第四十七話 緑の檻
それから急いで支度をして三ノ宮を出た葵花は、大姉に引き摺られるように走らされていく。
「葵花、はやく」
「ま、待って大姉」
「待てない、はやく」
葵花達が駆け抜けているのは、『華檻庭』にある巨大迷路。
それは、『華檻庭』の中心に位置する七つの宮を守る為に存在する『緑の檻』であり、同時に『魔の迷宮』とも謳われる代物。
迷路を構成する緑の生け垣は天高く聳えて絶壁を築き、空からの侵入を阻むように枝と蔦がアーチ状の網を作り上げる。
右に左に前に後ろに曲がる道は方向感覚を狂わせ、更には幾つもの仕掛けが迷路に入る者を惑わせる。
実際に、初めてここを訪れる者はまず道に迷って遭難し、下手すれば生き倒れる者さえ居た。
いや、初めてでなくとも、この迷路を突破するのは至難の技とされていた。
そもそも七つの宮には、この迷路を通り抜けなければ行き来することは出来なかった。
七つの宮同士を行き来するのも同じ。
言い換えれば、侵入者や刺客が容易に侵入出来ないという事である。
そんな迷路を難なく行き来できるのは、この国の王と上層部、または彼らに認められたものだけとされていた。
葵花はその後者に当たる。
そして大姉は前者。
突然、緑で覆われた視界が開けた。
青空と共に現れたのは、目にも鮮やかな紅の屋根が特徴的な一ノ宮。
別名『椿宮』とも呼ばれるのは、その宮の至る所に椿の装飾が施され、更には宮の中に咲き誇る花はほぼ椿のみで構成されている事に由来する。
椿は紅と白に加え、実に様々な色が存在していたが、どれも息を呑むほどに美しく咲き誇っていた。
そんな一ノ宮は、見る者全ての脳裏にある存在を呼び起こさせる事でも有名だった。
この凪国の『椿姫』と謳われる、美貌の佳神。
七つの宮には基本的に主は居ないが、それでもこの『椿宮』の主に相応しいと密かに謳われる美姫。
男でありながら、性別を超越した清楚で儚い美貌から、その散り際も見事な花の名を取って『椿姫』と呼ばれ、この美形が多い凪国でも一際際立つ美貌の持ち主として名を馳せていた。
凪国宰相――明睡。
凪国国王の片腕であり懐刀。
優秀有能だがくせ者揃いの性格破綻者集団たる上層部を統括する手腕は、まさしく国王に次ぐ実力者といっても良い。
葵花の主である茨戯や、あの朱詩でさえ有事の際には明睡の命令に唯々諾々と従っている。
美しいだけでなく文武に優れ、打てば響くような機知と聡明さを併せ持った若き美貌の宰相。
多くの女性、いや、同性すら虜にする色と艶に血迷い、多くの者達が破滅させられた事も知っている。
加えて、冷酷で残忍な気性の上層部を纏め上げる手腕は凄まじいが、逆に言えば彼自身が他の者達に負けぬ冷酷で酷薄さを持つ。
けれど、葵花にとっては大戦時代からの付き合いで、優しいところも沢山あった事は今もずっと覚えている。
そして、涼雪との仲の事も。
だからこそ、葵花は信じられなかった。
涼雪に対する、明睡の仕打ちを。
そしてそれを黙認する、上層部を。
ただ一つ救いなのは、王妃が涼雪が妾として宰相に下げ渡された事実を知らされずに居たという事だけ。
それだけは葵花も心から安堵出来た。
もしあの優しい王妃が真実を知れば、きっと酷く悲しんでしまうだろう。
もうこれ以上、王妃に苦痛を味あわせる事などしたくなかった。
「お待ちしておりました」
耳を打つ凜とした声音に葵花は顔を上げた。
繊細で緻密な装飾の施された宮の入り口に立つのは、あの侍女――。
いや、涼雪を連れ戻しに来た侍女の一神が立っていた。
「さあ、どうぞこちらへ。涼雪様がお待ちでございます」
他の侍女達は涼雪のところだろうか。
いや、それ以外には考えられないだろう。
そして、あの侍女も。
葵花の前から涼雪を強引に引き摺るようにして連れ去った彼女は、今も涼雪の側で美しい美女彫刻の様に佇んでいる事だろう。
「遅れてすまない」
「いえ、涼雪様もつい先程湯浴みを終えられたばかりですから」
湯浴み?
その言葉に違和感を覚えて顔を上げた葵花は、次の瞬間驚きに息を止めた。
カツカツと澄んだ靴音を鳴らしながら、宮の奥から優雅にこちらに歩いてくる――。
「明睡様、もうお帰りですか?」
「ああ。仕事が残っているからな」
零れる色香をそのままに、更に壮絶なまでに艶めいた笑みを浮かべた明睡に葵花は凍り付いたようにその場に立ち尽くした。
「葵花か」
「……」
自分に気づいた明睡を、葵花はただ見つめ続ける。
そんな葵花を明睡が探るように見つめる中、侍女が助け船を出した。
「涼雪様が葵花様をお茶にお誘いされまして」
「お茶――ああ、客神が来るといっていたが、それが葵花だったのか」
そう呟くと、明睡がクスリと笑う。
腰が砕けるほど甘く蕩けた笑みに、侍女と大姉が顔を赤らめる中、葵花は冷たいものが背筋に走った。
「どうぞ――涼雪は部屋に居る。部屋の場所は知っているだろう? 前にも此処に招かれた事はあるんだし」
そこまで言って、明睡は「いや」と呟く。
「知らなくても案内させればいい」
「心配するな。私も知っている」
大姉の言葉に、明睡がかなり嫌そうな顔をする。
「ああ、そうだったな」
葵花のお目付役である大姉は、葵花が行くところは基本的にどこでも同行する。
葵花が気づいてなくても、だ。
「では、またな」
淡い笑みを一つ残し、明睡は優雅に歩き出す。
そうして、侵入者を阻む『緑の檻』の中に、その姿を消した。
「葵花様、どうぞこちらに」
再び中に促す侍女の声に葵花は宮へと視線を戻す。
ふと、濃厚な甘い香りを感じた。
「さあ――」
再度促され、葵花は大姉に手を引かれて歩き出す。
と、その足を止めた。
「あの」
「なんでございましょう?」
首を傾げる侍女に葵花は戸惑いながら告げた。
「様をつけなくていいです」
私はそんな存在ではない。
ただの孤児で、彼の方に拾われなければとっくの昔に死んでいたようなものだ。
しかも常識も何も知らなくて、彼の方が尽きっきりで世話をして教育してくれたから、まだ少しはマシになったぐらいで。
葵花より優れた相手などごまんと居る。
いや、葵花などとるにたらない存在以外のなにものでもない。
しかし、侍女はやんわりとした拒絶を見せた。
「主の客人を呼び捨てには出来ません。それに、あなた様は茨戯様の寵児ですもの」
――寵児。
その言葉に、葵花の頬に朱が走る。
まるで彼の方との関係を指摘されているようで、葵花はいたたまれなさに顔を背けた。
「では世話になる」
「はい」
だが、そんな葵花を余所に大姉は侍女と話を進め、躊躇する彼女の手を引き宮の中へと連れ込んだ。
そして辿り着いた最奥の部屋で一神、葵花は予想通りの光景を見た。
「ご、ごめんね。こんな姿で」
たかが二時間ほど。
先程別れてから再度会うまでのたった短い時間にも関わらず、やつれた様子の涼雪が長椅子に伏したまま消え入りそうな姿に葵花は確信する。
何度も言うが、彼の方とそういう関係になった事でそちらの疎さはほぼ改善されたといっても良い。
胸元と首筋に散らばる幾つもの紅華。
そして、涼雪が纏う雰囲気と、先程の明睡の濃厚過ぎる色香が簡単に答えを示す。
「よいしょっと」
涼雪が長椅子から体を起こそうと手を突っぱねる。
しかし、その手が滑った。
「あ」
「涼雪姉――」
慌てた葵花が涼雪に駆け寄るも遅く、その体が床へと転がった。
その物音に、お茶の用意をと席を外していた侍女、そして食べ物の匂いにつられて厨房までくっついていった大姉が駆けつける。
「どうしまし――」
二人が見たのは、床に転がる涼雪と葵花の姿。
互いに抱き締めあう姿に、侍女が持っていたお盆を取り落とした。
それは、庭で葵花から涼雪を奪い去った相手とは同一人物とは思えないほどの取り乱しっぷりで。
「涼雪様! あなた様は明睡様のものでありながらなんという事をっ」
「ふむ、たまには別の味を味わいたいという事か」
ずれた感想を紡ぐ大姉に侍女がキッと睨む。
「あなたも何を言うのですかっ! 葵花様のお目付役でありながら」
「別に涼雪は危険じゃないし」
「そういう問題じゃありませんっ! ああ、もうもう!」
キーキーと騒ぐ侍女に固まる涼雪と葵花が無意識に互いをギュッと抱き締める。
その姿に、侍女がカッと目を見開いた。
「そういう事はこの私にするべきですっ」
はい?
同時に疑問符を頭上に飛ばした涼雪と葵花。
だが、問う前に涼雪が侍女にガシっと奪い取られる様に長椅子に座り直させられている姿を見て、葵花は心の中で呟いた。
もしかして、あの侍女って。
しかし恐いので葵花はそれ以上は考えないようにした。
そして、涼雪を見つめる侍女の瞳に宿る妖しい光も見なかった事にした。




