第四十五話 『華檻庭』の住神達
ふと何かに呼ばれたように、葵花は眼瞼を開けた。
そうして開けた視界に、思いもかけない相手が映り込んだのはその時だった。
「――涼雪様」
石ころ一つ無い煉瓦造りの小道をこちらに向かって駆けてくるのは、葵花が姉の一神として慕う相手。
涼雪――。
涼やかな美貌は決して美少女とは言えないけれど、それでも柔らかで優しい笑顔に癒やされる者達は大勢居た。
そんな涼雪は大戦時代からの仲間であり、かつてはこの凪国王宮で王妃付きの侍女としても働いていた。
だが、それも今は昔。
五十年前……いや、正確には違う。
凪国建国と共に王妃付きの侍女として働いた涼雪は、更に十年昔の六十年前に一度その地位を返上した。
とある男性と結婚する為だ。
そしてそれは、凪国上層部を絶句させる程の驚きを与えた。
どうして、相手は宰相ではないのだろう?
互いに想い合い、しらぬは本神同士と言うほどに仲むつまじかった涼雪と宰相。
けれど、そんな予感は至る所で感じていた。
大戦時代、そして建国して間もない頃は当然の様に二神が一緒の姿を見ていた。
しかしいつの頃からか、その光景は減ってきた。
あれほど宰相――明睡様と慕っていた涼雪の歩みは遠のき、周囲を困惑させやきもきさせた。
それでも、二神を見ていれば一目瞭然。
今は少しすれ違っているだけと周囲が楽観していたのが間違いだった。
ある日突然、涼雪は上司である侍女長に結婚の報告をし、仰天させた。
その報せはあっという間に王宮中を駆け巡り、上層部を絶句させた。
けれど本当幸せそうに笑う涼雪に何も言えず、突然ぽっと出て沸いた男――どこかの領主たる彼の手をとり涼雪は去って行った。
それから十年、涼雪がボロボロの状態で周囲の反対を押し切った王妃の手で連れて来られたその時まで、彼女からの連絡は一つとしてなかった。
その時に、気づくべきだったのだ。
けれど、宰相は悲しみを紛らわせるように仕事に打ち込み、その鬼気迫る姿に誰もが何も言えなかった。
まるで腫れ物を触るのを拒むように、皆が遠巻きにし、涼雪の話をしなくなった。
ただ、王妃だけが呟いていた。
『涼雪は元気かな~?』
そうして戻ってきた涼雪。
彼女を呼んだのも、王妃だった。
会いたい、久しぶりに少しで良いから会いたいと夫に珍しく我が儘を言った。
それが結果的に涼雪を救った。
夫が涼雪にした仕打ちは今も上層部の心に憎悪を滾らせる。
実の母と合意の上での男女関係を結び、その隠れ蓑として、最初から利用する為に涼雪を娶った男。
涼雪を騙して結婚した男は、自分の領地に涼雪を連れ込んでから王の命令を拒みきれず、更には王妃自らの迎えに屈して涼雪を王宮に差し出すまで、ずっと軟禁していたという。
涼雪からは昔のような明るさは消え、まるで消え入りそうな儚さが漂っていた。
彼女自身は気付いていないが、酷く憔悴しており驚くほどやせ細っていた。
けれど、その時は周囲がどれだけ聞いても涼雪は何も話さず、ただ侍女として再び雇って欲しいという懇願のみだった。
そしてそれは受け入れられ、涼雪は再び侍女として働き出した。
それが今から三十年前のこと。
けれど、それから十年後――今から二十年前の出来事が、涼雪を地獄に叩き落とした。
夫に裏切られ、全ての罪を押し付けられた彼女は紆余曲折を経て宰相の妾として囲われる事となった。
いや、正確には涼雪の意思は全く無く、ただ物のように宰相に下げ渡されたのである。
卑しき情婦。
それが涼雪を罵る者達の言葉。
既にその時、宰相閣下には婚約者が居たのも原因だった。
婚約者は未来の花婿を情婦に奪われた悲劇の女性として周囲からの同情を買い、代わりに涼雪には愛妾として限りない侮蔑を向けられた。
愛妾、違う、ただの卑しい情婦、妾に過ぎないとして。
けれど――と、葵花は心の中で自嘲する。
「葵花、久しぶりね」
一メートルほど離れた場所まで来た涼雪が伸ばす手を受け入れる。
頬を撫でるその手をそっと握りながら、葵花は我が身を笑った。
涼雪様が情婦なら、私は娼婦――
情婦は正式の妻以外の愛神、妾を指す。
娼婦は、夜のお勤めをすることによって金銭を得る女性を指す。
「葵花?」
「涼雪様もお元気そうで何よりです」
自嘲しながら、それでも今はこの出会いに感謝することだけを考えようと葵花は自分の心を隠して笑った。
涼雪とは滅多に会えない。
それは涼雪を取り巻く状況に寄るものが多いが、それ以上にあの宰相に寄るものが大半を占めていた。
涼雪は王宮内にある宰相の屋敷の奥深くの一室に監禁に近い軟禁状態に置かれている。
だから、同じ王宮内に居る葵花でも会えるのはごく希な事だった。
それでも――。
それでも、まだ王妃が居た時は違った。
他の者達が宰相を慮って強く言えない中で、王妃だけは良く涼雪に会いに行っていた。
といっても、王妃が会いに行くようになったのは、涼雪が宰相の妾になってから一年ほど経ってからの事だったが。
また宰相も、他の者達は近づけずとも、王妃の来訪だけは渋い顔をしながら赦していた。
そんな王妃に連れられて、葵花は涼雪に会いに行っていた。
他にも美琳や煌恋、明燐、矢衣などが一緒に行っていたが、一番多かったのはたぶん葵花だろう。
そうして自由に外に出られない涼雪の為に、王妃と共に沢山の土産や外の話を持っていたのは今では懐かしい思い出だ。
そんな一時の逢瀬も、王妃の追放と共に終わってしまった。
今度こそ宰相は全ての来訪者を拒み、時折、まるで気紛れのように自分が居る時に涼雪を外に連れ出す。
そう、この、上層部だけしか入れない、王宮の最奥にある中庭に。
その中でも、ここは後宮に隣接する『華檻庭』と呼ばれる場所。
周囲を幾重にも檻で囲い込んだこの場所は、王妃が住んでいた場所の中庭とも通じている。
ただし――そこには、やはり頑丈な鍵のついた鉄格子がそびえ立っているが。
そしてその華檻庭を訪れる事が出来るのは、女性達と限られた男性のみ。
男女ともに上層部を除けば、他には上層部から認められた女性のみ。
男性は、あの元寵姫組でも許可がなければ排除される。
それは王妃の中庭に通じる場所でもあるから――というよりは、この場所自体に所以するものだろう。
『華檻庭』――その名のとおり此処は一つの檻。
外に出る事を赦されないモノに赦された唯一の外。
宰相が気紛れの様に涼雪を連れ出す先は、いつも此処。
だから涼雪に会いたければ此処に来るしかない。
『華檻庭』は中庭の一角といっても、かなり広く大きな池や花畑も存在する。
それに休憩所である四阿や、余裕で住む事の出来る大小幾つかの離宮もあった。
けれど、葵花はこの場所が嫌いだった。
ここは箱庭。
外に出る事を赦されないモノに与えられた偽りの外と自由――それが、この『華檻庭』の存在意義。
『葵花、良い子にしているのよ』
そう言って、葵花の敬愛する養い親は此処に彼女を放り込んだ。
葵花だけではない。
美琳や煌恋もこの『華檻庭』に居る。
葵花や美琳、煌恋は涼雪の様に軟禁されてはいない。
けれど、まるで自分達が居ない時にどこかに行くのを恐れるように押し込められた。
そこに葵花達の意思はない。
それが当然とばかりに、葵花達は此処に押し込められ、出られるのは茨戯達が帰った時。
「葵花――」
涼雪が何かを悟ったように心配げに声を揺らす。
ハッと我に返った葵花が慌てて口を開いた。
「ごめんなさい、何でもありません涼雪様」
「葵花……様なんていらないわ。昔みたいに呼んで欲しいんです」
涼雪の言葉に、葵花の視線が泳ぐ。
果たしてそう呼んでも良いのだろうか。
けれど、涼雪の哀しげな視線に耐えきれず葵花はその音を紡いだ。
「涼雪、姉様」
「なぁに? 葵花」
涼雪の笑みに葵花の胸がほんのりと温かくなる。
まるで全ての悩みが溶けていく様な笑顔は、どんな美しさも敵わない。
王妃の明るく優しい笑みも大好きだが、涼雪の笑みも葵花は愛しくてたまらなかった。
「本当に、あなたに会えて良かったわ――もう、半年以上経つのかしら」
「涼雪姉様」
笑顔が曇る。
優しく穏やかな笑みが悲しみに彩られる。
そう――もう、半年以上前だ。
涼雪と、前に会ったのは。
「あ、あの、あちらの温室に咲き始めの鈴蘭があるんです。見に行きませんか?」
葵花が慰める様に提案すれば、涼雪が目を瞬かせる。
けれどすぐに笑みを浮かべて頷いた。
「ええ」
しかし――それは冷淡なる声に破られた。
「涼雪様、お時間です」
「え――」
弾かれた様に葵花が涼雪の後ろを見る。
そこには、先程涼雪を見付けた時に側に佇み、今までも影の様に後方に佇んでいた妙齢の美女が居た。
他にも数神居たが、中でも彼女が一番美しく、それでいて一目で一番の権力者だと知れる。
いや、実際に権力者だ。
宰相の懐刀の一神と言われ、その側近として主を心酔する気持ちは葵花すら戦くほどのもの。
そんな彼女は、涼雪が宰相の妾として囲われた日から彼女付きの侍女、いや、監視役として常に側に居た。
「一ノ宮にお戻り下さい」
一ノ宮。
それは、この『華檻庭』にある七つの宮の中で最も大きい宮である。
そこが涼雪がこの場所に居る間の滞在場所。
葵花は三ノ宮に滞在し、美琳と煌恋は四の宮に住まいを持つ。
「さあ、涼雪様」
「で、でも」
涼雪の縋る様な視線も、その顔に被る鋼鉄な面の前には弾き飛ばされている。
侍女は涼雪を包み込む様に引き寄せた。
「あ――」
「涼雪姉様っ」
けれど、彼女にも情というものがあったのか。
涼雪を引き寄せたまま葵花へと告げた。
「涼雪様は離宮で休まれる時間ですからこれで失礼します。ですが、もうしばらくしたら午後のお茶の時間です。その時においで下さいませ」
時間を告げると、彼女は涼雪を連れ歩き出した。
その周囲を守るように他の侍女達が囲んでいく。
一神残された葵花が、近くに立つ時計塔を見上げた。
あと二時間――。
時間が来るまでは、断固として向こうはその扉を開けないだろう。
さて、それまでどう時間を潰すべきか。
ガシッ!!
「あれ?」
「葵花、一神で出歩いては駄目だと言った」
「大姉っ」
担ぎ上げられた葵花がその顔を確認した途端、悲鳴をあげた。
それは、『海影』に所属する数少ない女性である大姉。
と、本名は違うのだが、『海影』に所属する者達からはそう呼ばれて居る。
『海影』は男性と女性の比率は八:二。
そんな稀少な女性達の中で最も影歴が長く、長の信頼を経ている大姉は蠱惑的な肢体と艶美な美貌を持つ妖姫として名高い。
今回彼女は他の大半の『海影』達同様王宮でお留守番として残り、なおかつ茨戯から葵花の面倒を見るように仰せつかっていた。
と、そんな長の信頼厚い彼女だが、その生い立ちからか、大姉はど~こ~かずれている。
それは葵花など問題にならないぐらいに。
「子供は寝れば寝るだけ胸が育つ。だからお昼寝の時間は寝ろ」
「いや、それ違います」
な~んて、言っても大姉は手を離してくれなかった。
というか、そんなに育てなければ駄目なぐらいないか、胸。
(お、王妃様よりは胸あります――)
と、その時ぶるりと震えたのは、きっと某場所で王妃が怒ったとかではなく、ただの気のせい。




