第十八話 鳥籠の少女
「ここ、何処だろう?」
何処までも続く闇の中。
気付いた時には、果竪は当てもなく彷徨い歩いていた。
しかし空も地面も全てが黒に塗り潰されたそこは、方向感覚を失わせ、時の流れすらも遙か彼方へと押しやる。
どれだけ歩いたのか。
どこを歩いているのか。
そもそもここは何処なのか。
何も分からない。
自分はどうしてこんな場所に居るのだろう。
しかし思いだそうとすれば、ズキンと酷い頭痛を覚えて記憶の想起を邪魔する。
「……明燐……」
友人の名を呼ぶ。
彼女ぐらいしか、呼べる相手は居ないから。
どんな時も側に居てくれた大切な友。
「明燐……」
明燐だけなのだ。
もう、もう――。
「神のお友達は」
大根の友達なら沢山居るけど。
明燐が聞けば無言で追いかけて来そうな事を呟きつつ、果竪は歩き続けた。
どうせなら、黒よりも白の方が良かった。
そしたら艶めかしい大根の肢体の上を彷徨っていると錯覚出来たから。
そして幸せなままにダイビング出来た。
「というか、暫く頬ずりに夢中になるわね」
以前愛する大根に頬ずりしまくっていたら、明燐に処分された。
それからは隠れて頬ずりするようになったが、やはりバレた。
だが、そうやって楽しみを強制排除され続ければ、神だって禁断症状が出る。
果竪も当然のように症状が出現した。
真夜中に大根を求めて歩き彷徨うという――。
そしてそれに気付いた屋敷の者達が明燐に掛け合い、無事に大根を取り戻した。
その日は大喜びで大根達を部屋に並べて一日中その艶めかしい肢体を食い入る様に、貪るようにガン見したものだ。
『うふふふ……大根………大根……』
久しぶりに見た白い媚態の余りの眩しさにもう意識は飛びかけ。
口から漏れる笑いはいつしか大きくなって――。
「病院送りにされたっけ」
十二時間ぶっ続けで笑い続けていたのが悪かったらしい。
明燐達によって縄でぐるぐる巻きにされた挙げ句、そのまま病院に担ぎ込まれた。
それこそ、天界十三世界の中で一番医療技術の進んでいる月世界へと送りかけられた。
だが一番失礼だったのは、とにかく原因が脳と神経にあると言われたことだ。
何を言うのだ。
大根は心で愛するものだ。
そう叫んだら、心療内科への紹介状を書かれた。
ついでに眼科への紹介状も書かれた。
なんでも、大根が夫に見えているのかもしれないとの事らしい。
失礼な。
大根と夫を混同した事などない。
大根は大根。
夫は夫。
どっちも白いけど、大根のあの逞しくも艶めかしい下半身を直撃する魅力は誰にも出せない。
ビバ大根。
愛してる大根。
あの太さと輪郭、そして穢れなき白さと青々とした緑のコントラストが織りなす完璧な美貌に果竪はクラクラだった。
今だって思い出しただけでクラクラする。
そうして時と場合を考えず、大根の魅力に膝を突き悶える果竪。
はっきり言って、危ない人――いや、危ない神だった。
とりあえず、万が一生贄を欲する様な堕神になっても大根さえ捧げていれば何とかなるほど危なかった。
「くふう……」
頬を赤く染め、声を上げる。
それも全ては大根によるもの。
明燐が知れば、本気で怒り狂ったかもしれないが幸いにも此処には居ない。
そうして暫く悶えていた果竪だが、その耳があるものを捉えた。
「……」
耳を澄まし、果竪はそれが歌だと気付いた。
といっても、歌詞などはなくリズムもバラバラ。
けれど心惹かれる旋律に、気付けば音の聞こえる方へと走り出していた。
しかしどれだけ走っても歌声は近付かず、次第に果竪は焦り出す。
行かなければ。
この歌声の元に。
辿り着かなくては。
この歌声の相手に。
強き思いは強い焦燥感を呼び起こし、言いようのないもどかしさを生み出す。
走れ、走れ、走れ。
この歌声の相手の元に。
今辿り着けなければ、きつともう二度と辿り着けない。
今までも、悠久の時の流れの中で何度か会った邂逅の機会は静かに消えていった。
今まで――?
果竪は首を傾げた。
自分は何を考えたのだろう。
しかし、先程まで狂おしいほど心の中に浮かんできた思いが急激に消えていく。
消さないで。
消えないで。
と、地面の感覚が消えた。
「え?」
あっ!と思った時には、果竪は先程とは違う場所に居た。
「イタタ……お尻打ったぁ」
お尻をさすりながら手を突けば、冷たい石畳の感触が伝わってくる。
果竪は周囲の変化に気付いた。
そこは不思議な場所だった。
石畳の床、白い壁と大きな柱が等間隔で並んでいる広い部屋。
広すぎて、逆に居心地が悪いぐらいに。
入り口は観音開きの大きなのが一つ。
聖堂――という言葉が脳裏に浮かんだ。
遙か昔、人間達が作った聖堂にそこはよく似ていた。
その時――また歌声が聞こえてきて、果竪はゆっくりと振り返った。
「――え?」
部屋の奥に、部屋の内装とは不釣り合いな鉄格子が見える。
だが、それを通りこし、果竪は鉄格子の向こうにいる存在を見つめていた。
「あ――」
気付いた時、果竪は鉄格子の前に立っていた。
そして鉄格子の中の存在もまた、果竪を見て驚愕していた。
「……」
「……」
果竪と鉄格子の中にいる少女はうり二つだった。
ただ、鉄格子の中の少女は黒髪に灰色の瞳をしているが、それ以外は全く同じ。
果竪は何かを言おうとして、気付いた。
少女はただそこに居るのではない。
鉄格子の奥にある壁に張付けにされていた。
一言で言えば、Yの字の形。
上にあげさせられた両腕と腰が、壁に備え付けられている拘束具に戒められている。
だがその拘束具はただの鉄枷ではなく、力を具現化した純粋な結晶によって作られていると果竪は瞬時に理解した。
そのまま視線を下にずらせば、少女の足は爪先が地面に届くか届かないか。
しかし、その足下に黒魔術で使うような魔方陣を見つけた瞬間、果竪はその場に座り込んでしまった。
目に入れた瞬間、意識ごと持って行かれそうな強い念が込められている。
離れていてこれなのだ。
その陣を足下に置く少女なら――。
いや、足下に置いてるのではない。
あの陣は少女を拘束する為のものだろう。
「大丈夫?」
「っ!」
自分と同じ顔をした少女が紡ぎ出す声は、正に自分のもの。
「……」
「何処から来たの? ここに入れるのは限られた者しかいないのに……って聞いても無駄よね。何も分からないって顔をしてるし」
「……ここ……は」
「鳥籠よ」
「え?」
自分にそっくりの少女が哀しげに微笑む。
「あの人を拒み、逃げようとした哀れな小鳥に与えられた終の棲家」
「……」
「ふふ……信じられないって顔だね。私もそう思うわ……此処に閉じ込められてからもずっと」
つまり逃げようとしたから閉じ込められたのか。
しかし、こんな風にされるほどの何をしたのだろうか。
「……どうして、逃げようとしたの?」
「……目的を果たすため。あの方を探し出すという――私はその為に此処に来たの」
少女は歌うように告げる。
目的?
「確かにあの人は恩人。でも、ここは私達が住む場所ではない。だから――」
あの方を探しだし、本来居るべき場所に帰ろうとした。
一刻も早く。
少しでも早く、あの人の元から離れるために。
少女の心が果竪に流れ込んでくる。
愛しさと哀しみ、苦しみと喜び。
幾つもの感情と思いに、果竪は鉄格子を握りしめた。
「けれど……あの人は逃がしてくれなかった。でも、此処から去らなければ。私達の力は――」
と、その時だ。
少女の表情に恐れが浮かぶ。
「っ! 隠れて!」
「え?!」
「良いから、早く! 見付かったら――」
少女の剣幕に押されるように果竪は近くの柱の陰へと隠れた。
そして気配を必死に隠す。
と、ほぼ同時に扉が開く音がした。
それから起きた事は、果竪の想像を絶するものだった。
扉から入ってきたのは、美しい衣を身に纏い、顔もベールで隠した存在だった。
背丈と発した声で何とか男と分かった。
ベールは完全に目元まで覆っていたが、鼻から下の部分だけでもずば抜けた恐ろしいまでの美貌である事は瞬時に理解出来た。
その男は、鉄格子を挟み少女と向かい合った。
すると、次の瞬間には鉄格子の向こうにその存在は立ち、眼前の少女と向かい合う。
少女の懇願は一貫していた。
どうか自分を解放して。
此処から出して。
あの方と共に、元居た世界に返して。
けれど、その人は少女の言葉を聞き入れなかった。
それどころか、少女が泣きながら抵抗するのも構わずに両足を抱え上げた。
「いっやぁぁぁぁぁぁぁ!」
少女の悲鳴があがる。
何をしているかなんてすぐに分かった。
揺れる足が必死に宙を蹴るように暴れている。
と、果竪の居る場所から少女の顔が見えた。
乱れる髪の合間から、涙に濡れた瞳が果竪を見据える。
コ コ カ ラ ニ ゲ テ。
「っ!」
だが、弾かれたように逃げ出そうとした体は、聞こえて来た声に足を止めた。
「逃がさない」
え――?
この声……。
「逃がさない……お前は私のもの」
ハッとして、果竪は柱から鉄格子の奥を覗く。
声は、自分にそっくりの少女を辱める男のものだった。
泣き叫ぶ少女に言い聞かせるように、男は言い続けた。
「お前は私のもの。逃がさない、何処にも行かせない。今更離れていくなど許せない」
後ろ姿しか見えない。
けれど、果竪にはその狂気の笑みが見えた気がした。
「お前は一生此処で暮して私の子供を産むんだ!!」
その為の鳥籠――。
男の狂気に当てられ、果竪はふらりと後ろによろめいた。
余りにも強く歪んだ狂気は、周囲の心すらも惑わせる。
近くに居た果竪も同様で、食らいつくかれた心から血が流れ出した。
少女の泣き声が聞こえる。
泣きながら、獣に貪られていく。
少女はあの場所から出られないだろう。
あの獣の言うように、子供を産むまではーー。
なんという妄執。
なんという執着。
相手の自由を奪い、ただ自分の側に居る事だけを求める。
既に抵抗すら出来ずに為すがままの少女の足が見えた。
少女と自分はうり二つ。
まるで自分の身に受けているかのような感覚を覚え、叫びだしたかった。
アレハワタシ。
「え?」
ふと脳裏によぎった言葉に、果竪は鉄格子の中の少女を見た。
自分そっくりの少女を見た。
そして……気付く。
自分がこの光景を知っている事を。
知っている。
知っている。
だってこれはーー。
ドクンと、大きな拍動が打つ。
「っ!!」
何かが鎖で閉じられた記憶の箱をぶち破ろうとする。
これ以上此処に居てはいけない。
これ以上此処に留まってはいけない。
後ずさり、扉に向かって走りだそうとした。
途端に、後ろから伸びてきた腕に羽交い締めにされる。
「えーー」
腰に手を回さて引き寄せられ、もう片方の手が果竪の口を覆う。
甘い香りがした。
その香りに、悠久の時の流れに隠し続けてきたものが、強引に引きずり出される感覚を覚える。
駄目だ。
駄目だ。
なのに、その声が果竪の抵抗を奪う。
「見つけたーー」
限界まで見開らかれる眼。
なぜなら、その声はーー。
一気に視界が暗くなり、目覚めた時には明燐の泣き顔がそこにあった。