乙女ゲームの悪役令嬢、運命の階段を転げ落ち、逆行転生を繰り返して本当の幸せを追い求めた結果
「婚約を破棄いたします」
王子ルシエンの冷たい声が、舞踏会場に響き渡った。シャンデリアの煌めきが、まるで嘲笑うように私の頬を照らしている。その瞬間、私は踊りの最中につい相手の足を踏んでしまった。「あ……」小さく呟いた私を見下ろす王子の瞳は、氷よりも冷たかった。氷。冷たい氷のような──その感触が、なぜか妙に懐かしく感じられた。
私、エリザベス・フォン・クラウゼンは、多くの人々から高慢な令嬢として恐れられてきた。金髪を高く結い上げ、常に顎を上げて歩く姿は、確かに高慢そのものだったかもしれない。だが、それは仮面だった。本当の私は、ただ愛されたかっただけなのに。ただ、誰かの温かい手に包まれたかっただけなのに。
「ご、ご婚約の破棄ですって?」震え声で問い返す私を、ルシエン王子は氷のような瞳で見下ろした。その隣には、私の親友だったアンナが控えめに微笑んでいる。栗色の髪を三つ編みにした、素朴で優しい少女。かつて私が唯一心を許していた相手が、今は私の恋敵となっていた。
「君の行いは目に余る。特に、アンナ嬢への嫌がらせは看過できない」王子の言葉が、私の胸を貫いた。「君は美しい。それは認めよう。だが、心が伴わない美貌など、空虚でしかない。アンナ嬢の純真さ、優しさに比べれば、君の美貌など塵芥に等しい」
違う。アンナを苦しめるつもりなんて、一度もなかった。ただ、彼女が羨ましかっただけ。素直で、純粋で、誰からも愛される彼女が。私もそうなりたかった。でも、どうしても素直になれなくて、いつも意地を張ってしまって……。
一瞬、アンナと目が合った。昔、二人で庭園で摘んだ薔薇の香りを思い出す。あの時、彼女の小さな手が私の手に触れた瞬間の、温かさを。あの頃は本当に親友だった。「エリザベス様……」彼女の唇が小さく動いたが、声は聞こえなかった。
背筋を伸ばし、顎を上げて、私は静々と舞踏会場を後にした。誰にも気づかれないよう、涙を堪えながら。大理石の床が足音を冷たく響かせる。この冷たさも、なぜか記憶の奥で共鳴するものがあった。
婚約破棄から一週間後、私は自室で手紙を読み返していた。父からの勘当通知書。母からの絶縁状。かつての取り巻きたちからの冷酷な別れの言葉。全てが私から離れていく。メイドたちの足音すら、私の部屋を避けるように遠ざかっていった。
そんな時、アンナが訪ねてきた。以前とは明らかに違っていた。控えめだった立ち振る舞いに自信が宿り、素朴だった装いも洗練されている。まるで別人のようだった。
「エリザベス、元気にしてる?」親しげに名前を呼ぶアンナに、私は戸惑った。以前の彼女なら、必ず「エリザベス様」と敬称をつけていたのに。
「実はね、私、変わったの。前世の記憶を思い出したのよ」
前世? 何を言っているのだろう、この子は。
「階段から落ちて頭を打った時に、全部思い出したの。私、前世では『日本』という世界に住む女子高生だったのよ」
アンナの説明は、私の理解を遥かに超えていた。日本。それは魔法も王族も存在しない、奇妙な世界らしい。人々は『電車』という鉄の箱に乗って移動し、『スマートフォン』という小さな箱で遠くの人と話をする。空には『飛行機』という鉄の鳥が飛び、夜でも昼のように明るい『電気』という力がある。
「信じられないでしょう? でもそこでは、この世界のことを『乙女ゲーム』として知っていたの。画面の中の物語として」
画面? 物語? 私の頭は混乱した。つまり、私たちの人生は、別の世界では娯楽として消費されているということなのか?
「つまり、あなたは……」
「そう。この世界の『攻略対象』がルシエン王子で、『悪役令嬢』があなた、エリザベスだということを知っていたの。だから、ゲームの知識を使って王子の心を掴むことができた」
愕然とした。つまり、私は最初から負ける運命だったということなのか? ゲームの中の悪役として、破滅する定めだったと?
「でも安心して。あなたにも前世があるはずよ。きっと忘れているだけ。実はね、あの階段には言い伝えがあるの。『運命の階段』って呼ばれていてね」
「運命の階段?」
「昔から不遇な女性たちがそこで頭を打った拍子に前世を思い出してきたのよ。不思議なことに、その階段は世界中のあちこちにあって、どれも必ず十三段で作られているの。まるで何かの意味があるみたいに。この街にあるのは、王立図書館の裏にある古い石段。私が聞いただけでも、十人以上の女性がそこで記憶を取り戻して、人生を好転させているの」
運命の階段。十三段。王立図書館の裏にある、古い石段。アンナが去った後、私は一人でその言葉を反芻していた。
前世。もし私にも別の人生があったなら。そこに今よりも幸せになれる記憶があったなら。
数日間、私は悶々と考え続けた。朝起きるたびに、鏡に映る自分の顔を見つめた。この顔で愛されなかったのなら、前世では違う顔だったのかもしれない。この性格で嫌われたのなら、前世では違う性格だったのかもしれない。
もしかしたら、本当に別の人生があったのかもしれない。そこでは愛され、大切にされていたのかもしれない。そんな希望に胸を膨らませながら、私は王立図書館へ向かった。
王立図書館の裏手にある石段は、確かに古い歴史を感じさせる佇まいだった。薄暗い森の中にひっそりと佇む階段は、アンナの言った通り全部で十三段。下から数えて一段、二段、三段……十三段目が一番上だった。石には青緑色の苔がびっしりと生え、湿った土の匂いが鼻をつく。一番下の石に触れてみると、夏だというのに冷たく、まるで氷のようだった。その冷たさが、なぜか私の肌に馴染んだ。まるで、何度も何度も触れてきたかのように。
「本当にここで前世を思い出せるのかしら……」一人呟きながら、私は階段の前に立った。日は既に傾き始めており、木々の隙間から差し込む夕日が石段を赤く染めている。
心臓が激しく鼓動している。怖い。でも、今更引き返すわけにはいかない。意を決して、私は十三段目の頂上に立ち、勢いをつけて転がり落ちた。
十三段目から始まった転落。足を滑らせ、体が宙に舞う。十二段、十一段、十段──石段の冷たい感触が背中を打つ。九段、八段、七段──なぜか数を数えている自分がいる。六段、五段、四段──まるで、これが何度目かの挑戦であるかのように。三段、二段──。
一段目。
ガン!
後頭部に激痛が走った。視界が一瞬真っ白になり、それから暗闇に包まれた。その瞬間、確かに感じた。この痛み、この衝撃を、私は知っている。何度も、何度も味わってきた──。
そして、突然記憶が蘇った。私は田中恵梨香という名前の、平凡な会社員だった。現代日本。アンナが語っていた、あの奇妙な世界。電車に揺られ、高いビルが立ち並ぶ都市で働いていた。魔法も王族もない世界。でも、それでも階級はあった。学歴、職歴、容姿、家柄。見えない鎖が人々を縛っていた。
毎日満員電車に揺られて会社に通い、上司に怒られ、同期に先を越され、恋人にも振られて……。そう、前世でも私は不遇だったのだ。三十二歳で過労により体調を崩し、病院のベッドで一人寂しく息を引き取った。
「やった……やっと思い出せた……」
暗闇の中で、私は歓喜に震えていた。ついに前世の記憶が蘇ったのだ。田中恵梨香としての人生が、鮮明に思い出せる。これで、きっと人生が変わる。今度こそ幸せになれる。
でも、喜びもつかの間だった。
体の感覚が失われていく。手足が動かない。呼吸ができない。意識がどんどん薄れていく。
「え……? まさか……私、死ぬの?」
恐怖が全身を駆け巡った。ついに前世を思い出せたのに、打ちどころが悪すぎたのだ。十三段目から転がり落ちて、一段目の石に後頭部を強く打ちつけすぎて、致命傷を負ってしまった。一番下の、最後の石に。
「そんな……せっかく思い出せたのに……」
絶望が私を包んだ。こんな理不尽なことがあるだろうか。
「助けて……誰か……まだ死にたくない……」
でも、もう遅かった。私の意識は暗闇の彼方に消えていった。最後に感じたのは、一段目の石の、底知れぬ冷たさだった。
◇◇◇◇
気がつくと、私はベッドにいた。白い天井。消毒液の刺激的な匂いが鼻を突く。
「あれ?……生きてる?」
私は慌てて自分の体を確認した。息ができる。心臓が動いている。手足も動く。
「生きてる! 生きてる!」
喜びで胸がいっぱいになった。階段で頭を打って死んだと思ったのに、なぜか生きている。そして──
「前世の記憶もある! 田中恵梨香の記憶が鮮明にある!」
手を見ると、エリザベスの白い手袋ではなく、荒れた素手があった。爪に小さな傷跡がある。働く女性の手だった。触れてみると、確かに温かい。生きている温かさだった。鏡を見ると、金髪ではなく黒髪の、見慣れた顔があった。
「えっ、えええっ!?」
これは田中恵梨香の顔だ。田中恵梨香の体だ。でも、どうして? 私はエリザベスとして階段から落ちたのに、なぜ田中恵梨香として目覚めているの?
看護師が慌てて駆けつけてきた。「田中さん、大丈夫ですか? 意識が戻ったんですね」
「い、意識が戻った? 私は……死んだはずなのに……」
「何を言ってるんですか。ここは病院です。あなたは過労で倒れて、三日間眠っていたんですよ」
三日間? 過労? 私の頭は完全に混乱していた。エリザベスとしての記憶がある。王子に婚約破棄され、階段から落ちて死んだ記憶が鮮明にある。でも、今は田中恵梨香として病院にいる。
「あれは……夢だったの? それとも……」
私は必死に状況を整理しようとした。エリザベスとして十三段目から転がり落ち、一段目の石に後頭部を強打して死んだ。そのはずなのに、今は田中恵梨香として病院にいる。そして、エリザベスとしての記憶も、田中恵梨香としての記憶も、両方とも鮮明に残っている。
「まさか……『運命の階段』というのは……」
アンナの言葉が蘇った。「運命の階段で前世を思い出した」という話。でも、私の場合は思い出すだけではなかった。
「そうか……階段から落ちると前世を思い出せる。そして、一段目で頭を打って死んでしまうと……その前世に戻ることができるのね」
これが真実なら、階段は単なる記憶回復の手段ではない。時空を超える扉、転生装置だったのだ。そして、十三段という数字には、きっと深い意味がある。
エリザベスとして生きた人生は夢ではない。現実だった。王子との婚約、アンナとの確執、全てが実際に起こったことだった。そして私は死んで、田中恵梨香としての人生に戻ってきたのだ。
すなわち、逆行転生。
「信じられない……でも確かに、エリザベスの記憶がある。王子の冷たい瞳も、舞踏会場の煌めきも、全部覚えている……」
私には二つの人生があるということだ。そして今、田中恵梨香として生きている。
絶望から一転、希望が湧き上がった。前世の記憶を持ったまま、田中恵梨香として生きている。今度こそ、この知識を活かして幸せになれるはずだ。私にはエリザベス・フォン・クラウゼンとしての記憶がある。王子に愛されなかった悲しみ、アンナへの嫉妬、そして運命の階段で味わった絶望。
「エリザベスの時は王子に愛されなかった……でも、きっと……」
貴族としての立ち振る舞い、上流社会での作法。きっと、これで変われる。今度こそ幸せになれる。
希望に胸を躍らせながら、私は退院した。前世の記憶を活かして、今度こそ素敵な恋をして、王子のような人と結ばれよう。破滅エンドは絶対に回避してみせる。
まず、私はエリザベスの知識を使って自分を変えようとした。貴族らしい上品な振る舞いを身につけ、髪型を変え、服装にも気を遣った。鏡の前で何度も練習した。「ごきげんよう」なんて挨拶も覚えた。
職場のコンビニで昼食を買う時、おでんの玉子を見つめながらふと思った。エリザベスなら、こんな庶民的な食べ物を口にすることはなかっただろう。でも、この玉子を手に取った時の温かさ、出汁の染みた優しい味──いや、私が求めているのは、こんな小さな幸せではない。もっと大きな幸せだ。
職場でも、エリザベスが王子に見せていた笑顔を真似して、男性社員に接してみた。きっと前世の記憶があれば、恋愛もうまくいくはずだ。私には貴族令嬢としての経験があるのだから。
でも、上司の田村さんは私の変化を気味悪がっただけだった。「田中さん、なんか急にキャラ変わったね。大丈夫?」と心配そうに言われる始末。会議室で資料を床にばら撒いてしまった時、エリザベスなら絶対にしないような失敗に、私は赤面してしまった。
それでも私は諦めなかった。エリザベスならきっとこうしただろう、と考えながら行動し続けた。合コンでも、上品に振る舞い、教養のある話をしようとした。でも、相手の男性たちは引いてしまった。「なんか、ちょっと堅いよね」「お嬢様育ちなの?」
違う。私はただ、前世の記憶を活かそうとしただけなのに。いや、正確には前世ではなく、来世の記憶か。ややこしい。
夜、アパートに帰って鏡を見つめた。エリザベスのような美貌はない。田中恵梨香の平凡な顔がそこにあるだけだった。でも、鏡の表面に触れてみると、ひんやりと冷たい。エリザベスの時に感じた、あの石段の冷たさと同じような──。
婚活アプリも試してみた。プロフィール写真を何度も撮り直し、自己紹介文にエリザベスの教養を滲ませようとした。でも、マッチングした相手とのデートは惨憺たるものだった。
半年が過ぎた。私はまだ独身で、職場でも浮いた存在になっていた。来世の記憶があるのに、なぜうまくいかないのだろう? エリザベスの知識は、この世界では役に立たないのだろうか?
一年が過ぎた。私は相変わらず独身で、エリザベスの記憶を活かそうとしてばかりいた。同僚たちからは「変わった人」と思われるようになっていた。でも、私は現実を受け入れようとしなかった。
朝、鏡を見るたびに思った。エリザベスなら、あの美しい容姿なら、きっと愛されただろうに。田中恵梨香の平凡な顔では、誰も振り向いてくれない。
でも、ある日、重要なことに気づいた。エリザベスに田中恵梨香という前世があったのだから、田中恵梨香にも前世があったのではないか? 人間は輪廻転生して何度も生まれ変わりを繰り返しているという。そうして、魂は高みへと昇っていく。しかし、悪役令嬢だった私の場合、逆なのでは? エリザベスも田中恵梨香も、どちらも不遇だった。ということは、もっと古い前世に遡れば、もっとマシな人生があったのではないか?
「そうよ……きっと、もっと昔には幸せな人生があったはず」
私の頭の中で、新しい可能性が膨らんだ。
「そこでは愛され、大切にされていたはず。その記憶を思い出せば……いえ、その人生に戻ることができれば……」
私は現代日本にも、『パワースポット』と呼ばれる階段があることを知った。そこで転んで頭を打つと、前世を思い出せるという都市伝説。ワラにもすがる思いで、私はその階段を訪れた。
もっと幸せな前世を求めて……。今より愛された人生を求めて……。
その階段は、確かにあった。アンナの話は本当だった。その階段は世界中のあちこちにあって、どれも必ず十三段で作られているという。まるで何かの意味があるみたいに――。この階段も、ちょうど十三段ある。間違いない。
石段に触れてみると、やはり冷たかった。エリザベスの時と同じ、氷のような冷たさ。十三段の階段を上り、最上段に立つ。今度は意図的に、死ぬつもりで身を投げる。
十三段目から始まった転落。十二段、十一段、十段──また、数を数えている。九段、八段、七段──まるで儀式のように。六段、五段、四段──この感触を、私は知っている。三段、二段──。
一段目。
ガン!
頭を強く打った私は、田中恵梨香として死んだ。一段目の冷たい石で、再び。
◇◇◇◇
気がつくと、私は煌びやかな宮殿にいた。絹の衣装に身を包み、頭には宝石をちりばめた飾りが載っている。肌に触れる絹の滑らかさ、耳に響く金の装飾品の音。でも、なぜか全てが冷たく感じられた。まるで、生きているものに触れていないかのように。
鏡を見ると、褐色の肌に黒い瞳の美しい女性が映っていた。鏡の表面も、やはり冷たい。
私は古代エジプトの王女、イシスだった。逆行転生に成功したのだ。
「やった! 今度こそ、幸せな人生よ!」
私は歓喜に震えた。王女という身分、美貌、富。全てが揃っている。エリザベスも田中恵梨香も、この素晴らしい人生に比べれば取るに足らないものだった。
しかし、現実は厳しかった。古代エジプトの王女とはいえ、政略結婚の道具でしかなかった。隣国の老いた王との婚約が決まっており、私の意志など一切考慮されていなかった。
でも、運命は私に一瞬だけ希望を与えた。婚約相手の老王が宮殿を訪れた時、彼は私の手を優しく取り、こう言ったのだ。
「美しい王女よ。私は老いているが、あなたを大切にしよう。私の王国では、女性も学問を修めることができる」
彼の瞳には、確かな優しさがあった。そして、彼の手は温かかった。この転生で初めて感じる、生きている者の温かさだった。もしかしたら、この結婚も悪くないのかもしれない──そう思った瞬間だった。老王は胸を押さえ、そのまま倒れてしまった。心臓の病だった。
「これも不幸な人生だわ……でも、大丈夫。きっともっと昔には……」
三年後、『記憶の古木』の根元にある運命の階段を見つけた。古い木の根で作られた階段は苔に覆われ、触れると樹液のように冷たく湿っていた。そして、やはり十三段。この人生との別れを決めた私は、最上段に立ち、身を投げる。
十三段目から十二段、十一段、十段と転がり落ち、最後は一段目の古木に後頭部を強打して、死亡。
◇◇◇◇
巨大な機械都市で、サイボーグとして目覚めた。私の前世は、サイボーグだったのだ。
「機械の体なら、きっと……」
しかし、私の機械部品は旧型で、すぐに故障した。修理費も払えない下層階級として、スラムで細々と生きることになった。金属の体は常に冷たく、人間だった頃の温かさが恋しかった。
「まだダメ……もっと、もっと昔なら……」
五年後、廃墟の中にある『記憶回路階段』を見つけた。金属でできた階段は錆びて冷たく、触れると電気が走ったが、それも冷たい痛みでしかなかった。十三段。最上段から転落し、一段目の鋼鉄に頭を打ちつけて、死亡。
◇◇◇◇
炎の精霊として目覚めた私は、溶岩の世界で過ごした。しかし、私の炎は弱く、氷の精霊との戦争で捕虜となってしまった。炎の体でありながら、心は氷のように冷たかった。
『火山の記憶階段』の最上段から身を投げた。溶岩石でできた階段は、炎の精霊である私にとってさえ、なぜか冷たく感じられた。十三段目から一段目まで転がり落ちて、死亡。
◇◇◇◇
何度も何度も逆行転生を繰り返した。
光の存在として、闇の存在として、異星人として、植物人間として、鉱物生命体として……。様々な形態で生まれ変わったが、どの人生も完璧ではなかった。必ず何かが欠けており、私は満足できなかった。
そして何より、どの転生でも、最後に行き着く運命の階段は必ず冷たかった。石でも、水晶でも、珊瑚でも、木でも、金属でも、溶岩でも──全て、冷たく、生命のない感触だった。私は何を求めて、何度この冷たい階段の最上段から身を投げているのだろう?
そして、ついに……。
◇◇◇◇
原始の洞窟で目覚めた私は、毛皮を纏った原始人の女性だった。文明など存在しない、火すら満足に扱えない時代。洞窟の中は燻製の匂いと、獣の皮の独特な匂いに満ちていた。
でも、不思議なことに、ここでは全てが違って感じられた。洞窟の壁に触れてみると──温かい。岩の温もりがある。地面に手をついてみると──温かい。大地の生命力が伝わってくる。
周囲を見回すと、同じように毛皮を纏った男性がいた。彼は私を見つめ、優しく微笑んだ。言葉はないが、その瞳には確かな愛情があった。そして、彼の手は──ああ、温かい。本当に温かい。今まで感じたことのないような、深い温かさだった。彼の手は荒れていたが、温かく、私の手を包むように握ってくれた。
「あなたは……」
彼は私の手を取り、洞窟の奥を指さした。そこには小さな子供たちがいた。私たちの子供たちだった。彼らの笑い声が洞窟に響き、その純真な瞳を見つめていると、胸が温かくなった。子供たちの小さな手も、頬も、全てが温かかった。
何度も何度も逆行転生を繰り返した末、私はついにここまで来てしまった。これ以上遡ることはできない。人類最初期の、原始の時代。
でも不思議なことに、ここで私の心は静かになった。
「なぜ……なぜ私は幸せになれないの?」
洞窟の中で、愛する男性と子供たちに囲まれながら、私は深く考えた。なぜ、どの人生でも私は満足できなかったのか。なぜ、階段で別の人生を求め続けたのか。
火起こしに失敗して、何度も何度も石を擦り合わせた。指が擦りむけて血が出た。でも、ようやく小さな火花が散った時、私は心から嬉しいと思った。そして、火が灯った瞬間の温かさ──それは、石段の冷たさとは正反対の、生命の温もりだった。
そして、ある日の夕暮れ、私は重大なことに気づいた。
私は毎回、「前世」に答えを求めていたのだ。もっと良い時代に、もっと良い境遇に、もっと良い容姿に。でも、本当に変わらなければいけないのは、私自身の心だったのではないか。
エリザベスとして生きていた時も、田中恵梨香として生きていた時も、古代エジプトの王女として、サイボーグとして、精霊として生きていた時も、私はいつも「もっと良い何か」を前世に求めていた。でも、結局のところ、私は一度も「今の自分」と真剣に向き合ったことがなかった。
どの人生でも、私は自分を哀れんでばかりいた。不遇な境遇を嘆き、他人を羨み、現実から逃避することばかり考えていた。階段から落ちるのも、究極の現実逃避だったのかもしれない。
でも、もしかしたら、私の不幸の根源は境遇ではなく、この考え方そのものだったのではないだろうか? どんなに恵まれた環境に生まれても、どんなに美しい容姿を持っても、どんなに特別な能力があっても、常に「足りない何か」を探し続ける限り、私は永遠に満たされないのではないか。
そして、何より──私が毎回求めていた「冷たい石段」と、今ここにある「温かい手」の違いに、ようやく気づいたのだ。
原始人として生きる中で、私は小さな幸せを見つけようと努めた。朝の陽射しが洞窟の入り口から差し込む時の温かさ。川で見つけた甘い木の実の味。愛する人の笑顔。子供たちの寝息。今まで当たり前だと思っていたものに、感謝の気持ちを向けてみた。
すると、不思議なことが起こった。同じ環境、同じ境遇なのに、心が軽くなっていった。他の時代と比較することをやめ、今この瞬間を大切にすることを覚えた。
この原始の時代にも、『運命の階段』は存在していた。『太古の記憶石段』として、洞窟の奥深くに隠されていた。苔むした古い石で、表面はつるつると滑らかだった。一番下の一段目に触れると──やはり冷たかった。今まで触れてきた全ての階段と同じ、生命のない冷たさだった。そして、やはり十三段。
でも、私はもうその階段の十三段目に立とうとは思わなかった。
なぜなら、ようやく理解したからだ。私が求めていたのは冷たい石段の先にある幻想ではなく、今ここにある温かい手だったのだということを。幸せは前世にも来世にもない。今、この瞬間に、自分の心の中にあるのだということを。そして、十三という数字の本当の意味も分かった。十三回の転生を経て、十三段の階段を何度も昇り降りして、ようやく私は真実にたどり着いたのだ。
愛する男性の名前はゴルだった。言葉はまだ発達していないが、身振り手振りで意思疎通できた。彼は狩りが上手く、いつも私と子供たちのために食料を持ち帰ってくれた。彼が病気で熱を出した時、私は一晩中彼の額に濡れた布を当てて看病した。その時の彼の安心したような表情は、どの時代のどんな宝物よりも美しかった。そして、彼の額の温かさ、回復していく体温の上昇──それは、冷たい石段では決して得られない、生きているものだけが持つ温もりだった。
「私は……私は幸せなのかもしれない」
ある日、洞窟の入り口で夕日を見ながら、私は呟いた。ゴルが私の肩に手を置き、優しく微笑む。子供たちが私たちの足元で遊んでいる。長男のグルが短い足で一生懸命歩こうとして、よろけてしまう。それを見て、長女のルナが手を差し伸べる。その小さな手の温かさ、兄妹の愛情の温もり──そんな何気ない瞬間が、胸を温かくした。
確かに、この時代は過酷だった。いつ獣に襲われるか分からない。病気になっても薬はない。寒さも飢えも日常茶飯事だ。洗濯もできず、毎日同じ毛皮を着ている。エリザベスの時のような華やかな衣装も、田中恵梨香の時のような便利な電化製品もない。
でも、不思議と心は穏やかだった。
エリザベスの時のような、王子への憧れと嫉妬。田中恵梨香の時のような、SNSでの他人比較と劣等感。古代エジプトの王女の時のような、政略結婚への絶望。異星人の時のような、能力不足への焦燥。
そういった複雑な感情が、ここにはなかった。あるのは、シンプルな愛と感謝だけだった。そして、何より──温かさがあった。冷たい石段ではなく、温かい手がここにはあった。
私たちの間に生まれた三番目の子供が初めて笑った時、私は心の底から幸せを感じた。その笑顔は、王子の微笑みよりも、どんな宝石よりも美しかった。そして、赤ちゃんの頬の温かさは、どんな宝石よりも貴重だった。これこそが、私がずっと求めていた「本当の幸せ」だったのかもしれない。
「ゴル」
私は彼の名前を呼んだ。彼が振り返る。
「ありがとう」
言葉にならない言葉で、私は感謝を伝えた。彼は首を傾げたが、私の気持ちは伝わったようで、再び微笑んだ。そして、私の手を取り、子供たちの方を指さした。彼の手の温かさが、私の手に伝わってくる。
私は立ち上がり、洞窟の奥に向かった。そこには確かに『太古の記憶石段』があった。苔むした古い石が、十三段積み重なっている。何百回、何千回と、不遇な女性たちがここで別の人生を求めてきたのだろう。一段目の石に触れてみると、やはり冷たい。生命のない、絶望的な冷たさだった。
でも、私はその階段を見つめるだけだった。
「もう、要らない」
静かに呟いた。もう、別の人生を求める必要はない。もう、「もっと良い前世があるはず」という幻想に縋る必要はない。もう、この冷たい石段の十三段目に立つ必要はない。
この原始の時代で、愛する人と子供たちと一緒に、一日一日を大切に生きていこう。温かい手を握り締めて、冷たい石段ではなく温かい心を選んで生きていこう。そう決めた瞬間、胸の奥で何かが解けたような気がした。
◇◇◇◇
それから二十年が過ぎた。
私とゴルは年老いた。子供たちは成長し、それぞれ伴侶を見つけて新しい家族を築いていた。私たちには孫もできた。小さな手で私の指を握る孫の感触は、何物にも代えがたい喜びだった。その小さな手の温かさは、私がかつて求めていた全ての宝物よりも価値があった。
文明は相変わらず原始的だったが、小さな部族の中で、私は確かな幸せを感じていた。毎日の小さな喜び、家族の笑顔、季節の移り変わり。春の若草の香り、夏の川のせせらぎ、秋の木の実の甘さ、冬の焚火の温かさ。全てが愛おしかった。特に、焚火の温かさ──それは、冷たい石段とは正反対の、生命の証だった。
ある日、私は病に倒れた。この時代には薬はない。ゴルと子供たちが心配そうに私を見つめている。
「大丈夫よ」
私は微笑んだ。死が近づいているのは分かっていた。でも、恐怖はなかった。
なぜなら、私はついに本当の意味で満足していたからだ。完璧な人生ではなかった。でも、それでも幸せだった。愛する人たちに囲まれて、感謝の気持ちで胸がいっぱいだった。
もう、運命の階段を探すこともない。もう、前世に逃避することもない。もう、冷たい石段の十三段目に縋ることもない。
私は目を閉じ、これまでの全ての転生を思い返した。エリザベスとして感じた王子への憧れ。田中恵梨香として味わったおでんの温かさ。古代エジプトの王女として見た砂漠の夕日。サイボーグとして戦った命懸けの日々。精霊としての美しくも奇想天外な体験。
どの人生にも、美しい瞬間があった。そして、温かい瞬間があった。それに気づけなかっただけだった。私は冷たい石段ばかりを求めて、すぐそばにあった温かい手を見逃していたのだ。この気づきこそが、私がずっと求めていた「本当の幸せ」だった。
ゴルの手が、私の手をそっと包んでいた。
その温かさに、私はまぶたを閉じた。
◇◇◇◇
夢を見ていた。
あの日の舞踏会。人々の笑い声、ドレスのきらめき、シャンデリアの光。その真ん中に、彼がいた。ルシエン王子。あのときと変わらぬ姿で、優しく微笑みながら、私に手を差し伸べた。
「おかえり、エリザベス」
私はためらわずにその手を取った。その瞬間、胸がきゅっと熱くなった。――この手の温もり、知っている。
夢の中なのに、はっきりと伝わってきた。ゴルがいつも握ってくれた、あの手の温かさと同じだった。
私は静かに微笑んだ。
ああ、ようやく、私はたどり着けたのかもしれない。
◇◇◇◇
そのまま、私は二度と目を覚まさなかった。けれど、不思議と心は穏やかだった。
ゴルの手の温もりは、最後まで、ずっとそこにあった。
〈了〉
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
エリザベスの選んだ結末が、あなたの心にも何かを残せたなら、それが何よりの報いです。
ブックマークや★★★★★評価をいただけると、エリザベスの魂が救われる気がします(*ˊᵕˋ*)
感想もお待ちしています。
宜しければ、他の短編や連載作品も読んでいただけると嬉しいです。
代表作『特撮ヒーローの中の人、魔法少女の師匠になる』連載中です。
https://ncode.syosetu.com/n0875ki/
【2025.6.20.追記】
多くの方に読んでいただけているので、裏話を書かせていただきます。
本作は、悪役令嬢ものをベースに、自分のリスペクトしている作品へのオマージュを複数投入して書きました。輪廻転生をテーマにした映画『クラウド アトラス』、小松左京先生のSF短編『明日の明日の夢の果て』などです。
これらの作品に触れてからお読みいただくと、より深くお楽しみいただけるかもしれません。
【2025.6.21.追記】
本作の姉妹篇となる短編『乙女ゲームの悪役令嬢、聖女に勝利するために運命の階段で逆行転生を繰り返した結果』を執筆しました。よろしければ併せてお楽しみください。
https://ncode.syosetu.com/n7931kq/