第8話:溶け合う二人
嬉しい。そう、叫びたいくらいに。 なのに、私の口から出たのは、可愛げのない氷のような言葉だった。
「……タカシ、なんで来たの?」
振り返った私の声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。
「ユカリさんにお礼、しなくてよかったの? わざわざ忘れ物を届けてくれたんでしょ。……マサコちゃんだって、私のために怒ってくれてたのに、あんなところに置き去りにして……」
最低だ。 来てくれた彼に対して、私はまた、自分から距離を置くような言葉を投げつける。 心の中では『追いかけてくれてありがとう』って、そのシャツの袖を掴んで泣きたいのに。
「……そんなの、どうでもいいだろ」
タカシが、一歩詰め寄る。
「どうでもよくないよ! 今のタカシの友達は、あの子たちでしょ? 私とは、もう学校も制服も違うんだから……」
言いながら、視界がまた歪み始める。 タカシが私のために走ってくれたという事実が、今の私にはあまりにも眩しすぎて、直視できない。 素直になれないまま、私は逃げるように自分の家のドアに手をかけた。
「帰ってよ。……私、もう疲れたの……」
嘘だ。本当は、一秒でも長く、私の名前を呼んでほしくてたまらないのに。私が吐き出した冷たい言葉を、夜の静寂が飲み込んでいく。 「帰ってよ」と、もう一度突き放そうと唇を震わせた、その時だった。
「……ごめん」
タカシが短くそう呟くと同時に、視界が大きく揺れた。 強い力で腕を引かれ、気づいた時には、私は彼の胸の中に閉じ込められていた。
「っ……あ……」
鼻先をかすめる、洗剤の匂い。 着慣れないはずの、少し硬いシャツの感触。 朝、あれほど私を絶望させた「私服のタカシ」の体温が、今は驚くほどダイレクトに私に伝わってくる。
「ちょっと、タカシ、何してるの……っ。ここ、家の前だよ。誰かに見られたら……」
動揺して声を荒らげても、タカシの腕は解けない。それどころか、彼は私の背中に回した手に、さらに力を込めた。
「見られたっていい。……お前がそんな顔して泣きそうなのに、放っておけるわけないだろ」
耳元で響く、タカシの低い声。 その震えから、彼もまた、余裕なんてこれっぽっちもないことが分かってしまう。 マサコちゃんの前でも、ユカリさんの前でも見せなかった、私だけが知っている「余裕のないタカシ」。
「タカシ……」
私の紺色のブレザーが、彼のシャツと擦れて音を立てる。 違う学校、違う制服。 今日一日、私を苦しめてきたその「境界線」が、抱きしめられる強さの分だけ、少しずつ溶けていくような気がした。
私は、彼のシャツの裾をぎゅっと握りしめた。 素直になれない心とは裏腹に、私の身体は、彼の温もりを離したくないと叫んでいた。
彼の胸の中で、ドクドクと速い鼓動が伝わってくる。 抱きしめられた温もりに、さっきまで私の心を縛っていたトゲが、スッと消えていくのが分かった。
「……タカシ」
「ん?」
「……そのシャツ、すごく似合ってるね。……本当は、朝、一番に言いたかったんだよ」
勇気を振り絞って見上げると、タカシは一瞬目を見開いた後、 「っ……あ、ありがとう」 と、照れくさそうに、でもこれ以上ないくらい優しくニコリと笑った。
その笑顔を見て、ようやく気づく。 私、ずっとこれが欲しかったんだ。
けれど、タカシは急に我に返ったように腕の力を緩めた。耳まで真っ赤にして、バツが悪そうに視線を泳がせる。
「あ……ごめん。いきなり抱きしめたりして……。俺みたいなやつに、こんなことされて……気持ち悪い、だろ?」
何を言っているの、この人は。 私は解けかけた彼のシャツの裾を、今度は自分から強く握りしめた。
「なんで……? ……っ、ずっとしててほしい」
今まで自分でも出したことのないような、甘えた声が出た。 タカシの身体が、びくんと硬直する。
(……やばい。なんだ、今のユキ。可愛すぎるだろ……!)
タカシの胸の鼓動が、さらに一段と高鳴るのが伝わってくる。 なんですぐに、こうしてあげられなかったんだろう。
(あの進路面談の時……。ユキが別の学校に行くって言ったから、てっきり俺は嫌われてるんだと思ってた。……好かれてるのかはまだ自信ないけど、でも、少なくとも嫌われてはないんだよな、これ……?)
タカシは心の中で、必死に自分に言い聞かせていた。 そんな彼の不器用な戸惑いを知ってか知らずか、ユキは彼の胸にそっと額を預ける。
春の夜風が二人を追い越していく。 違う制服を纏っていても、今は、この腕の中だけが、私たちの確かな居場所だった。




