線を取りに行かせ、もう一つを戦っている奴らにぶつける。
「ふっとべ烏之瑪!!」
『何故に我!!?』
気づいた烏之瑪が慌てて具足を避ける。あれは移動用式紙だが、少々問題もある。乗って移動するか、蹴っ飛ばされて移動するかの二択であるのだ。
光は見た。にやりと黒い笑みで笑う梨香を。これはかなり怒っている。
「烏之瑪、あんたって本当に役立たずね。そっちの白いのの方がよっぽど役に立つわ」
「お誉めに与り光栄です」
白すぎる狐は腰を折って礼を取る。烏之瑪は面白くなくてぷいとそっぽを向いた。当てつけに小さな風の球をぶつけるのも忘れない。簡単に避けられたが。その風の球が光の頬を掠めそうになる。光はあんぐりと口を開けて固まる。
命に関わる危険があると事前に言われたが、味方に狙われるとは聞いていない。




