佳い夜の條件
その話の結末をどうにも思い出すことができない。どころか、筋も、作者も、題さえも。
それで私は街へ出た。
図書館に行けば、その本がある気がしたからだ。本そのものはなくても、あの本と出会った場所へ行けば私の求めている何かが記憶の水面から浮上してきそうな予感がした。
確かに此処だ。私は此処を何気なく歩いていて、あの妙に古めかしくて堅苦しいタイトルが目に止まったのだった。
『佳い夜の條件』——それがあの本のタイトルだ。
題さえ分かればあとは簡単。館内の端末で検索すれば所在が分かる。
ところが、『佳い夜の條件』は検索にヒットしない。何度か試したが結果は同じ、「該当0件」。
念のため司書さんにも尋ねてみたが、「当館には所蔵してないみたいです」とのことだった。そもそも私の図書カードには、『佳い夜の條件』などという本の貸し出し記録は存在しなかった。
「何処か他の施設でお借りになったのかもしれませんね」と言われ、礼を言って引き返す。
試みに、携帯で『佳い夜の條件』と調べてみるが、安眠法やデート指南の記事ばかりで、肝心のあの本は見当たらない。
あらゆる出版物を収集する国会図書館のページにすら『佳い夜の條件』は見当たらなかった。
こうなると私の方が何か勘違いをしているような気もする。『佳い夜の條件』などという本は私の脳が幾つかの体験を継ぎ接ぎして生み出した幻なのだろうか。空想と記憶の劣化との化合物なのだろうか。
けれども、私はあの本を図書館のこの棚のこの段のこの場所で見つけたとはっきり覚えている。あの日、『佳い夜の條件』を借りた私は、図書館に程近い喫茶店で一息にそれを読み終えたのだった。
その時にカフェラテを注文したこと、後ろの席で商談する二人組がやけに煩かったことまではっきりと覚えている。
「いらっしゃいませ。店内でご利用ですか?」
「店内で。カフェラテのMサイズを一つ」
「かしこまりました」
あの日と同じようにすれば何かを思い出せるかもしれない。
この時間は空いている。窓際のカウンター席。左から二番目。あの日も此処に座った、はずだ。
——佳い夜の條件は靜かな事。靜かと云うのは音がせぬ事ではない。草木が眠り、人が眠り、街が健やかな寝息を立てている事を云うのだ。そんな夜を歩いてみたまえ、君。
そう。そんな書き出しだった。
主人公は、そう言って夜の街を歩き始めるのだ。
——不意に目が醒めると遠くから虫の音が聞こえてくるやうな夜が佳い。目を凝らすと雲間に星が瞬いているやうな夜が佳い。
空氣がやや冷たい夜が佳い。酒を飲んだ後、或いは泣き腫らした後、硝子の洋杯に並々と注ぐ透明で冷たい水を飲み干すときのやうな夜だ。
誰しもを受け容れ、誰しもが還る冷たくも温かい暗闇を湛えた夜だ。
曲がり角で出会い頭に猫とぶつかりそうになってお互い吃驚して後ずさる。街灯に群がる虫を眺める。川の流れのテラテラとした光の反射が落葉で揺らぐのに気づいてしばらく川辺に腰を下ろす。
そういう場面があったのを思い出した。確かに有ったのだ。あの面食らった様子の猫が一瞬の後に我に返り急いで暗がりへ駆けて行ったのを思い出した。
そして、主人公は踏切を越え、終電の過ぎた駅を過ぎ、歓楽街の喧騒を抜け、遂に目的の場所に到着した。
——否、夜歩きに目的地など有つてはならぬ。足の向ける場所と言うべきだらう。そこは、_______であつた。
烏が鳴き始め夜が解け始める手前のことで、それはその夜の集大成とも言える場面のはずだった。
けれども、その先はどうにも思い出す事ができない。何処に辿り着いて何があったのか。
そうこうしているうちに、外はもう暗くなっていた。
掴みかけた『佳い夜の條件』の記憶は再び霧散して、折角思い出した部分さえあやふやだ。
すっかり冷めたカフェオレを飲み干して席を立つ。
きっと、今日の事や、彼と旅したあの夜のことを私はすべて忘れてしまうという確信めいた予感がある。その事が少し寂しい。
結局、『佳い夜の條件』では最後、何処に辿り着いたのだろう。『佳い夜の條件』とは何だったのだろう。
そんな疑問さえも、昨日見た夢を思い出す時のように酷く輪郭がぼやけてきている。
あの小生意気で気取った主人公なら、「佳い夜の條件?朝が來れば夢のように全て溶け切つて仕舞い、何か満たされた楽しい気分だけが残っている儚い夜であることサ」とでも言うのだろうなと、そう思った。