セックス & ドラッグス & ロックンロール
これは小説習作です。とある本を開き、ランダムに3ワード指差して、三題噺してみました。
随時更新して行きます。
【お断り】「音楽、ふまじめ、容易」の三題噺です。
「君の音楽には、ふまじめさが足りないね。これは優等生の音楽だよ。」
X先生は、そう口にされた。
以下は30年前、私が初めてX先生の個人レッスンを受けた時に交わした会話だ。
「私の教育方針は基礎重視だ。技術的なことばかり指摘するからウンザリしてしまうかもしれないが、音楽の何たるかは自分で、つかみ取って欲しい。いや、そうしてもらうしかない。音楽の本質は人に教えられるものじゃない。」
この頃は、まだ物知らずだった私は、失礼にもこんなことを聞き返した。
「X先生がつかみ取った本質とは、どんなものなのですか?」
先生は即答した。今にして思えば、こんな無礼な質問に即答できる人と言うのは、そうそういない。どんな人にも真正面から向き合う、この人だからできたことだと思う。
「音と音の間にあるものを聴け、とでも言ったらいいかな。それがようやく理解できるようになったころ、私は演奏家としての盛りをとっくに過ぎていたよ。」
その5年後、私はX先生から告知された。
「私が君に教えられるものは無くなってしまった。君は、ここを去るべきだ。君は何がしたい? どこへ行きたい? 私が知ってる範囲で良ければ紹介状を書くよ。」
思いやりに満ちた先生のお言葉に対し、私はやっぱり無礼な返答しかできなかった。いったい、何を考えていたのかね、この私は。
「確かに技術についてなら、先輩方の誰にも負けると言う気がしません。(よく言うよ、と自己レス)でも、何かが足りない気がするんです。ガラスの天井みたいな物があって、そこで頭がつかえてる気がします。」
ここでX先生は私の顔をジッと見て、しばらく沈黙された。分からなければ「分からない」と即答する、明晰さを重んじるこの人には珍しいことだ。そして、こんな前置きを口にされた。
「これは私の独断と偏見だから、気に入らないと思ったら忘れてくれ。それでも敢えて口にするのは、君の頭の片隅にでも留めておいてほしいからだ。」
こんなことを口にするX先生を初めて見た。
「君の音楽には、ふまじめさが足りないね。これは優等生の音楽だよ。」
X先生の元を離れた後、この不肖の弟子(私のこと)は、やっぱり大カンちがいをしでかした。「一生懸命、ふまじめになろう」としたのだ。
今から思えば、私は運が良かったのだ。どんな遊び人でも、色恋沙汰で身を滅ぼすリスクをゼロにはできないのだから。
「自分には勝負ごと、賭けごとの適性が無い」と言う事が分かったのも、まあ、収穫と言えば収穫だったと言える(かもしれない)。
なにしろ、この不肖の弟子、勝負ごと、賭けごとの際に絶対やっちゃいけないことを全部やるのだ。即ち、すぐ熱くなる。しかも、それが顔に出る。勝てば勝った、負ければ負けたで、それを引きずる。気分転換が苦手中の苦手。
まあ、それを悟った時点でサッと身を引くことができたのは、やっぱり私は運には恵まれていたのだろう。
結論として得たのは「遊びとまじめ/ふまじめは余り関係がない」と言うことだ。
敢えて言えば、「人間って弱いものだな」と身をもって思い知ったのが収穫と言えば収穫か。
誰だって、お金を差し出されたら欲しくなる。ヤバい相手・ヤバい金だと分かっていても、「ナぁニ、誰にも分りゃしませんよ」と、悪魔にささやかれたら、「うん、そうだよな、そうだよな」と「自分に優しく」してしまう。自分を説得してしまう。そうすること自体を非難すべきではないと思う。人間って弱いものだからだ。
性欲、物欲、名誉欲、権力欲については「以下同文」で済ませておく。
アッと言う間に50歳になったが、それでも私は「優等生の音楽」から抜けられないようだ。
つい先日、ある必要があって椿姫の「乾杯の歌」を聴き返した。私はちょっとイライラしていた。心に余裕がない時の音楽鑑賞は余りおすすめできない。
案の定、私は誰にともなく、こんなことを口にした。
「アルフレードの野郎は、どうしてヴィオレッタみたいな危険な女に入れ込んだのかね。私だったら、こんな女と二度は遊ばないね。深入りしたらどうなるかは、この歌を聴けば明々白々じゃないか。」
ここでハッと気づいた。X先生が指摘された「ふまじめさが足りない」は、「分別臭い」と言い替えてもいいと。確かに私は10代の頃から「若年寄」とカゲ口を叩かれることが多かった。(カゲ口なのに私が知っているのは「君の頭の片隅にでも留めておいてほしいんだが」と言って近寄って来るヒルみたいなお節介焼きが、どこにでも必ずいるからだ。)
閑話休題。この「初老のアルフレード」は考えた。
椿姫のアルフレードは、押しの一手しか知らない子どもだったんだろうか。それなら私にも心当たりがある。20代の私はそんな感じだった。
それともアルフレードは、女の扱いを多少は心得たやつだったんだろうか。それなら私にも心当たりがある。30代の私はワルずれして、そんな感じになった。
だが、ただの子ども、ただの遊び人に、ヴィオレッタみたいなプロの女が心を動かすだろうか?
そのすぐ後、不思議な偶然で私はX先生と再会した。師匠も不肖の弟子も、双方とも老け込んでいた。X先生はとっくの昔に音楽家人生から足を洗っていた。先生は言われた。
「君の仕事は、耳にした限りはフォローしているよ。なかなか良い線、行ってるじゃないか。」
私は、またしても無礼な返しをした。これでも少しは処世術を身につけたつもりだが、きっと先生の前では「ただの生意気なガキ」にもどってしまうんだろう。
「先生。やはり私には『ふまじめな音楽』と言うものが理解できないようです。」
そして椿姫から得た「気づき」のことを告白した。
先生は大きな口を開けてアッハッハと笑った。30年前の先生なら、ありえないことだ。人って、変るんものなんだなあ。
「そうそう、それでいいんだよ。君もずいぶん『ふまじめ』なことをしたみたいだね。」
またまた無礼な返しをした。
「私の優等生臭い音楽なんて、私が死んだら一つも残らないと思います。いや、先日、書き飛ばしたピアノ練習曲が妙に評判がいい。近々、日本や中国でも楽譜が出版されるそうです。私の唯一の希望の星が、もしかしたらアレかもしれないんです。」
X先生は、優しいおじいちゃんが、聞き分けのない孫をあやすような調子で、こう諭された。
「後世に残る音楽だなんて、容易なことじゃないよ。いや、まじめに努力すれば得られると言うものでもない。あのアントニオ・ヴィヴァルディだって、死後150年くらいは埋もれてたじゃないか。もう開き直ってしまえよ。50歳の男に無限の可能性はない。このまま行くしかない。後もどりは、できないんだよ。孔子さまだって言ってるじゃないか、『40にして惑わず、50にして天命を知る』って。」
先生、孔子とクラシックは食い合わせが悪いですよぉ。しかも、ここウィーンなんですけど。