送電網と原発
僕が送電網に、初めて印象深く惹かれたのは、ある同期現象を扱う科学の本を読んだ時の事だった。発電は、送電網を通して各発電機を同期させているので、同期現象の一例として触れられてあったんだ。
普通、電気は送電の過程でエネルギーを大幅に失う。電気抵抗により電気エネルギーが熱エネルギーに変ってしまうからだ。電力を目的地まで送り届けるのには、だから電圧を高くして一気に流すしかない(発電機の出現当初はそうだったが、今は、超電導直流送電という技術があるので、その限りにあらずなのだけど)。ところが、これを行うのには直流送電よりも交流送電の方が適していた。何故なら、交流送電の方が、電圧を変化させ易く、電力を使用するのに便利だったからだ(今は電圧を変化させる変圧器も発達しているので、実は直流送電の方が効率が良い)。因みに、エジソンは直流を推していたけど、負けてしまった。
ところが、この交流送電は、電圧や電流が周期的に変化してしまう。つまり、波があるんだ。この変化の周期は、発電機が電磁誘導によって発電する周期と同じで、送電網で繋がった各発電機はこの周期を一致させなくてはいけない。つまり、これが各発電機を同期させなくてはならないって事だ。
この事が載っていた本では、アメリカでの送電網開放の失敗を非難してもいた。発電はこのようにデリケートな技術であるにもかかわらず、送電網を開放し、電力会社に自由競争を行わせた結果、電力事故が多発した、と。ただし、元々アメリカの送電網は老朽化していたとも言われているので、これだけが原因かどうかは分からないし、今も同様なのかどうかを僕は知らないのだけど。
僕はこれを読んだ時、「日本ではこんな事はない」と少しだけ誇らしげな気持ちになった。日本では電力事故が少ないというのを知っていたんだ。特に日本を好きなつもりもなかったのだけど、やっぱり僕はそれでも日本人みたいだ。日本が優れている話は嬉しいんだ。それで、何でもかんでも規制緩和で自由競争させれば良いってもんじゃないな、と考えた。日本は規制のお蔭で事故が少ない。スケールメリットを活かせる場合は、規制緩和も考えものだ。
でも、今にして思えば、これは明らかに情報不足な状態で出した結論で、浅慮だった。僕は情報の重要性とその危うさを普段からよく自分に言い聞かせているつもりでいる。その情報が全体のごく一部でしかない事を考慮し、隠れた情報の可能性も考えた上で結論を出さなくてはならない。そう思っている。それでも、こんなミスをしてしまう。人間ってのはつくづく“情報”に騙される生き物だなと改めて実感した(もちろん、自分の不完全さと未熟さも)。だから、多少の過ちはお互い様で、皆でチェックし合う事が重要なんだろう。インターネット社会ほど、これを行うのに適した社会はないのじゃないかとも思う。
話が少し逸れたけど、次に僕が気になった送電網の話は、自然エネルギー関連の本数冊を読んでいた時に出てきた。送電網が整っていないから太陽電池の設置を諦めるケースがあったり、送電網の利用制限によって、風力発電の建設が進まない、という話がそれぞれ別々の本に載っていたんだ。
太陽電池の本には送電網についての具体的な内容はほとんど書かれていなかった。ただ、送電網の整備が必要なんだと書かれてあっただけだ。太陽電池で発電される電気は直流で、交流送電する為には変換してやらなくちゃならない。そして、太陽電池の出力は天候に左右されるから、送電網に組み込むのも難しいのだろう、と発電機同期の話を知っていた僕はそう思った。
太陽電池の本での送電網の扱いはそれだけだったけど、風力発電の本に関しては、明らかに送電網の制限に関しての批判が書かれてあった。しかもそれは、電力会社が利益の為にそんな事をやっているという内容だった。だけど、僕はそれをそのままは信じなかった。半信半疑といった感じ。風が安定しない場所での風力発電は、特に出力が安定しない。0から最大出力まで変化する。つまりは、先と同じ様に送電網に組み込むのは難しいのじゃないかと想像したんだ。飽くまで想像だけど。
ただ、“なにかおかしいな?”感はその時から感じてはいた。テレビ番組で、明らかにやらせっぽい演出方法で、太陽電池非難をやっているのを見た事があったからだ。「太陽電池のお蔭で、日光が遮られる」と、どこかのお爺さんが怒っている。
そんなもん、少し気をつければ、充分に回避できるし、屋根と密着するタイプの太陽電池ならその心配は全くないはずだろう。因みに、僕が日照権からの太陽電池非難を見たのは、それ一回きりだ。
どうにも腑に落ちない。日本は太陽電池の技術では先を行っているのだから、もっと普及してもいいはずだ、という思いもそれに絡んで妙な気持になる。
もしかしたら、自然エネルギーを普及させたくない人達が、この日本のどこかにいるのだろうか?
そしてその時、そんな想像を思わずしてしまったのだ。もちろん、かなりの情報不足な状況下でのただの“想像”だから、信用なんかまったくできないのだけど。
――そして、そんな認識のまま、東日本大震災が起き、原発事故が起きた。電力不足の事態に陥ったと発表があり、節電の必要性が叫ばれた。だけど、同時にその辺りからこんな噂も聞き始めた。
本当は、電気の供給量は足りている。電力会社の発表には、揚水発電の発電分が含まれていないし、原発なしで夏を乗り切ったという実績もある。電力会社は、いや、原子力産業は、嘘の発表で原子力の必要性を懸命に演出しようとしている。
僕はこの噂のその真偽の判断を保留にした。どこまで本当の話なのか分からなかったからだ。それに、この節電の話には国全体も巻き込んでいたから、そんな事ができるとなると、原子力産業はかなりの権力を掌握している事になる。原子力産業と官僚の結びつきだとか、そういった汚職関係の話は、随分と前から聞いているから、ある程度の影響力はあるだろうけど、果たしてそこまでの力があるのだろうか?
それで僕は取り敢えず、その電力不足は本当だという前提を受け入れることにした。本当に電力不足だった場合に節電していなければそれこそピンチだ。少なくとも短期的にはその判断は正しいはずだろう。
ただ、もやもやとした疑問は抜け切らなかった。こんな事態に陥る前にも感じ続けてきた腑に落ちない思いとそれは混ざり合ってより強固な疑問になり始める。
思う。何故、日本は自然エネルギーを推進しなかったのだろう? それで、僕はもっと真剣に、この事について考え始めたんだ。
日本はサンシャイン計画で、太陽電池開発に莫大な予算を割きながら、その後はそれをそれほど積極的には活用してこなかった。しかも、こういった大義名分は公共事業で甘い汁を吸う口実としては、持って来いのはずなのに。「採算性がないから」、と言う人がいるかもしれないけど、それはあまり関係がない。そもそも、日本の行った公共事業の多くは、採算性がないどころか維持費も捻出できず、大赤字の大失敗に終わっているものが多いんだ。巨大な釣堀と化した港や、飛行機が来ない空港、車の通らない道路など(これらの失敗により発生した借金は、社会全体の重い負担になり状況を混乱させている)。ビジネスとしての成功なんて、官僚や政治家はあまり考えちゃいない。自分達の懐に金が入ってくるかどうかが重要。そう考えた僕は、ますます不可解に思う。どうして太陽電池や風力発電でこれをやらなかったのだろう? 更に言うなら、風力発電は場所を見極めるのが難しいから失敗する可能性もあるけど(というか、実際自治体が始めて失敗した例があるのだけど)、太陽電池なら造ればほぼ活用する事が可能なんだ。移動も簡単だから、失敗の可能性は低い。仮に汚職ありの公共事業としてでも、太陽電池を造りまくってくれていれば、原油高の影響も小さくなっていたはずだ。
そこまでに考えが至ると、僕は思わずこんな想像をしてしまった。自然エネルギーを推進すれば、原子力産業と競合するだろう事は、簡単に予想できる。もしかしたら、原子力産業が、その推進を拒んできたのではないだろうか?
何度も同じ様な“お断り”を書くけど、もちろん、これはただの想像だ。飽くまで想像。ただし、原子力産業の体質を考えると、全くの馬鹿げた想像とも思えない、気もする……。
ここで原子力およびに原子力産業について、書いておくべきかもしれない。原発事故が起こった当時、僕がどう認識していたかについて。
近年に入って、原子力はルネサンスを迎えたと言われていた。エネルギー資源の枯渇や、CO2問題で再び注目が集まったんだ。ウランはそれほど豊富な資源ではなくて価格が高騰する危険は充分にあるし、50年以上の規模で観れば枯渇する心配もあるのだけど、それでも活用すれば、総体としてエネルギー資源の寿命は延びるから、その活用は納得ができる。そして、日本は原子力についての技術先進国でもある。単独ではないけど、技術提携や事業提携で、トップレベルに立っているんだ。
更に、原子力の燃料であるウランは世界各国に産出地が分散していて、中東やロシアの情勢で供給が不安定になる原油のような政治リスクが少ない。今のところは、ウランの価格だって安い。
また、エネルギー資源の枯渇は、第三次世界大戦を引き起こすとすら言われている大問題だから、その点も考慮に入れる必要がある。原子力エネルギーはこの事態に進むのを、緩和してくれているのだ。
とこうメリットがある、とは認識していたのだけど、なら僕が原発を支持していたのかというと、それも違う。だから、少しずつその危険性を訴えてきたし、原発に頼らなくても良いように、自然エネルギーを推進する上での経済的な課題を乗り越える方法を提案してきた。何故なら、どれだけ一つ一つが安全であっても、数を造ればその危険性は急激に増加するからだ。それが、確率論の常識。
それに、原発産業関連の黒い噂も気になっていた。例えば、高速増殖炉の問題。これは、発電すると同時にプルトニウムを生産し、ウランの枯渇と共に終わる原子力の寿命を飛躍的に伸ばす為に必要な原子炉だ。これが成功すれば、確かに夢のようなエネルギー源を手にしたと言えるかもしれない。だけど、この開発は間違いなく超危険で、世界中で開発を断念している国が多発している。特に地震が多い、日本のような国で開発するのは、狂気の沙汰と言えるはずだ。ところが、何故か日本はこの開発を諦めなかったんだ。致命的と言えるほどの問題が起こっても、まだ開発をし続けようとしていた。危険の高さを考えるのなら、直ぐに中止を決定すべきなのに。断っておくけど、成功はほとんど望めない。そして、失敗時には悲惨な結末に至る可能性が大いにある。高速増殖炉で扱われるプルトニウムは猛毒だからだ。爆発が例え小規模で終わっても、そんなものをまき散らされたらどうなるのか……。
では、どうして開発をし続けるのだろう?
飽くまでイメージなのだけど、社会全体の負担になると分かっていながら無駄な公共事業を行い続けた国の体質を、僕はそこに重ねてしまった。つまり、これは失敗する公共事業の典型的な一例なのではないか?とそう考えた(「当たり前だろ」っていう一部の方々の声が聞こえてきそうでもあるけど)。
自分たちに金が入りさえすれば、失敗も成功も関係がなく、そしてだからこそなのか、その判断力は極めて低い。
人間は権力を握ると、倫理観や判断力が低下するという結論を出した心理学の実験があるのだけど、僕はその結論は歴史的にも納得ができると思った。そして、これはそれが当てはまるケースの一つだとも。
他にも原子力関係の利益を護る為に… てな話はよく聞く。それにイメージ戦略のウソというか、ウソに近いものにも僕は触れてきた。原発推進を訴えるポスター。原子力発電はわずかなウランから膨大なエネルギーを取り出せる効率の良い発電手段だと、可愛いイラストで説明してある。でも、実際はそのわずかなウランを精製する為に、膨大な鉱物資源を掘り起こさなくてはならないんだ(精製の際には、二酸化炭素も出す。それほどの量ではないにしても)。知識のない子供なら、騙されてしまうかもしれない。酷い話だ。
それに、そのポスターの存在自体も気がかりだった。このポスターを作る費用は、いったい、何処から出ているのだろう? まぁ、普通に考えるのなら、原子力政策を推し進める国から。つまり、税金だろう。その手の費用は、果たして原発コストに含まれて計上されてあるのだろうか? 断っておくけど、これはポスターだけの話じゃない。他にも、原発周りには、金がかかりまくっている。
そんな疑問を持っていた僕は、原発が低コストという話も信じてこなかった。国が発表するこの手の数字なんてまともに信じられるはずがない。カロリーベースの食料自給率や低く見せる為に工夫された完全失業率の条件設定。その他、今までにどれだけの情報隠ぺいや誤魔化しがあったと思っているんだ? ただし、確証があった訳ではないから、僕はこの手の話題は避けてきたのだけど。
福島原発事故が起こった直後の、僕の原子力及びに原子力産業に対する認識はこんなものだった。そして僕は福岡原発事故の影響があっても、原発ルネサンスは止まらないのではないかと予想してもいた。実際、原発事故は、発展途上国の多くやアメリカなどの原発政策に冷や水を浴びせはしたけど、基本的な姿勢までは変わっていない。ただし、この日本での反原発がここまで大きくなるとは僕は思っていなかった。それは僕にとって嬉しい話でもあった。まだ分からないけど、このままこの流れが止まらない可能性も大いにある(いや、止めてはいけないのかもしれない)。
そして、そんな頃、様々な原発や送電網に関する話も聞き始めたんだ。例えば、原発は海外では高コストというのが常識、という話や、膨大な日本のプルトニウム保管量とその費用。更に原発の発電コントロール能力の低さと、大規模な揚水発電の存在。他にも、電力会社以外の発電分も合わせれば、実は日本が電力不足に陥る事はない、という話。ここには送電網の話も絡んでいて、僕は当然、今までに得た送電網の知識を思い出した。
また、東電への救済措置に、税金を投入するのなら、原発に投資していた銀行も負担をするべきだ。という真っ当な話に、よく分からない反論が出た点も気になった。普通、投資にはリスクが伴う。その投資先が税金で救済されるというのなら、そんなものは投資とは言えない。これは、そのまま銀行に税金を渡すのと同じ行為だ。もちろん、社会的混乱が軽微で済むレベルに収める必要はあるけど、銀行が東電救済の為に、一部負担するという発想には正当性がある、と少なくとも僕はそう判断していた。だから、少々の怒りを覚えた。
そしてそこに至って、僕はもっと積極的に原子力発電について学んで来なかった事を反省した。今まで、原発だけを専門に扱った本は読んでこなかったんだ。エネルギー関係の話を扱った本に、一部含まれていたに過ぎない(稀に全く関係のない本にも登場したけど)。原発を専門に扱った本は主張が偏っているものが多そうに思えた。それで、誇張や情報提示の印象操作が行われているだろう点を嫌って、気にはしつつも、僕はあえてそれを避けてきたのだけど、もう避けている場合ではなさそうだった。
それで僕は、本屋に並んでいるうちの一つを買ってみたんだ。十年以上前に出た少し古い本だったけど、内容は充実しているようだった(原発事故の後だからなのか、図書館で本を探したけど全て貸出し中だった)。因みに、反原発派の本だ。もちろん、反原発の主張にとって都合の良い情報の解釈や強調や誇張、時には誤解、があるだろう点は考慮しなくちゃならない。
(断っておくけど、こういうのは多かれ少なかれ誰にでもある傾向だ。僕にももちろん、あなたにも。意図的なものは問題外にしても、特に責める値しないと思う。これは防ぎきれない人間の性だ)
そして僕は、読んだ中から誇張されていない信用できそうな情報を選り分けていった。他の知識やネットから得られる情報との一致や、演繹的に考えて正しいだろうと思えるもの。その結果、大変な勉強になった。
プルトニウムの問題点や、揚水発電が原子力発電の為に造られたという話。揚水発電に関しては自分の予想が正しいと確かめられたので嬉しかった。原子力発電は、実は急には停止できず、夜間などに無駄な発電をしてしまう。だからその無駄に発電した分を溜めておく(或いは、使う)必要があるのだけど、その為に揚水発電は造られたらしいんだ。因みに、この揚水発電はそのまま自然エネルギー発電の蓄電手段にも使える。しかも、2000万Kw以上と大容量(僕はこの存在を知って、自分の中での日本における風力発電の価値を、かなり引き上げた)。
揚水発電の存在は、自然エネルギーの本にも出てきたのだけど、コストがかかり過ぎるから規模は小さいと書かれてあった。僕はこの話を信じてしまっていた。原発の本を読んでいれば、正しいだろう情報を得られていた訳だ。原発の為に造った揚水発電は含まれない、という解釈もできるけど、原発コストに揚水発電が含まれていない事(含まれていないらしいのだけど)の正当性を訴える言い訳に、自然エネルギーにも活用が可能、というものがあるので当たらないと思う。
色々と書いておきたい話は他にもあるのだけど、その中で今回僕が特に強調したいのは、原発は実はかなりの高コスト(かもしれない)という点だ。因みに、「もし仮に国の後ろ盾がなければ、金融機関は原発に一切融資を行っていなかっただろう」、と発言した銀行員がいる。もちろん、コストがかかり過ぎて、採算性がないという意味だ。これなんかは、原発はコストがかかる、という話を裏付ける別方面からの情報になると思う。そして、そのコストの中で僕が一番、問題だと思ったのは核廃棄物処理に関するコストだった。
何故、僕がこれを問題にするのかと言うと、核廃棄物処理が、実質的な将来の労働力に影響を与えるからだ。仮に、核廃棄物処理のコストが既に電気料金に含まれてあるのだとしても(その事自体、どこまで信用できるのか分からない。何故なら、核廃棄物処理にどれだけの予算が必要なのか本当には誰も分かっていない、という話もあるからだ)、それは単なる積立金に過ぎない。そしてお金には実体がない。どれだけ、積立金が用意されてあったとしても、その時代に労働力が存在しなければ、結局は、別の医療や福祉やその他の生産物を減らして、核廃棄物処理に労働力を充てる、という事をしなくちゃならない。つまりは、それは将来世代の極めて実質的な負担になってしまうんだ(積立金、という事は、通貨価値が下落すれば、大きく目減りする。その問題もある)。この膨大な費用を嫌うのであれば、核廃棄物処理に手を抜かれる可能性もあり、そうなれば、また健康被害が心配になってくる。
高齢者社会や、財政問題でただでさえ若い世代への負担が心配されているのに、ここに核廃棄物処理の負担も加わる訳だ。現役世代が減り続ける中で、この事実は悲劇的なニュースと判断せざるを得ない。
通貨の循環を創れば、それを利用して経済成長が可能だ。例えそれが、核廃棄物処理という誰も望まない生産物だとしても。ところが、それが可能な前提は、労働力が余っていることなんだ(僕が散々、他で主張している方法なのだけど)。労働力が足らなくなるだろう将来には、使えない。
と言っても、これは将来の話だ。それまでにはもっと生産効率が上がって、もしかしたら、少子化にもかかわらず、労働力が余っているかもしれない。大きな問題ではあるけど、直近の課題でないのは事実だ。だけど、実は原発のコスト問題は、“今”の問題でもあるんだ。何故なら、少し前にも書いたけど、日本の電気料金は高いからだ。世界一高いと評している人もいるくらい(ただし、これに対して、反論している人もいる)。
もし仮に、原子力発電が、原子力産業が述べるように本当に割安なのだとすれば、日本の高額な電気料金を説明できない。それは、これまで述べてきた通りに、本当は原発は高コストである可能性がある点ももちろん影響しているのだろうけど、それだけじゃない(因みに、原発大国のフランスは、原発を安く見積もる為に、かなりの無理をしていて酷い状況に陥っている、という話もある)。
普通、販売を独占されると商品の価格は上がる。競争相手がいない為、その企業に自由に価格が設定できるからだ。これは電気料金でも同じで、独占されると価格が上がる。しかし、日本は電力会社以外でも発電を行っている企業が多くあり、しかも、それを売りたがってもいるし実際売ってもいる。だから、完全な電力市場の独占には当たらない。ところが、送電網を電力会社が所持してしまっている為に、実質、自由競争は行われていない状態らしい。当然の話だけど、電気を送り届け供給する事ができなければ、電気を売れるはずがない。
その為に、日本の電気料金は高くなってしまっている、と言われている。そして、安定した高い電力料金に依存して、電力会社は、放漫経営になってしまっているというんだ(個人的な経験なのだけど、僕は一時期、仕事でそれに関わった事があるから、よく分かる)。
先に書いた通り、アメリカでは送電網を開放していて、自由競争が行われている。結果として、電気料金が安くなっている訳だ。ただし、原発大国のアメリカの電気料金が安い理由は、これだけではないのかもしれない。アメリカでは、原発は軍が管理している(他の国でも?)。詳しい事情を知らないから、憶測で言うのだけど、エネルギー政策という名目で、税金が軍につぎ込まれているお蔭で、結果として安い電気料金が実現できている、のかもしれない(税金が原発の為に使われている、というのは日本でも同じだけど)。アメリカの近年の原発推進の背景には、軍産複合体に資金を供給したい、という一面がある可能性もある(核の軍事利用を縮小させる代わりなのかも)。
少し話が逸れた。元に戻そう。もしも、電力会社が所持している送電網を開放し、電力市場の自由化を行えば、日本の電気料金は下がるかもしれない。そして、電力を売りたがっている企業が電力を供給し始める事で、電力不足問題も解消される可能性はかなり高い。もちろん、自然エネルギー発電の買い取り制度が始まっても送電網を開放していれば、電気料金は上がらない可能性もある。
ただし、問題点もある。短期的にはガスや石油による火力発電による発電が活発化するから、CO2を多く排出する事になるかもしれない(近年の火力発電は効率が良いので、大きな心配はないかもしれないけど)。また、先に書いた通り、電力事故が多発してしまう可能性もある。更に言うなら、電力供給を巡っての混乱が初期は起こる可能性もある。送電網開放の成功例もあるらしいから、確定した訳じゃないけど。でも、何よりの懸念は、電気料金の値下がりによって資金不足が起こり、核廃棄物も含めての原発の安全な管理が行われなくなる、その可能性がある点かもしれない。そうなれば、そこには税金が投入されるか、各地域での汚染が始まるか。
さて。
これを読んだ人の中には、不確実な情報ばかりを提示されて、どう判断をすれば良いのか分からない、とそう思う人もいるかもしれない。だけど、本当は世の中には不確実な情報で満ち満ちているんだ。情報に対して誠実な態度を取れば、どうしたってこういう書き方になってしまう。もちろん、今回の内容だって僕というフィルターを通してのものだから、歪められてしまっているのは避けられない。価値観の問題もあるしね。
だけど、情報が不確実だからといって、必ずしも判断ができない事を意味しない。何故なら、情報が不確実で不完全でも、判断を行う為の思考テクニックが存在するからだ。
ただ、その話をする前に、もう少しだけ前提となる情報を加えさせて欲しい。
(ここから先は、僕が何度も訴えている“通貨循環モデル”に関する内容なので、もう充分に理解している人は、読み飛ばしてもらって構わない)
世間では、太陽電池や風力発電を開発すれば経済に悪影響だと訴えられている。でも、これは本当の話なのだろうか? 実際、これと全く逆の主張をしている人もいる。自然エネルギーの開発は、経済に好影響だ。
直感的に分かる話からし始めると、太陽電池を生産すれば、その分、国内総生産量は上がる(生産量が上がるのだから、自明)。国内総生産量が上がる事が、経済成長を意味するのはそれほど経済に明るくない人でも知っているだろう。つまり、当たり前に考えると、太陽電池生産で経済は成長する事になる。更に、自国内でエネルギーを生産するのだから、石油や天然ガスやウランなどといった資源の輸入が減るので、その分での国内総生産の上昇もある(国内総生産量を求めるには、輸入分を差し引くからだ。もっとも、太陽電池の原材料は輸入しなくちゃならないので、多少は相殺されるけど)。
では、経済成長に悪影響だというのは、全くのデタラメなのか、というと実はそんな事もない。何故なら、太陽電池は最終的な消費物ではく、そこから生み出される電気こそが最終的な消費物だからだ。太陽電池は他の発電機に比べて高いから、当然、電気だって高くなってしまう(もっとも、先に述べた通り、既に日本の電気料金は高額だから、送電網の自由化が行われれば、分からないけど)。
すると、高くなった電気料金が、企業や個人の負担となり、経済に悪影響を及ぼす可能性は大いにある。
だけど、これには回避手段があるんだ。経済に悪影響を与えるのは、太陽電池が最終的な消費物ではないから。なら、太陽電池を最終的な消費物にしてしまえばいい。つまり、消費者が太陽電池を買う、のと同じ状態にできれば、太陽電池開発で経済は成長する(労働需要が高くなるから労働賃金も上がり企業負担になるけど、これはその造った太陽電池の活用方法によっては回避できるし、日本の国際競争力なら、今は大きな問題にはならない可能性の方が大きい)。
実現する方法は簡単。税金か、または公共料金で金を徴収して、それで太陽電池を生産し、社会に提供すればいい。中小企業に無料で貸し出せば、企業援助になるし、公共施設に貸し出せば、税金の節約になる。消費者の支出は多くなるけど、収入も増えるので、大きな問題にはならず、最初の一回目の料金分だけに関しては、通貨の増刷によって支払う事も可能。通貨需要の増加分、通貨供給を行うから、悪性のインフレにはならない。
太陽電池を例に出したけど、これは他の自然エネルギーでも同じだ。
余談だけど、太陽電池は災害にも強い。仮に送電線が切れたり発電所が停まっても、日光さえあれば各地域で発電が可能だからだ。また、太陽電池は再利用効率が高く、風力発電は耐用年数が100年以上と長い。そして維持費も極めて安価なので、労働力が余っている今の内に、その労働力を利用して生産しまくっておけば、将来の労働力不足の時代に備えられる。
もちろん、日光や風力なら資源枯渇の心配もなく、燃料価格の高騰もあり得ないので、長期的視野に立てば、安定したエネルギー源だと言える。
さて。
これで、僕が提示したい情報は全部だ。それでは、行動を判断する為の思考テクニックを説明し始めよう(と言っても、僕も素人レベルの能力しかないのは分かって欲しい)。
まずは、行動及びのその結果のフローチャートを作成する。とても簡単な内容で構わない。後は、その結果とかかるコストと可能性を分析して、どの行動を選択するのが一番適切かを判断していくのだ。これは、そんなに難しい作業じゃない。
今回のケースでは、原発推進か脱原発か、だから、こんな風になる。
原発推進→高コスト(と仮定)→労働負担増大(ただし、輸入さえ増えなければ、経済成長を伴う)→(数十年後)ウラン枯渇により、労働不足状態で急激な方針転換を迫られる。超高コストかつ悲惨な状態。
原発推進→低コスト(と仮定)→労働負担低→(数十年後)ウラン枯渇により、労働不足状態で急激な方針転換を迫られる。高コストかつ悲惨な状態。
脱原発(自然エネルギー利用)→高コスト→労働負担増大(ただし、経済成長を伴う)→(数十年後)維持費がかからないエネルギーに頼っているので、労働力不足でも問題なくエネルギーの供給が可能。
少し説明を補足すると、労働負担増大で経済成長すると言っても、一部の人間に利益が集中すれば、それは一時で終わる(つまり、今の公共事業と同じ)し、電力が最終消費物となるような方法では、経済成長が起こらない可能性もある。これは、自然エネルギーによる経済発展の説明で述べた通りの理由による。労働力が余っている状態なら、その労働力を使えれば、労働負担の増大はそのまま経済成長だと考えて欲しい。直感的には理解し難いかもしれないけど、原発のお蔭で仕事がある人がいるという現実を観れば納得できると思う(ただし、今の方法だと、その資金源は国の借金なので、大きな問題がある)。
また、高速増殖炉の開発と普及は、危険過ぎるので問題外とした。
さて、話を戻そう。
このフローチャートを分析すると、近視眼的に近い将来を想定するのなら、高コストでも低コストでも大きな問題はないように思える(もちろん、原発に絡んだ利権構造は大問題だけど)。ただし、ウラン価格が高騰すれば、経済成長を伴わない社会負担となる。電気料金ももちろん上がる(発展途上国などで、原発が製造されているので、この可能性は大いにある)。また、これは大事故が起こらないと想定してだし、放射能による健康被害が起こる可能性もある。これらのリスクを大きく評価するのなら、近い将来でも大問題となり選択するべき行動ではない、となる(健康被害については、特に可能性が大きい)。
数十年後の将来を想定すると、ウラン枯渇により、必然的に脱原発を迫られる。しかも将来は、労働力が余っていない可能性が大きいので自然エネルギーを開発しても、経済成長が起こらない。他の生産物を減らし、自然エネルギー開発の為の労働力を確保しなければいけないからだ。また、核廃棄物の量が多ければ多いほど、この処理や管理に必要な労働力も多くなるだろうと予想できるので、原発推進の場合、この分での負担増もある。
つまり、数十年後の未来を想定した場合、原発推進はほぼ確実に社会にとってマイナスなんだ。仮に原発に関するコストが高くても低くても。ご高齢であろう今の原発産業で高い地位にある方々にとっては、全く関係のない話かもしれないけど、今の若い世代にとっては、大問題のはずだ。
今のうちに、自然エネルギー利用による社会体制を作り上げ、将来のエネルギー資源不足と労働力不足に備える、というのは当たり前に理解できる発想でもある。
つまり、僕の結論はこうだ。
どれだけ急ピッチでやるかどうかは別問題にしても、脱原発の路線はほぼ確実に正しい。日本の核兵器保有を目指す人や、将来の事なんか考えていない人にとっては、反発したくなる結論かもしれないけど。
また、自然エネルギー利用の社会体制を作り出せれば、恐らく、そのモデルは世界中で利用できる。すると、貧困地域の減少や紛争の低減なんかの影響もあるだろう。極めて危険な高速増殖炉を開発しようとしている、中国やインドやロシアなどの計画をストップできるかもしれない。
(断っておくけど、原発事故は世界中に迷惑をかける。その国だけの問題じゃない)
送電網の開放については、基本的には賛成だけど、リスクがある点は覚悟しなくてはならない。初めから問題があると分かっているのなら、問題点とその原因を洗い出して対策を進めればいいのだけど、それを国がやってくれるかどうか……。
最後に、もう一度断っておくと、これは飽くまで僕の価値観による僕の結論。不確実な情報を解釈する場合は特に、その人の価値観に左右されるから、公平に情報を分析しようと思っても、完全には実現できない。その点は、どうかよく考慮して欲しい。
以上、2011年7月
初め、小説とエッセイの間、みたいな感じで書こうとして挫折しました。
いつもみたいに”ですます調”じゃないのは、だからです。
仕事がもっと楽になって、文章に集中できたらなー… いやー、どうせ、たかがしれてますけどね。