第四十話 疾風
窓の外から響いてくる雨の音が耳を打つ。
それにゆっくりと眼瞼を開ければ、暗い室内に薫る香の煙が見えた。
薄く妖しく棚引く白い煙。
それが、まるで生者を絡め取る死者のようにかの者に纏わり付く様に、窓辺の寝椅子に気怠げに横たわっていた部屋の主の口元に笑みが浮かぶ。
「ふふ、君が来るとは珍しいねぇ?」
すっと音もなく臣下の礼をとるのは、美しく結い上げた鮮赤色の長髪を持つ魅惑の美女。
長い睫で縁取られた眼瞼が開けば、多くの男達を蕩けさせてきた魅惑の朱が姿を現す。
しかし、その見た目と本来の性別が真逆な事を知る部屋の主――朱詩は、愉悦の笑みを浮かべてその男を見つめた。
来雅と呼ばれる彼は、その名の如く清雅にして大輪の紅牡丹を思わせる美貌の持ち主だった。
親しい者達にだけしか見せない柔和な面持ちを消せば、そこにあるのは冷え冷えとした硬質さを持つ磨き抜かれた美だけ。
それが美しいとして、彼は強引に寵姫にされた。
彼の祖国だった、今は亡き煉国という国で。
命令を下したのは、煉国の最後の王とされる来艶と、その父親。
二代に渡る男色王は、数多の男達を毒牙にかけた男狩り、そしてその男達を後宮に寵姫として拉致監禁した史上最悪最低の王としてその歴史に名を残した。
と同時に、自国を腐らせ、この凪国にまで喧嘩を売った愚かな国として炎水界に汚名を刻み込む事となる。
王と上層部は刈り取られ、残された無辜のない者達だけが新たな生活を凪国と炎水家の援助を受けて営んでいる。
だが、それとは別に凪国へと渡ってきた者達も居た。
保護と言う名の元に。
そしてその大部分にあたるのが、煉国の最大の犠牲者と謳われる元寵姫達と、その人質として生かれさていた家族や恋神、婚約者、そして友神達だった。
寵姫として地獄を見てきた彼らが愛する者と共にこの地の土を踏んだのは、今から百年以上昔の事。
朱詩は今も蕩ける様な色香を放ったまま傅く男を見る。
この来雅もまた、煉国の好色王に寵姫にされた者の一神だった。
男色王と言うからには、後宮の寵姫達は全て男達で構成されていた。
それも、タイプは違えど全てが女性と見紛う美男、美少年ばかり。
最後は七百名を越えていた後宮の寵姫達は、その心身の状態から煉国に留まる事は危険とされ、人質として捕らえられていた家族や身内と共に凪国へと移り住んだ。
そうして今では、その殆どがこの凪国王宮に勤める身となった彼らは『元寵姫組』という一つの大きな派閥となって、凪国王宮の権力派閥を占めるようになっていた。
しかし――。
「君は居残り組だっけねぇ」
静かに頭を垂れる来雅を見ながら、朱詩は口元に長い袖を当ててクスクスと笑った。
その様からは、どう見ても麗しい美少女にしか見えない。
身に纏う服もそうだが、汚れない高貴な姫君の様な見目形の朱詩は来雅の頤を手に持っていた扇で上向かせた。
「そういえば最近面白い噂があるよね?」
凪国王宮の権力派閥に食い込み、その政争図に席巻する派閥の一つとまで言われる『元寵姫組』。
数は確かに少ないけれど、彼らが駆使し、長年をかけて築き上げてきた神脈は侮れない。
「話では、王の新たな側室は君達の派閥から出すとか」
囁く悪意の毒。
それは亀裂を生じさせる為か、それとも『元寵姫組』を取り込みたいのか。
ただ、少しずつ大きくなる噂を朱詩は気紛れに来雅へとぶつけた。
『元寵姫組』。
そう呼ばれる派閥における、五幹部の一神である来雅に。
幹部の頭である玲珠や柳が居ない今、彼が他の幹部達や残りの元寵姫組達をまとめ上げる。
「ねぇ?」
猫が鼠をいたぶるように、残酷に笑う朱詩の目を来雅は瞬きすらなく見つめ返した。
「噛み切ります」
「ん?」
「陛下の意に沿わぬ事がなされるならば、我ら全員即座に舌を噛み切りましょう」
来雅の言葉にも、その瞳にも一切の迷いはない。
あるのは、王に対する深い敬愛と敬慕、そして狂気とも言える心酔の光だけ。
「へ~~ぇ」
いかにも意外そうに呟きながら、朱詩は内心笑い転げた。
王宮の大派閥の一つ『元寵姫組』。
けれど、その派閥はこの国の王に絶対的な忠誠を誓っている。
だから、最初からあり得る筈がないのだ。
他のとこに転ぶなど。
分かっていた、にも関わらず朱詩は聞いてみた。
理由なんて簡単だ。
ただの気紛れ。
万が一転がっていれば、それはそれで仕方が無い。
今までと同じように、始末すればいいだけの事。
「じゃあ、その件はそれですませておいてあげる」
そう言うと、朱詩は白い洋風机の上にあるグラスを取った。
鮮血の様な酒が注がれたグラスを口元に寄せ、その白い喉を鳴らした。
「ふふ、美味しい」
「最高級の洋酒ですから」
「来雅も飲む?」
朱詩の申し出に、来雅は小さく首を横にふり断った。
「つまんな~い。少しぐらいお酒に付き合ってよぉ! それとも、矢衣が怒るの?」
矢衣という名に、来雅の硬質的な美貌が微かに動く。
「ふふ、どうせなら矢衣にお酌でもしてもらおうかな?」
「朱詩様」
「怒らないでよぉ~、冗談なんだから」
上司であろうと、矢衣の事に関しては譲らない来雅に朱詩はニタリと笑う。
「大丈夫だよ、矢衣なら。あれから結構たつけど、ぜ~んぜん成長してないしぃ? いつまでも子供だもんね~」
朱詩の言わんとする事を正確に理解したものの、来雅は何も言わない。
「そう、まるで、うちの王妃様みたいに」
「――っ」
何かを言おうとするも結局言葉を紡ぐことの出来ない来雅。
それに興味を無くしたかのように朱詩は窓の外へと視線を向ける。
「王妃様と言えば……茨戯達は今頃どこまで進んだんだろうねぇ?」
いつの間にか窓の外は静まり返っていた。
そんな雨が上がった夜空を見上げながら、朱詩は静かに呟いたのだった。
◆
駿馬でも、彼の地――鶯州までは王都から二週間以上は軽くかかる。
不眠不休で駆け抜けたとしても、二週間近くはかかるだろう。
だからといって、【車】や【列車】を使う事は出来ない。
隠密として動くならば、それなりの準備が必要である。
しかし、今はその手回しをする時間がなかった。
「でも、なかなか見所があるわね、あんた達」
道無き道を駆け抜ける己の馬のすぐ後ろを、併走する様についてくる彼らに茨戯は笑った。
それは薔薇姫と謳われる由来を思い出させる様な、大輪の薔薇が咲き誇った笑みだった。
そんな王の直属の影――『海影』の長である茨戯にそこまで言わしめた二神は、無言で自分達の馬を操っていた。
焦げ茶色の駿馬に乗るのは玲珠。
黒い駿馬に乗るのは柳。
元寵姫組をまとめ上げる五幹部の二神でもある彼らは、茨戯の配下達に劣らぬ馬術で荒れた道を駆け抜ける。
ここは閉ざされた街道。
この国が出来た時に一番最初に切り開かれた道であり、その後土砂崩れの多い危険な道として長らく閉ざされた。
道は、切り立った崖にへばりつく様な細い悪路。
一歩よろければ、たちまち底の見えない崖下へと落下するだろう。
しかし、死すら恐れぬ者達はそんな道さえ軽やかに駆け抜けていく。
そして本来ならば臆病な動物である馬すらも、主の意を受けて走り続けていた。
玲珠と柳から少し離れた場所を走るのは、茨戯の本来の部下達。
彼らも速いが、それすらも抑えて駆け抜ける玲珠達に茨戯はくつりと笑った。
「朱詩の部下の方が優秀みたいねえ」
自分の盟友である朱詩の側近である玲珠と柳に聞こえるように呟くが、二神はそれに動じることなく馬を走らせていく。
「ふふ、帰ったらもっと鍛えないと」
自分の部下達に流し目をくれると、茨戯は視線を前に戻した。
「もう、王宮を出て五日目に入るのね」
鶯州まで、通常の速さでなら後二週間余り。
けれど、そこまで時間をかけるつもりは茨戯には毛頭なかった。
「あと五日で鶯州に着くわよ」
「御意」
「仰せのままに」
玲珠と柳が表情一つ変えずに応じた。
この国でも最強たる影――『海影』ならば出来る。
そう――実際に鶯州ではないが、同じ距離を持つ別の州にて幾度となく、『海影』はそれを実践してきたのだ。
たぶん、この国で一番の機動力を持つのは茨戯率いる『海影』以外にはないだろう。
炎水界にて最強を誇る凪国国軍ですら届かぬ速さは、疾風の名に相応しい。
既に、通常かかる時間の半分で駆け抜けているのが、その証拠である。




