第五十話 駆ける
「美琳――」
静かに扉を閉めると、煌恋は月光が差し込む部屋の中央に立つ友神に声をかけた。
まるで祈る様な後ろ姿は息を呑むほど神々しく、穢れなき神聖さにそれ以上近づく事を躊躇わせる。
巫女――
そんな言葉が煌恋の中に浮かんだ。
それも赦されぬ想いに身を焦がしながらも、ひたすら神に祈り続けそのまま果てようとするかのような鬼気迫るものを感じさせる。
「煌恋」
名を呼ばれ、煌恋は目を瞬かせた。
視界に映るのは、心配げに煌恋を見つめる美琳の姿。
けれどその美しい顔にあるのは、煌恋に対するものだけではない。
今この時もあの場所へと駆けているだろう夫への気持ちが、この親友の中を占めている。
「美琳……」
なんと言えば良いのだろう。
大丈夫?
心配しないで?
玲珠さんは強いから――
違う――煌恋は心の中でそれを否定した。
美琳が心配しているのは、そんな事ではない。
もちろん一番は夫の身だろう。
しかしそれ以上に心配しているのは……。
『美琳を頼みます、煌恋様』
そう言って微笑んだ玲珠の笑みは――
どこまでも美しく。
黒く歪んでいた。
全身を駆け抜けた冷たい震えは、今もこの身に刻まれている。
美琳を残していく心配もあっただろう。
連れ攫われた侍女長様を助けに向かう意気込みもあっただろう。
けれどそれ以上に玲珠を占めていたのは。
憎悪と殺意。
果ての無い憎しみと殺意が、まるで茨の様にあの絶世の佳神に絡みついていた。
そして煌恋は気づいてしまった。
玲珠がこの時を待っていたのだと。
まさか、今回の事態は彼が裏で糸をひいていたから?――そんな疑念も抱いた。
しかしその考えはすぐに霧散した。
攫われた者達の中に王妃様が居たからだ。
玲珠が、元寵姫組が王妃様を危険な目に遭わせる事はまず無い。
何かで危険な目に遭わせなければならなくても、王妃様を危険な目に遭わせるぐらいなら適当な相手を見繕ってそちらを利用する。
それこそ、今回の事をもし玲珠が仕組んでいたとすれば、攫われたのは王妃様以外の誰か。
もちろん、侍女長様だって攫われたりはしなかっただろう。
だからこそ、今回の事は玲珠が引き起こした事ではなく、偶然の産物によるもの。
そしてその偶然こそが、玲珠にとっては長年の恨みを晴らす絶好の機会ともなった。
王妃と侍女長を連れ去った相手など、問答無用で潰せる。
ひいては、領主はその責任を問われて失脚するだろう。
煌恋の脳裏にあの男の姿が蘇る。
美琳を襲い、涼雪の額をかち割った男。
美琳は危ないところで助けられたが、涼雪の額には今も傷跡が残る。
神力を使えば傷跡は消せただろう。
しかし、神力制限されている今ではそれが不可能だった。
そうして消えない傷を涼雪に残したあの男は、美琳にも消えない傷を残した。
男性に襲われかけたという、恐怖を。
なのに、口さがない者達は面白おかしく言うのだ。
美琳の過去と絡めて、嘲笑った。
『煉国にて散々男達に体を開いた身なのだから恐くも何ともないだろう。なのに何を過剰反応して』
故郷で男達に暴行されていたから。
あの地下牢で、数多の男達に弄ばれ、暴力を振るわれ続けていたから。
だから慣れているだろう。
その時と同じだろう。
むしろ最後までいかずに助かったのだから良かったではない。
なのに何を騒ぎ立てているのか分からない。
彼らはそう笑ったのだ。
すぐに彼らの姿は王宮から消えたが、その話は美琳や玲珠の耳に入った。
当然ながら怒り狂った玲珠を美琳が必死に止めなければどうなっていた事か。
けれどその時、思い知った。
自分達はどんなに頑張っても、所詮は穢れた女としか見られていないのだと。
利用価値もあり、それぞれが秀でた才能を開花させた元寵姫組達とは違い、彼らの足枷となり苦しめる一因として見苦しく生きながらえた穢れた存在――それが、あの時神質にされた者達への評価。
そんな評価を下す者達はごく一部とはいえ、彼らからすれば『意地汚く生きている穢れた存在』でしかないのだ。
そうして今も、無力なくせして元寵姫組を縛る存在でしかない。
煌恋は拳を強く握る。
あれから百五十年近く。
元寵姫達には同情的な者が増えて来ているにも関わらず、神質達には厳しい者達が多い。
『言いたい者達には言わせておきなさい』
そう言ってくれた陛下。
守ってくれた上層部。
『ずっと側に居てくれ――』
元寵姫達の懇願。
本来ならば、もっとずっと早くに去らなければならなかった。
けれど、どうしても離れられなかった。
特に煌恋に至っては強引な手段で柳と結婚させられた身で、本当なら恨んでも当然だった。
けれど、恨めない、憎めない、怒れない。
なぜなら、心のどこかで煌恋は望んでいたから。
強引なそれに、どこかで甘え甘んじていた。
そう――結局は、彼らの言うとおりなのだ。
何もせず、ただ安穏と守られているだけで、頑張る元寵姫組にしがみつくだけの害虫。
そしてその害虫が原因で、涼雪は傷つき、そして玲珠は憎しみに支配された。
最後まで歪んだ笑顔のまま出立した玲珠をどうすれば止められただろう。
『海影』達と一緒に駆ける玲珠を。
柳も、煌恋の夫も止めてはくれない。
玲珠の暴走を止めるのは煌恋の夫の役目だが、きっとこの件に関しては止めてくれない。
共が望み続けてきた長年の願い。
それを、合法的に果たせる時が来たとなれば誰が止めるものか。
『海影』の長が玲珠を連れて行くというのは、そういう事。
美琳もそれが分かっていたから――。
でも、止められなかった。
ただ、王妃様の身を案じる言葉だけを伝えた。
どうかそっとしてあげてほしい――と。
けれど、煌恋には分かる。
その願いさえも、儚く散ってしまうのだろうと。
「玲珠達は今頃どの辺に居るのかしら」
「美琳……」
鶯州――。
そこで王妃様は攫われ、消息を断った。
鶯州――。
そこの領主の息子が、美琳を襲い涼雪を傷つけた。
その州へと向けて玲珠達が駆ける。
侍女長様を救い出し、今度こそ領主の息子を葬るために。
もう、言い逃れは出来ない。
責任を問われて失脚する。
身を守るもの全てをはぎ取られ、殺される。
それを望んで、駆ける、玲珠。
それを誰よりも望まなかった美琳に、煌恋は胸が締め付けられた。
優しい美琳は、争い事を好まない。
たとえ争う理由があったとしても、じっと我慢して全てを飲み込んで耐える。
あの暴行未遂事件の時もそうだ。
自分さえ我慢すれば――と、美琳は耐えた。
涼雪の事もあったのだろう。
涼雪もまた、下手に争う事で鶯州がどんな暴走を起こすかを危惧して自分の身に受けた苦痛を耐えた。
耐えられなかったのは、男達の方。
けれど彼らもまた、耐えるしか無かった。
なのにその壁が壊された。
もう、耐えなくても良い。
「怪我を……しないでくれれば良いのだけど」
「……きっと、無事に帰ってくるよ」
もう止められない。
それを悟っているからこその言葉に、煌恋は笑いながら頷く。
上手く笑えているか分からないけれど、それでもにっこりと笑って美琳を抱き締めた。
本当は、今すぐにでも後を追い掛けたいだろう。
駆けた玲珠を追い掛けて。
いや、本当は駆け出そうとした玲珠を、美琳は止めたかった筈だ。
でも、一度駆け出したものはそう易々とは止まらない。
後は駆け抜けるだけ――。
「到着~~」
茨戯が軽やかにその場所へと着地する。
それに一拍遅れて、玲珠や柳、部下達がその場所へと辿り着いた。
「ふ~ん……ふむふむ」
一神、茨戯は腕を組みながら周囲を見渡した。
その背後では、驚きに息を呑む気配、そしてざわめきが幾つも感じられる。
「茨戯様、これは」
「驚きよね~」
柳がマジマジとそれを見つめる。
深く暗く長い洞窟を進む途中、巧妙に隠された枝道を通った先に見つけた地下道の入り口。
それを通り抜け、今度は坑道のような場所に降りた。
そこは幾つもの分岐点のある非常に複雑な網目状の坑道だったが、匂いを辿れば迷う事無くたどり着く事が出来た。
そしてその先に広がる光景に、流石の柳も息を呑んだ。
「こんな場所が、あったなんて」
高い岩壁にぐるりと囲まれた『緑の楽園』。
茨戯達はようやく、王妃達を攫った者達の隠れ里に辿り着いた。
それは、茨戯達が王宮を出てから十一日目の事であり、王妃達が王宮帰還中に攫われてからは既に三週間が経つ頃だった。




