嫌われ悪役令嬢に転生したら激重裏設定がありましたが、今世こそは幸せを掴んで見せます!
「初めまして。転校生のフォルテ・グラノールと申します」
肩にちょうどつくワンカールのピンク髪。髪と同じ、ぱっちりと大きなピンク色の瞳。
クラスメイトたちに向けた、弾けるような笑顔を見た瞬間、私の頭はショートした。
「ええぇぇえ!?」
思わず喉から声がほとばしる。
周りの生徒たちが、どうしたのだと言いたげにこちらを見ていた。だが、その視線には構っていられない。
だって、彼女は――鬼畜乙女ゲーム「アルカナ・アカデミア」の主人公。
そして、私はアルカナ・アカデミアの悪役令嬢――リリア・エルトゥールだと思い出してしまったのだから。
* * *
主人公フォルテと出会った瞬間、私の頭にはかつて日本人であったときの記憶がなだれ込んできた。
悪役令嬢「リリア」として生を受けて十六年。その倍ほどの年月を、日本人として生きてきた。三十余年の年月に、リリアの脳は耐えられなかったのか、フォルテの自己紹介を聞いた私は叫び声をあげ、そのままぶっ倒れたらしい。床に倒れ込んで意識不明となった私は、強制的に実家へと送り返されるはめになった。
意識を取り戻してもひどい高熱を出し、一週間以上生死の境をさまよった。
転生前の記憶なんて、思い出すものじゃない。やっと起き上がるようになったのがつい昨日のこと。そして私はいま、久しぶりに実家の机に向かっているのだった。
まずは、今の私が覚えていることを書き留めておこう。
ここはアルカナ・アカデミアという乙女ゲームの世界だ。
そして私、リリア・エルトゥールは、その悪役令嬢としてプレイヤーからことごとく嫌われていた。
――ぶりっ子キャラがどうしても受け付けない。
――被害者ぶってムカつく。
――製作者の優遇露骨すぎ。
上記が、前世の私のオタク仲間が語っていたリリアに対する評価だ。
リリアは、アルカナ・アカデミアにおいて、主人公と攻略対象を奪い合うライバルキャラだ。それだけでも嫌がられるというのに、リリアが悪評を集めているのは、リリアが関わるイベントの多さだった。リリア関連のフラグ管理を怠ると、すぐにバッドエンド行き。
バッドエンドが多いだけでなく、リリアはその性格の悪さも折り紙つきだった。オタク仲間曰く、すべてにおいてプレイヤーの神経を逆なでするキャラ、だそうだ。リリアが嫌でゲームを投げたひともいるらしい。そこまで嫌われているなんて、可哀想になってくる。
リリアの悪名が轟くなかであっても、「アルカナ・アカデミア」は高い人気を誇っていた。
オタク仲間が言うには、アルカナ・アカデミアの良いところはずばり、自由度が高いゲームということだ。
アルカナ・アカデミアは、学園を舞台にした乙女ゲームで、攻略対象は十名。
主人公は、神に選ばれた聖女として神託を受け、学びを得るために王都にあるアカデミーへ転校してくる。アカデミーには五つのクラスがあり、入学生は自分の出身や属性にあわせ、入学するクラスを選ぶ。だが、唯一無二の聖女である主人公は、自由にクラスを行き来し、各クラスの攻略対象と交流を深めることができるのだ。
聖女としてそれぞれのクラスに参加することで、設定されたステータスが上昇。ステータスによって、攻略対象の好感度があがる。主人公が二年生として入学してから卒業するまでの約二年をたっぷり使い、攻略対象と結ばれるまでの過程を楽しめる作品だ。強制参加のイベントはほとんどなく、どのイベントを起こすかはプレイヤーに委ねられる。この仕様も相まって、何十周もプレイする猛者もいたのだとか。
現時点で覚えている内容を洗いだして書いてみたものの、半ページしか埋まっていない。というのも、私自身はアルカナ・アカデミアをさわりしかプレイしていない。オタク仲間に感化されて始めたものの、仕事が忙しくなりすぐに積みゲーと化してしまった。
ストーリーの序盤しかプレイしていないので、結局どんなイベントがあったのかも覚えていない。オタク仲間がSNSで色々言っていたことを、断片的に覚えているくらいだった。
それにしても、かつての私はどうして転生したのだろう。
平々凡々のOLライフを送っていたはずなのだが、いつ何で死んだのか覚えていない。トラックにぶつかった記憶もなければ、誰かに刺された記憶もない。
ぼんやりと思い出すのは、仕事をして帰るだけの冴えない日々。上司から怒られ、同僚に手柄を取られ、後輩には舐められる。親は頼れず、毎日生きていくだけで精一杯で、気力を失っていた。学生のようには推し活もできず、だからこそSNSで見るオタク仲間たちが羨ましかった。推しに一生懸命で、感情を全開にしてコンテンツを楽しんでいる様子が、きらきらと眩しく見えた。そんな私が、よりによって嫌われもののリリアに転生するなんて。
「はぁ。ついてないなぁ」
机に突っ伏してつぶやいたその時、背後から低い声が聞こえてきた。
「どうしたんだい? リリア」
「……っ?!」
がばりと起き上がって振り向くと、そこにいたのはリリアの兄――アベルだった。
リリアと同じ真紅の瞳に、キャラメル色の髪の毛がさらりと揺れる。目尻の下がった甘い顔立ちをしたアベルは、甘々な見た目と激甘なストーリーのせいで、たくさんのプレイヤーを虜にした。アルカナ・アカデミアの人気キャラは多数いるが、もっとも過激ガチ恋勢が多いのがアベルだ。イベントでは、アベル推しの女の子たちが痛バを作ってバチバチしていたらしい。
「そんな驚かなくてもいいじゃないか。かわいい妹の様子を見にきただけだよ」
そう言って、アベルは私の頬にそっと触れた。触れられたところに火が点いたように熱くなっていく。端正な顔が近づき、私は思わず身体を固くした。私の様子を気にする素振りもなく、アベルは点検するように私の身体のあちこちを優しく触れる。間近に迫るアベルの視線を感じながら、私はただうつむくことしかできない。拷問のように感じられた時間は、最後に頭をぽんぽんとされたことで終わりを告げた。いつの間にか息を止めていたからか、頭がくらくらする。
「うーん。顔も赤いし、まだ本調子じゃないみたいだね。もう少し寝ていたほうがいいんじゃないかい?」
アベルの赤い瞳が心配そうにリリアを見つめている。
心配してくれるのはありがたいが、この調子では命がいくらあっても足りない。
「も、もう大丈夫です」
「リリアは頑張り屋さんだけど、今は無理しちゃ駄目だよ」
そう言って、アベルは椅子に座っている私に近づいた。
なにをしているのだろうとアベルを見上げた瞬間、リリアとしてこれまで過ごしてきた十六年間の思い出が蘇ってくる。
――リリアは、アベルにお姫様抱っこでベッドに移動して、十六歳になっても兄に寝かしつけられていた。
そうだ。この兄は、極度のシスコンなのだった。
そして、おそらくアルカナ・アカデミアでは語られていなかったが、私と兄は半分しか血が繋がっていない。妾の子として生まれ、エルトゥール家の証である赤の瞳を持っていたために、この家に縛られることになったかわいそうな子。それが私だった。
私が赤い瞳を持っていたために、実の母はエルトゥール伯爵を脅し、金をむしり取った。最初から、母に伯爵への愛などなかった。伯爵もまた、実の母や私に対しての愛などなかった。だが、エルトゥール家の証である赤い瞳を放っておくわけにはいかない。伯爵は多額の金を母に支払い、そして私をエルトゥール家に向かい入れた。実の母がその後どうなったかは知らない。私は捨てられたのだ。
エルトゥール家に入ってからも、アベルの母からはひどく嫌われていた。私のせいで伯爵家は崩壊状態。この件を知る者はほとんどおらず、私は正当なエルトゥール家の娘だと思われている。外で伯爵夫妻は完璧な仮面夫婦を演じているし、私もそれに倣ってきた。
プレイヤーからことごとく嫌われていたリリアだが、もしかしたら本来はこれらの裏設定でヘイト管理される予定だったのかもしれない。
兄アベルがリリアを溺愛するのも、このいびつな関係性があるからだった。
アベルがリリアに向けている感情は、憐れみだ。
――生まれてしまったことが罪。
アベルの母にそう言われたことを思い出して、胸がちくりと痛んだ。
キャラクターとしてのリリアに同情している他人の自分と、そのリリア自身としての十六年間が混ざって、苦しくなる。誰にも愛されなかった前世の私と、リリアが重なって見えた。
「リリア。なにかあったの? 悲しい顔をしている」
アベルが表情を曇らせた。
「なんでもありません。あの……お兄さま。私、今度からひとりで寝ることにします」
無理に笑顔を作って、私はほほ笑んだ。
”アルカナ・アカデミアのリリア”として生きるのはもう終わりだ。
悪役令嬢として、皆に嫌われ虐げられるリリアとしての人生なんて、かわいそうだ。
私は、この世界でリリアとして、愛されて生きてみたい。
現実の私が感じられなくなってしまった、色んな感情をもう一度味わってみたい。
ふつふつと、そんな思いが胸に湧き上がってくる。
もう、アベルに憐れまれるような可哀想な妹はやめだ。
「しばらく床に臥せっていて気づいたのです。私もいつかこの家を出るのです。いつまでもお兄さまに頼ってはいられません」
アベルが目を丸くして私を見ている。
いつもお兄さまお兄さまとくっついてくる妹からこんなことを言われるなんて、一ミリも考えていなかったのだろう。
茫然としているアベルに向けて、私は駄目押しとばかりに微笑んで見せた。
「お兄さま、私そろそろ寝ます。おやすみなさい」
「……お、おやすみ。リリア」
絞り出したような声で就寝の挨拶をして、アベルは困惑しながらも自室へと帰っていった。
* * *
医者からはしばらく自宅療養をせよとのお達しがあったが、私はすぐにアカデミーに戻ることにした。倒れた原因は前世を思い出したからで、ふたつの人生の記憶があることにも慣れた。もう悪くなることはないだろうという判断だった。じいやに無理を言って用意してもらった馬車に揺られながら、今後のことを考える。
まず絶対にしてはいけないことは――主人公と接触することだ。
私に主人公を妨害する意図はないが、ゲームの強制力が働いて妨害せざるを得ない状況に陥る可能性はある。
もしそうなったら、私はどうなってしまうのか。
主人公にヘイトを向けられてしまったら、悪役令嬢としての私は強制退場となるかもしれない。
それは避けたかった。
私はこのアカデミーで、独り立ちできるぐらいの力を付けたい。伯爵家を出て、ただのリリアとして生きていきたい。
そのためには、私が通っている錬金術師クラスでの学びは、ためになる。街でひっそりポーションを売って過ごすというのもいいかもしれない。そこでささやかな家庭を築けたら尚良い。
ぼんやりと妄想に浸っているうちに、アカデミーの前に着いた。私は鞄から鏡を取り出し、軽く髪を整える。
血を吸ったような赤の吊り目に、艶やかな黒髪。ぱっつんの重め前髪と姫カット。長いまつ毛に薄桃色の唇はどこからどう見ても美女なのだが、近寄りがたい雰囲気はザ・悪役令嬢だ。鏡のなかのリリアは緊張して見えた。
リリアにとっては慣れ親しんだアカデミー。だが、前世の記憶が蘇った私にとっては入学初日にも等しい。深呼吸をしてから、私は馬車を出た。
そびえ立つアカデミーをちらりと見上げて、私は自分のクラスへと足を進める。アカデミーは三つの塔からなっており、私が所属する錬金術師クラスは入り口から遠い奥の塔にあった。
クラスに入ると、私の周りに集まってきたのはいわゆる取り巻きの二人――レティシアとサーシャだった。
「リリア様! もうよろしいのですか?」
「えぇ。もうすっかりよくなったわ」
私は素直に謝った。ふたりはほっとしたような表情を浮かべている。
レティもサーシャも、エルトゥール家には劣るものの名家の令嬢だ。彼女たちは伯爵家令嬢であるリリアの庇護を期待し、リリアを持ち上げてリリアのご機嫌をとって過ごしてきた。貴族らしく血筋には厳しく、それゆえにリリアは自分の出自を知られないようにと、これまでビクビクして接してきた。
これまでは一緒にいても良かったかもしれないが、主人公フォルテが現れてしまった以上、このままではいられない。私と一緒にいると、彼女たちまで悪役令嬢としてよくない目にあってしまうかもしれない。彼女たちとの関係性も今後は考えていく必要がありそうだった。
周りのクラスメイトたちは、遠巻きにリリアへ視線を送るだけ。
私はその視線には見ないふりをして机に座り、鞄に入っていた教科書を取り出した。
リリアが教科書を出したところを見て、取り巻きのふたりがはっと息をのんだ。新品同然の分厚い教科書には、錬金術の基本から応用まで載っている。この教科書を三年間使い続けるにもかかわらず新品同然なのは、これまでリリアは勉強をほとんどしてこなかったからだ。
驚いているふたりはそのままに、私は教科書に目を落とす。
リリアとして生きていくのなら、勉強は必須だ。こればかりは前世の知識を使うこともできない。
教科書に没頭しているうちに、鐘が鳴り、担当教師が入ってくる。私の二度目のアカデミー生活が始まった。
* * *
午前中は錬金術に関する座学、午後からは本物の魔法植物を使って錬金術をおこなう実習だ。
しばらく休んでいたせいで、実習に使う魔法植物を採取していなかった私は、とぼとぼとアカデミーの植物園を歩いていた。
正直、午前中の時点で私の頭はキャパオーバーだった。
なにも学んでこなかったリリアの頭では、実習をしても事故を起こすだけ。植物を取ってくると手を挙げ――こうしてさぼっているのだった。実習の担当教師のフラン先生からは、出席しようという意志があるだけで素晴らしいと褒めちぎられた。うっすら先生の目に涙が見えたのは気のせいだと思いたい。
アカデミーの有する植物園は、国内の様々な気候に対応した複数のガラス室からなる。薬草づくりに使える植物から、魔力を持った魔法植物まで、多種多様な植物が植えられている。錬金術師クラスにいる生徒はガラス室に入り放題、そして魔法植物も採取し放題だ。このガラス室で育てられている魔法植物たちは安全であり、ちょっとした薬草づくりの練習に持ってこいなのだ。
手にした魔法植物のメモを見ながら、私はぐるぐるとハウスをまわる。書かれている魔法植物がわからない。取り巻きのふたりにもついて来てもらえばよかったなんて思ったが、あとの祭りだった。最後のガラス室に入った瞬間、私の目に飛び込んできたのは一面の花畑と兄アベル、主人公フォルテの後ろ姿だった。
――これは、やばい。
スチルを見たことがあった。アベルと主人公フォルテが出会う最初のイベントシーンだ。
リリアと同じく錬金術師クラスのアベルは、率先して植物の世話をおこなっている。アベルがお世話をする花畑にフォルテが訪れ、アベルはフォルテの髪と同じ、君にぴったりだとピンク色のポピーをプレゼントする。ピンク色のポピーの花言葉は、恋の予感。プレイヤーがうっとりすること間違いなし、のイベントなのだが――アベルの視線はフォルテではなく、ガラス室に入ったばかりの私に向けられていた。
「リリア! どうしてこんなところに!」
こちらに背を向けていたフォルテが振り返る。
私の姿を捉えた瞬間、ピンク色の瞳に怒気が込められる。
「ご、ごめんなさいお兄さま。間違ってきちゃったの、大丈夫。なんでもないわ」
しどろもどろになりながら答えるが、アベルはずんずんとこちらに近づいてきて、私のおでこに手を当てた。
「こんな早くアカデミーに復帰するなんて、さすがに無理をしすぎだよ」
いつも優しくリリアに甘いアベルの語尾に、叱責の色が混じる。
私は思わず目を見開いた。記憶にある限り、アベルに怒られたことなんて、一度もなかった。アベルはいつも私をお姫様のように扱い、私が言うことすべてを肯定してくれたはずだった。
「……ごめんなさい」
私はしゅんと肩を落とした。アベルを怒らせたいわけではない。
でも、前世を思い出したから体調が悪かった、もう大丈夫だ、なんて言えるわけがない。謝ることしか私は知らなかった。
「リリア。顔をあげて。きつい言い方をしてごめんね。驚いてつい言ってしまった」
言われる通りに顔を上げると、ぽんぽんと頭を撫でられる。
「あのぉ、ごめんなさい」
その時、アベルの後ろからフォルテが声をかけた。
ぴく、とアベルのこめかみが動いたのがわかった。
「あたし、魔法植物のこと詳しくなくて。教えてくれませんか?」
「あぁ。君は聖女のフォルテさん……だったっけ」
アベルの声がワントーン下がる。
「そうです。あたしのこと知ってくれてたんですね。嬉しい」
「聖女さまだからね、そりゃあこのアカデミーに通っているなら皆知ってるよ」
フォルテはにこにこ微笑みながらアベルと会話しているが、ちらちらとこちらに視線を向けているのがわかる。
ひやりと背筋につめたいものが走った。絶対にフォルテと関わらないようにしようと思ったのに、初日で躓いてしまうなんて。
私は音を立てないように、そろりそろりと後退する。そしてアベルが会話に気を取られているうちに、脱兎のごとく駆け出した。
「リリアっ?!」
今さっき心配させてしまったところ申し訳ないが、追い付かれてたまるものかと、私は全力疾走をかました。
前世もあわせたら何十年ぶりの全力疾走だ。後ろからアベルの足音が聞こえていたが、そのアベルを追うフォルテの叫び声も聞こえ、私を追う者は誰もいなくなった。無我夢中で走り続けているうちに、私はアカデミーの奥に迷い込んでしまったようだ。
他のクラスが演習をおこなう森が見える。
ここまで来れば大丈夫かと、私は森の入り口にあった大きな木の下に倒れ込んだ。ドレスが汚れても構わない。もう私の身体は限界を迎えていた。ごろりと仰向けになって目をつぶり、荒い息が静まるのを待つ。
そして目を開いたとき、木の幹から誰かがこちらを見ていることに気づいた。
ひゅっと私の喉から声にならない悲鳴が漏れる。
すると、木の上から誰かが降ってきた。その姿に目を奪われる。
透き通るような白銀色の髪が目にかかり、髪の合間からトパーズのような金の瞳がこちらを見据えている。褐色の肌に高く通った鼻筋に、薄い唇。左の頬から唇にかけて、傷痕が走っている。肌の色から、この国の者でないことはすぐにわかった。つまり、他国からの留学生だ。
「あんた、どうしたんだ?」
くっくっくと笑い声をあげて、彼は私に近づいてくる。レディを笑うなんてと一瞬だけむっとしたが、客観的に考えると笑われるのも当たり前だ。全力疾走する伯爵家令嬢なんて珍妙な姿を見せてしまったのだ。彼が見た景色を想像して、私も思わずくすくすと笑い声をあげた。彼の低い声と私の笑い声が重なる。ひととおり笑ってから、彼は倒れている私に向けて手を差し出した。
その瞬間、脳裏に記憶が蘇った。
――彼が、凶犬だ。
最高難易度の隠し攻略対象。
彼を攻略するには、ただステータスをがむしゃらに上げるだけではだめだ。ランダムに移動する彼の移動場所を突き止め、そこでイベントを起こす必要がある。つまり、私は無意識のうちに凶犬ルートのイベントを起こしてしまったということになる。
どくんどくんと、心臓がうるさく音を立てていた。
ここで彼の手を取ってしまったら、なにかが変わる予感がしていた。
「どうした?」
口元に笑みを浮かべながら、凶犬は私が手を取るのを待っている。
手を取りたい、と思ってしまった。
噂に聞いていた凶犬と、目の前にいる一緒に笑い合った凶犬があまりに違いすぎたからかもしれない。
私は思い切って、凶犬の手を取った。
――それが私の人生を大きく変えることになるとも知らずに。




