第四十三話 偽りに隠して
月の光も遮る深い森。
けれど、その泉にあるのは、天上に輝く『月』よりも白く眩しい裸体の美姫達――。
ざばりと水面を貫くように、玲珠が水から顔を出す。
そのまま水をかき分け、岸辺の岩へとあがった。
既にそこには、柳が腰をかけていた。
水に濡れた長い髪は背に張り付き、白い裸体は男であるとは思えぬほど蠱惑的な輝きを放っている。
「すっきりしたか?」
「――ええ、少しは」
玲珠はそう答えると、岩の上に置いてあった柔らかい布で体を拭いていく。
張りと艶のある白い肌は、十代の若者だけが持ち得るものだが、玲珠は既に成神し見た目も二十歳を越えている。
少女が持つ危うく儚い美しさと大神の女性が持つ成熟した美を併せ持つ美貌が、闇の中でも隠れることなく輝く。
ほっそりとした白い二本の腕が、背を覆う髪をかき上げて後頭部で一本に結い上げる。
と、その手からはらりと蒼い髪紐が滑り落ちた。
「っ――」
水に落ちた髪紐が、その両端につけられた飾りの重さで水没する前に、玲珠は水に飛び込み拾い上げる。
「また濡れたな」
柳がクスクスと笑いながら玲珠を見下ろしていた。
「細君作か?」
「ええ」
玲珠は大切そうにその髪紐を見つめた。
王妃を追い掛けるとして、美琳と離れたのは今から十日前。
その美琳から、この髪紐を貰ったのは王都を離れる前にもう一度妻の顔を見に行った時の事。
無事で帰ってきて欲しいと告げる美琳を抱き締め、その髪に口づけた。
愛しい妻、愛する妻。
あの地獄を生き抜き、玲珠の手に戻ってきてくれた最愛の女性。
それでも――それは恐ろしいまでの奇跡の上に成り立っている。
妻を守れていると傲慢にも思っていた玲珠は、愛する妻の身に起きた悪夢に欠片も気づく事はなかった。
だからこそ、全てが明らかになった時の絶望は重い。
そして再会する直前に美琳が殺されかけていた事実に、玲珠は狂いかけた。
いや、殆ど狂っていたといってもいい。
時間が経つにつれ、その詳細が、妻の身に起きた全てが明らかになっていくにつれて玲珠の中の狂気は増していった。
しかも知らぬ間に葬られた美琳との子。
その存在に気づく間もなく、旅立った命。
そして、強制された流産とその後受けた暴力により再びの妊娠が難しいとされた愛する妻。
石女――
そう罵り嘲笑う者達が居る事は知っている。
だが、それがなんだというのだ。
奴らは子の産めぬ美琳に玲珠がいつか飽きて捨てると思っている。
子の産める若く美しい後ろ盾のしっかりした妻を望むと思っている。
馬鹿な奴ら。
そんな事がある筈がないというのに。
玲珠にとって女性は美琳しか居ない。
女として認識するのは、妻しか居ない。
たとえこの体が全く反応せずとも、心が求めるのは美琳ただ一神。
だからこそ、妻の命を救ってくれた王妃を玲珠は崇拝する。
たとえ、二十年前に王妃が美琳を連れ去ろうとしていたのだとしても、だ。
そんな玲珠には、美琳と出会い、結婚し、あの地獄の体験を経て一つの決意が胸に秘められていた。
すなわち、自分から美琳を奪うものは誰であろうと赦さない、というもの。
けれど、王妃は王や上層部以外では唯一玲珠にとって例外の存在だった。
それに、玲珠にだって本当は分かっていた。
王妃が美琳を心の底から案じていた事など痛いほど気づいていた。
案じていたからこそ、美琳をあの苦しみしかない場所から、自分から引き離そうとした事も、全て。
冷静に、心を休める場所に連れて行こうとしたのだと、理解している。
けれど心は納得出来ない。
王妃が悪いのでは無い。
悪いのは、玲珠自身。
そして美琳の心を苛む全ての事象。
王妃を敬愛している。
それでも、美琳だけは手放せない。
何があろうとも、どんな事が起きようとも――。
『玲珠、王妃様をそっとしてあげる事は出来ないの?』
美琳の言葉が脳裏によぎる。
何故?
二十年前に追放された王妃。
あの忌まわしい後宮で殺される寸前だった美琳を助けてくれた恩神を、玲珠達元寵姫組は留めることは出来なかった。
あの日、あの時、玲珠達は見送る事しか出来なかった。
王妃の身を守るために。
その命を守るために。
王の迸る哀絶と上層部の悲痛な叫びを聞いた。
隠しても隠し切れない恩神達の心痛に、玲珠達は決めたのだ。
何としてでも、早急たる王妃の王宮帰還を実現させようと。
あの方が居るのは凪国王宮である。
むしろそれ以外にはない。
この王宮の奥深くで、どんな悪意からも遠ざけられて大切に大切に守られていなければならない。
なのに向こうは思ったよりもしぶとく、以外にも時間がかかってしまった。
そればかりか、ようやく王宮帰還が出来るようになっても、王妃は決して戻ってこようとはしなくなった。
何故?
どうして?
瑠夏州での反乱未遂事件は聞いていた。
けれど、それも王妃の協力もあり終結した筈。
なのに王妃は戻ってこない。
あの時、強引に連れ戻せば良かったのだ。
玲珠だけではない。
元寵姫組の幹部達は上層部に掛け合った。
自分が、自分が、自分が――。
王都から遙か遠くの田舎の森に追いやられ、そこでの不遇の暮らしを強いられた王妃。
憔悴し、今も体調が優れないと聞けばそれも当然だと思った。
守られる筈なのに、全てを奪われ追放されて。
その心中を察してあまりある。
もしかしたら、まだ怯えているのかもしれない。
王妃を偽りの罪に問い、処刑しろと言った愚かな者達。
もう奴らはどこにも居ないというのに。
迎えに行こう。
迎えに行かなければ。
もう、何の危惧も抱かなくてもいいのだと。
自ら行くことの出来ない王や上層部の代わりに、玲珠達が迎えに行く。
自分達を、自分達の愛する者達を助けてくれた王妃を迎えに行く役目を希った。
なのに――。
その許しが下される前に、起きてしまった。
そして、王と上層部は王妃の帰還を諦めた。
もしかして薄々感づいていたのかもしれない。
もし、玲珠達が求めた時に王妃の迎えが赦されていたならば、あれが起きた時に城に居る事になった王妃は、王妃は……。
コロサレテイタ。
『玲珠、王妃様を』
そっとしておく。
そう、そっと……。
ああ、そうだ。
自分達が行くのは王妃をどうこうする事ではない。
麗しい一神の美姫が玲珠の脳裏に鮮やかに浮かぶ。
朱色の髪を持つ、宰相の寵愛する妹姫。
寵愛を失った惨めな王妃とは違う、今も王の片腕である宰相に愛され、そして王からもその帰還を望まれる絶世の美姫。
「何としても、明燐様を連れ帰らないと」
「――そうだな」
柳は玲珠の言葉に頷いた。
本心を静かに飲み込みながら。
口にするのは、偽りのみ。
「明燐様だけは傷一つなく保護しなければ」
「ああ、大切なのは明燐様だけ。けれど、王妃に価値がないとなれば向こうは何をするか分からない」
「明燐様にその矛先を向けかねないな」
「だから、王妃にも価値があると思わせないと。明燐様を無事に保護するまでは」
「大変なことだな。昔ならいざしらず、今や寵愛を失った王妃などどうでも良いというのに」
ふっと嘲笑を浮かべる柳の笑みはどこまでも冷たい。
「もともと寵愛だけで成り立っていた王妃だ。後ろ盾もない、ましてや美しくも教養高くもないただの穀潰しとなれば、もはや何の価値もない」
「たとえどんな無能でも、美しさぐらいはあると思うが。というか、陛下は王妃のどこに魅力を感じられたのか」
「馬鹿を言うな、玲珠。陛下は魅力を感じたのでなく、ただの同情から王妃にしたまでだ。元々は幼馴染みだというからな。見捨てるには陛下はあまりにも優しすぎる」
「それが真実の愛を見つけ、ようやく目が覚められたという事か」
岩の上に上がった玲珠が、長い髪を優雅な手つきで纏めて髪紐で留める。
「そうだ。寵愛するのは今の寵姫のみ。いや、これから未来永劫、あの方の隣に立つのは寵姫様だけだ。寵愛無き同情だけで王妃となった女などいらない」
「そう、あの方にアレは相応しくない」
カサリと、音が遠ざかっていく。
それを耳にしながら、玲珠と柳はそれでも言い募る。
寵姫こそがこの国の王妃に相応しい女性だと。
王が真に愛し寵愛するのは寵姫だけだと。
そして罵るのは、今現在の王妃。
心が裂ける。
血が噴き出す。
けれど、真に大切なものを隠し守る為に彼らは偽りを紡ぎ続ける。
「ああ、はやく寵姫様が王妃になって下さらないか」
「それには今の王妃からはやく地位と身分を取り上げないと」
その手続きを今か今かと待ち続ける。
「けど、それには王妃も連れて行かなければ駄目じゃないか?」
「そうだな――まあ、居なくてもいいが、少しでも速く王妃位の譲渡をするにはやはり連れてきた方がいいのかもな」
カサリ。
それは、同意する様な衣擦れの音。
それに玲珠と柳はようやく心の中で安堵の息を吐く。
それも一理ある――と言う様に認めた向こうに、心が躍る。
これで――いや、まだ安心する事は出来ない。
けれど、下地は出来た。
だから、だから――。
「それに反対する民達は居なくても、やはり外聞的なものがある。周囲の国々にもこれが円満な譲位だと知らしめる為にも、王妃を連れ帰り自ら譲位を発表させる事は必要だ」
偽りの中に、自分達の思いを入れて。
王妃を。
王妃を。
カサリ。
また鳴る音。
そのとおりだと、言わんばかりの音。
たとえ、王妃位が譲渡するような事態になろうとも。
それでも、玲珠と柳が望むのはただ一つ。
王妃を、どんな手を使ってでも憎むべき略奪者達の手から救いだし、王都へと連れ帰ること。
玲珠はフッと自分を笑った。
王都、王都か――。
王都こそ、奴らの本拠地。
そこに王妃を連れ帰る事は危険すぎる事。
本来であれば王妃をそれとなく逃がすべきだ。
けれど、逃がしたところで王妃に降りかかる危険の全てが回避出来ない。
誰の目にも分かるように、王妃が無価値だと知らしめること。
全ての者達に、王妃が全てを寵姫に譲り渡し、それでいて何の価値もないのだと知らしめる。
そうしてからでないと、たとえ安全な場所に逃がしても王妃は安全ではない。
「はやく」
「はやくしないと、はやく王妃の地位を譲らせないと」
手早く衣を身につけ、玲珠が岩から降りる。
それに続くように柳も軽やかに地面に降り立ち、玲珠と共に茨戯のもとへと駆けた。




