第五十五話 後悔先に立たず
ふらつく足取り。
重たい体。
連日連夜無理を重ねた体は、少しずつ限界に近づいている。
激しく欲する睡魔を振り払った蓮璋は、まだ夜も明けきらぬ暗い家路を歩いて行く。
「流石に、辛いな」
まだ三日。
そう、たった三日しか経っていない。
けれど、それまで積み重ねてきた無理が今になって蓮璋の体を蝕み始めている。
此処に来てから、一度だって心安らいだ日は無かった。
常に、怯えていた。
あとどれだけ、無事で居られるのだろうか。
いつまで、自分達はここにいるのだろうか。
ここに住む者達に未来はあるのだろうか。
過去に受けた悪夢の仕打ちに心は傷つき。
この谷に住まう中で、少しずつ疲弊していった。
そもそも、此処に落ち延びるまでに自分達の心は粉々に砕け散っていた。
蓮璋を始め、家族を殺され、自身の命を狙われ。
更に、彼らはーー。
蓮璋は寄り掛かっていた壁に背中を預け、目を閉じた。
タラリと流れ落ちた汗は、あっという間に頬を伝い地面へと散った。
そう……命など、簡単に消える。
消される。
たとえ、どうしようもなかったとしてもーー。
奪われた方にとっては、「どうしようもなかった」なんて言葉が通用する筈もない。
血に濡れた手。
たとえ、追い詰められていたとはいえ、確かに彼らは罪無き者の命を奪った。
蓮璋はそれを止められなかった。
たとえ自分が手にかけたわけでなくても、蓮璋は止められなかった時点で、実行した者達となんら変わりないのだ。
血塗れの罪神。
そう……この手は、この身は返り血で濡れている。
見殺しにした相手の血で。
夢に見る。
毎日のように、本当は見ていた。
殺されたーーあいつの父の夢を。
見殺しにされ、怨嗟の声と共に堕ちていく彼を。
せめて、残された家族だけでも守りたかった。
いや、守るなどおこがましいかもしれない。
それでも、守りたかったのだ。
彼らを。
蓮璋にとっては、大切な友でもあったのだから。
『仕方がない……か』
加害者達の言葉に、静かに呟いた友に何を言えただろう。
父が嬲り殺しにされていく姿を目の当たりにさせられた、彼に。
父を守ろうとしていた。
泣き叫ぶ声は、今も蓮璋の耳に刻まれている。
泣き叫ぶ母親の声。
助けてと喚く妹の声。
淳飛の父を殺した事で、ようやくパニックになっていた者達は正気に戻った。
それ以上、被害者は出なかった。
そうーー淳飛の父はある意味貴い犠牲だった。
けれど、家族からしたら、そんな言葉ですまされるものじゃない。
どうしてそれが自分の家族だったのか。
他の相手でも良かったではないか。
何が貴い犠牲だ。
父を返せ、夫を返せ。
大切な家族を返せっ!!
全て当たり前の主張だ。
憎まれて当然だ。
あの時、逃げるべきではなかったのだ。
いくらパニックになっていても、やって良い事と悪い事がある。
そうーーせめて、蓮璋だけでも、声を上げるべきだった。
たとえ、それが大波の前の葉っぱだとしても。
小さな、すぐに消される灯火だとしても。
それでも、その声が誰かの心に小さな波紋を起こせると願って、信じて。
けれど、それも今更だーー。
犯した罪は消えない。
向けられる憎悪も無くならない。
淳飛との仲も……壊れたまま。
蓮璋は、ゆっくりと目を開けた。
月明かりが目に染みたのか、視界が滲んでいた。
「……今更なんだけどな……」
どうして、今この時に思い返してみたのだろうか。
今までにもそのチャンスはあった。
けれど、それをしなかったのは蓮璋自身だ。
逃げ続けていたのだ。
そして、ずっと逃げ続けたいと心のどこかで思っていた。
だから、あえて押し込めたままにしていた筈なのに……まるで流れ落ちる水の様に次々とそれが心の中に流れ込んでくる。
記憶の箱が開く。
どうして、今思うのだろう。
今、思い出してしまったのだろう。
もしかしたら、これは一種の走馬燈なのかもしれない。
死ぬ前に見るという……。
実際、自分達の首には縄がかかっている状態だ。
足下は針の上。
少しバランスを崩せば、一気に首の縄は絞まる。
霧が晴れれば、すぐだろう。
この谷の運命は霧と共に。
霧が晴れてしまえば、全てが終る。
たとえ証拠を手にしても、先に谷が見つかってしまえばどうしようもない。
もうダメだーー
諦めの言葉を口にする者達が居た。
何でこうなったんだーー
己の運命を呪う言葉を口にする者達が居た。
それらの者達はまだ良い。
問題なのは……。
ーーから、霧が晴れ……じゃ……だろ
蓮璋は再び目を強く閉じる。
問題なのは、あの一部の者達だ。
それは、僅かな者達ではあるがーー蓮璋はその僅かの力の怖さを知っている。
たとえ最初は僅かでも、それはあっという間に強大な力となって襲いかかる。
そうーー淳飛の父が殺された時のように。
最初は小さなパニックが、あっという間に大きくなった。
小さな波紋が一気に大きくなるのを目の当たりにした。
だからこそ、小さな波紋が侮れない事を知っている。
淳飛の父が殺された時に、その小さな波紋を作る事を恐れないでいればと後悔する。
そして今、その言葉を口にする者達を危惧している。
「何があっても……守らなければ」
彼女達を守らなければ。
そして、彼女達を守るべく傷だらけになってもしがみついてきた、あの男を守らなければ。
もう、二度と淳飛の父の様な犠牲者を出してはならない。
過去は変えられない。
けれど、今動けば未来は変えられる。
その未来を変えるべく、必死に闘ってきた。
それと同じだ。
自分達の未来を勝ち取る為に闘うのと同じく、闘わなければならない。
彼女達を、疫病神と囁く者達とーー。
「……ん?」
キィィと言う音を捉えた蓮璋の耳は、そこで新たな音ーー足音に気付いた。
この時間に誰がーーそう思った蓮璋は、相手の姿を遠くに認めた。
と同時に、壁に張り付くようにして身を潜めた。
向こうからは曲がり角で視界を遮っているため見つかる事は無いだろう。
いや、その前に。
「なんでオレは隠れてるんだ?」
そもそも、そこである。
何故隠れる必要があるのか?
別にやましい事をしたわけでもないし。
と、そこで蓮璋はそれに思い当たった。
「こんな時間にどうしたんだ?」
そう……今は、まだ夜も明けきらぬ時間である。
空はまだ暗く、朝まで時間がある。
普通の者であればぐっすりと眠っているだろう。
それに、彼女の様子もなんだかおかしい。
ふらふらとした足取りは、夢遊病の患者を思わせる。
困惑する蓮璋を余所に、こちらに近づいてくる彼女。
外に出る気だろうか?
外に出るには、蓮璋が今来た道を戻るしか無い。
けれどこんな時間に外に出る理由は何だろうか。
散歩?
それともーー。
そうこうするうちに、彼女はすぐ近くまでやってきた。
そして蓮璋の目の前を素通りしていく。
まるで彼がそこに居る事に気付かないかの様に。
いや、実際に彼女は気づいて居なかった筈だ。
普段は強い意志の光が宿る瞳を見た蓮璋は、そこに何の光も見なかった。
真っ暗な、全ての光を飲み込む黒い渦。
死の穴。
人間界では、ブラックホールと言われたか。
体が震えた。
それが未知のものに対する恐怖からかは分からない。
それでも……蓮璋は止まりそうになる己の足を叱咤しながら、彼女の後を追い掛けた。
外への道を。
今、蓮璋がやって来た道を戻るように進む彼女の後ろを走り。
「王妃様ーー」
その手を後ろからとり、かけた声に王妃の体が小さく震えたのが分かった。
「……」
前を向いたままの顔が、どんな風になっているのかなんて分からない。
それでも、蓮璋は待ち続けた。
そんな自分の行動を不思議にも思った。
強引に振り向かせる事なく、ただその時を判決を待つかの様に待っている。
突然握りしめられて強張った体の緊張が少しずつ解けていくのが、掴んだ腕を通して分かる。
彼女がゆっくりと、こちらを見た。
ぼんやりとした瞳の焦点が蓮璋へと定まっていく。
パチパチと瞬き一つ。
小さな唇が、己の名を紡ぐ。
「蓮璋?」
驚いた様な眼差しだが、その瞳にあの美しい光を認めてホッと息を吐いた。
「こんな時間にどうしたんですか?」
「どうしたって……私……あれ?」
キョロキョロと周囲を見回す王妃に、蓮璋は首を傾げる。
「王妃様?」
「……あれれ?なんで、あれ?」
その言葉を、蓮璋は聞き漏らさなかった。
どうして、外に居るのだろうかーーと。
「確か……窓から、外を眺めていて……」
星空を静かに見上げながら。
「それで……聞こえて」
「え?」
何が?と質問する前に、蓮璋の耳がそれを捉える。
「……歌声」
歌声?
しかし、それっきり王妃の言葉は止まった。
どうかしたのかと慌てる気持ちを隠して見れば、しきりに首をひねってはいたが、そこには蓮璋の良く知る王妃が居た。
「……あれは……何だったのかしら?」
ぶつぶつと呟きながらも不安そうな様子を見せる王妃に、蓮璋はゆっくりと手を伸ばした。
そしてその背を安心させる様に叩けば、彼女はこちらを見上げた。
「とにかく、冷えますから部屋に戻りましょう。それに、まだ夜も明けきっていません。もう少し休んだ方が良いです」
そう告げた蓮璋にいつもなら王妃の同意の声が上がるだろう。
けれど、当の王妃はそれを受け入れがたいのか複雑な表情をしていた。
蓮璋は苦笑すると、小動物の様な王妃に新たな提案をした。
「……失敗したなぁ」
「……」
「いや、この場合は失敗ですらないか」
今宵の月は三つ。
夜の闇を照らす月の他に、輝く月の華二つ。
それは、夜空ではなく、眠りにつく者達の住処を見下ろす事が出来る高台に聳える大樹の枝に咲き誇る。
主の元から離れた二神は、夜の闇すらも引き立て役とする麗しい美貌にそれぞれの表情を浮かべていた。
一神は笑みを、一神は悔しさを。
とはいえ、後者から悔しさを感じ取れるのはごく身近な者達だけだ。
表面上は無表情とほぼ変わらない。
それでもなお、一片の曇りのない麗しい顔は月光すらも霞ませる絶世の美姫だった。
濡れた紅唇が軽く噛みしめられるのを見て、隣に立つ長年の友神が微笑んだ。
こちらも、恐ろしいまでに幽艶にして艶麗な美女である。
そんな美姫二神。
と言い切りたい所だが、彼らは正真正銘の男だった。
優雅に佇む柳は、そこが木の枝の上だと思わせない軽やかな動きで枝の先へと行く。
軽くしなる枝。
けれど、元が太いせいか、柳の重みをものともせず元の状態を保つ。
そんな相棒の姿など目に入っていない彼ーー玲珠はただその一点を見つめていた。
たとえ壁があろうと、彼には分かる。
神力が使えずとも、欠かさない鍛錬の末に獲得した武官並の五感で察知する。
「ああ、戻っていくなぁ」
「……」
美しい歌声に誘われた獲物は、現われた邪魔者の手によって再び奥深くへと隠されていく。
セイレーンという魔物が居る。
美しい歌声で相手を惑わし、遭難や難破に遭わせ殺す彼女達はそれぞれに美しい容姿をしているという。
玲珠の歌には、不思議な力があった。
それは神力というほどではないが、それでも彼が紡ぐ歌は聞く相手を惑わした。
そこに美しい美貌と嫋やかな所作も加われば、多くの犠牲者が積み重なり山となった。
昔はそんな事は無かった。
けれど、凪国に救われ己を磨くうちに、少しずつ現われたそれは、玲珠の武器の一つとなった。
暗示の一種と言えばそれまでだろう。
だが、神力の使用制限がなされている状態で、何故玲珠の歌声には他者を惑わすものがあるのかーー。
『神力とは違う要素だからじゃない?』
あっけらかんと言い切った上司。
けれど玲珠にとっては別にその力が何から成り立っているのかなんて、どうでも良かった。
大切なのは、これが玲珠にとって使い勝手の良い武器の一つという事だけだ。
そしてそれを使い、奏でた曲は玲珠の思惑どおり獲物を誘い出したーー筈だった。
あの、男ーー。
玲珠は、唇を更に強く噛みしめる。
多くの老若男女が焦がれて狂った赤いそれは、更に真っ赤な血を一筋流す。
「玲珠」
溜め息をつき、やはり木の枝の上とは思えない足取りで隣に立つと、その唇へと柳は指を這わせた。
白くほっそりとした指が魅惑の唇を撫でる様は、見る者が居れば滴る様な色香に本能を刺激されただろう。
「……あの……」
男ーー。
見る事すら叶わぬ。
焦がれる権利などない。
それでも、ただ一目。
危険だと分かっていたけれど、それでも歌った玲珠の願いを粉々に打ち砕いた、あの男。
ああ、腹が立つ。
怒りで腸がねじ切れそうだ。
憎い。
憎くて堪らない。
白い頬がほんのりと赤く色付く。
冷たい瞳に零下の華が咲く。
それらは、殺意と言う名の栄養を吸い、彼の狂気を成長させた。
「あれはいらないですね」
「ん?」
聞き返して見たが、その実浮かぶのは愉悦の笑み。
柳はくすりと笑って、玲珠の耳元に囁いた。
「何が?」
まるで言葉遊びの様に、誘う様に紡がれる言葉に、玲珠が言葉を返すことは無かった。
代わりに、響く歌声。
誰かに聞かせる為のものではないそれは、確かに彼らの中へと蜜毒の様に染みこんでいった。




