第二十四話 共存
心の傷と共存する――。
そう言った明燐だが、それが酷く難しい事は分かっていた。
そもそも明燐が蓮璋の傷に気づいたのは、兄という経験が身近にあったからだ。
明燐の兄――凪国の若く美しい名宰相閣下。
王の懐刀としての功績は輝かしく、誰もが憧れる存在だ。
しかし、大戦中に王と出会うまでの神生は、日の当たる所どころか最低の一言だった。
父の身代わりとして、実の母に性的虐待を受け続けた兄に手を引かれ、荒れた夜道を逃げた時の事は今でも覚えている。
夫を殺し、明燐の母を殺し、自分の息子を夫の身代わりとして犯し続けていたあの女。
明燐の母の婚約者だった父を奪い無理矢理自分の夫としたばかりか、憎い女を殺そうとした鬼女。
そればかりか、領民達を拷問にかけ次々と殺す狂った女に、父は産まれた息子の兄を連れて明燐の母と逃げた。
だが、明燐が三歳になる頃――父を見つけ出したあの鬼女は父と母を殺し、息子と明燐を拉致監禁した。
明燐は憎い女の代わりに痛めつける相手であり、兄に言う事を聞かせる為の駒だった。
そんな母を兄が殺したのは、連れ戻されてから十年目の事。
妹に酷い虐待を与え続けていた実母が、その日に限って興奮が収まらず勢い余って明燐を殺そうとした。
そんな実母に耐えきれなくなった兄は、実の母を手にかけた。
兄にとっての母は、既に明燐の母だったからだ。
兄は明燐を連れて外の世界へと逃げた。
しかし、世間は幼い兄妹が暮していけるほど甘い世界ではなく、特に美しい者達は直ぐに拉致され奴隷売買されるか、権力のある者達の愛妾や玩具とされるのが世間の常識。
明燐達にもすぐにその魔手は及んだが、兄が全て身代わりになって貴族達の妾として弄ばれる日々が続いた。
兄はその事をひたすら隠していたが、そんな兄を囲う何番目かの貴族によって、明燐は想像を絶する兄への無体を隠れて見させられた。
だが、その事は決して言わなかった。
誰が言えるだろう――美しく誰よりも誇り高い兄は、その誇りと妹を守りたいという思いだけで地獄の日々を生抜いていた。
細い糸上を歩く様に危なかしげで、ちょっと突いただけで壊れそうな程の心を壊しかねない。
明燐は何も言わずに兄を守ろうとした。
学問は兄に教えられたが、武術や力の使い方は全て独力で学んだ。
いつか兄を守る――そう願い死ぬ気で努力した明燐だが、それが叶う事は最後までなかった。
明燐すら知らない間に武術や力の使い方を学んだ兄は、ある日自分を囲っていた貴族達を皆殺しにしたからだ。
兄は多くの貴族達に売り買いされた。
兄の美貌に目が眩み、手にするべく当時の主を殺して奪う者達が多かったからだ。
そうして何番目に兄を囲った者か。
それが明燐に手を出そうとし、それを知った兄はその貴族を殺したのだ。
兄は強かった。
噴出した憎悪と殺意が、兄が生来持っていた強大な潜在能力を開花させた。
兄と明燐を虐げた屋敷の者達全てが死に絶え、その牙が全く関係のない者達にまで及びかけた時――後のこの国の王に出会ったのだ。
『来たければ来なさい』
その強さと美しさに兄妹揃って魅入られ、従軍し側に仕え――その器と魅力に酔いしれた。
この方の側こそが自分達の生きる場所。
そうして生き急ぐように戦い続けた日々。
でも、明燐の最大の願いである兄の心を癒す事は出来なかった。
『大丈夫、大丈夫だよ、俺のお姫様。俺がお前を守るからね』
たった二人の兄妹だった。
兄は明燐を守ってくれた。
心に幾つもの傷を抱え、更に深まっていくのも構わずに。
明燐は悩んだ。
どうすればいいのかと嘆いた。
ようやく自由を得て、仕えるべき主を得たのに、兄の心の傷は癒されぬまま。
このままでは兄を失ってしまう。
けれど、兄の誇り高さが手を差し伸ばす機会を全て消し去る。
そんな時だった。
『この子は果竪と言います』
ガリガリにやせ細った体の中に、強い輝きを宿す少女。
全てを失ったにも関わらず、明燐達に笑いかけた希有な存在。
そうして果竪は――。
『だって、誰だって大好きな人の為に何かしたいと思うのは当然じゃない! 明燐が大好きなお兄ちゃんを守りたいと思う事の何が悪いのよ!!』
驚く兄の横っ面を張り倒した果竪。
三日三晩の拳での語り合いの末に、兄が食らったその一撃に込められた思い。
『心の傷が簡単に治るわけないじゃない。だから、無理して何かする必要はないよ。でも、普通に生きているだけで色々と経験して強くなる。だから、いつか自然と乗り越えられる力を得たら、勝手に乗り越えてるよ、明睡もね』
何も出来ないと泣きじゃくる明燐の頭をそう言って撫でた果竪。
それを聞いて更に泣き出す明燐を果竪は黙って抱き締めてくれた。
温かい手。
優しい眼差し。
いつも明燐が果竪を面倒見ていると思われるが、それは最初の頃だけ。
本当はとっくの昔に立場は逆転した。
『大丈夫だよ、何とかなるから』
その言葉が、明燐自身にも共存の道を歩ませた。
何とかなる。
何とかなる。
いつか、生きていれば――必死に生きていけば、自然と乗り越えるだけの力も、時間も気づかぬうちに得ている。
だから――明燐は決めた。
心の傷なんて生きていれば幾つもつく。
傷つかないなんて事はない。
だからこそ、乗り越えられる力が来るまで、それは持ったままでいるしかない。
ならば、共存した方が良い。
無理に乗り越えようとして、よりいっそう傷つくぐらいなら。
そうしていつか乗り越えられる日が来たら、乗り越えればいい。
蓮璋がパニックに陥った時、明燐は蓮璋に兄の姿がダブって見えた。
このままでは壊れる。
兄の時に感じた恐怖が明燐を支配し、気づけば体が動いていた。
兄の時はただパニックになった兄に気づかれず物陰から見守るしかなかった。
触れたくても触れられない、側に居たくても居られない苦痛が身を焦がす中、ただ見ているだけしか出来なかった。
抱き締めたい、優しい言葉をかけたい。
でも、兄が求めている事はそんなものではなかった。
逆にそれが兄を、誇り高い兄を追い詰める。
しかし明燐はそれ以外の術を知らなかった。
それは明燐の心の傷となって残り、その後も彼女を苦しめ続けた。
どうすればいい。
どうすればいい。
答えは出ない。
でも、蓮璋がパニックになった時、兄と姿がダブった時、明燐の体は勝手に動き、頭にその言葉がよぎった。
『心の傷と共存――』
蓮璋が求めているのは、慰めでも哀れみでも叱責でもない。
だから、それらは与えない。
蓮璋は苦しんでいる。
逃げ場のない蟻地獄で身動きの取れないまま藻掻いている。
必要なのは――。
気づけば手で頬を打っていた。
すると、パニックは収まったが、いまだ光を失ったままの瞳がぼんやりと自分を見つめた。
まだ駄目だ。
まだ、戻って来てない。
明燐の目にもまだ蓮璋と兄が重なっていた。
だから――あの時、兄に言えなかった言葉を言った。
自分の代わりに果竪が言ってくれた言葉。
本来なら、誰よりも側に居た自分が言うべき言葉を――。
『心の傷は誰にでもあるもの。大切なのは、それと上手く共存する事ですわよ』
兄に――いや、蓮璋の心に届くように告げた。
そうして光の戻った瞳にようやくホッと息を吐いた。
と同時に、兄の姿は消えて蓮璋だけがそこに残った。
良かった……助けられた……柄にも無く思った時、明燐は見てしまった。
『明燐、ありがとう』
そう言った時の笑顔を。
安堵する中に、本当に嬉しそうな笑みを。
それを見た瞬間、明燐は良かったと思った。
・・
蓮璋を助けられて良かった――と。
それは、明燐が助けられなかった兄の身代わりとして蓮璋を助けたのではなく、蓮璋自身を助けようと思ったという真実を明燐に気づかせた。
有り得ない。
こんな事。
助けたくても助けられなかった兄の分まで、兄の身代わりにという思いだけだった筈。
自分が助けたかったのは兄だった筈。
でも、それだけではなかったのだと、明燐は否応なしに気づいてしまった。
別に蓮璋を助けたいと思っても良いでは無いか。
自分達を攫った相手ではあるが、果竪の恩人でもあり、こうして色々と気を配ってくれた相手だ。
なのに、なのにどうしてホッとするのだ。
蓮璋を助けられた自分を誇らしく思うのか。
明燐は自問自答しながら、最後まで出ない答えに頭を悩ませる。
まるで意図せず気づいた恋に悩む少女のように。
それを、果竪が見ているとも知らずに。




