ショコラは空を飛ばなかった
長めのチュニックを来た大柄な女性の案内で、ドアが開く。
全体的に漆黒。
赤い絨毯、上にシャンデリア。
造りは石壁。
凝った内装で、かと言って豪勢過ぎるというのでもなく。
入って中央に絵画、二手左右に分かれて、上方に伸びる緩やかな螺旋。
階段。
表にはロールスロイスの車を見つけた。
本来なら、好んで来るような場所ではない。
「通行許可証」ということで、タブレットで確認され。
目顔。奥へ案内される。
左右の階段ではなく、絵画から下の。
一段、一段と地階へ下りていくようだ。
「演奏会限定の曲を弾くの。ただ、その曲は口外しちゃいけないことになっているから」
あの時、彼女が言った。
「普段のお仕事と、少し様子が違う感じ」
「そこまで凝っているの?」
と男。
「シリーズもののドラマでしょう? ピアノでの担当は」
「そう。でも今度の演奏会は別だしさ。方向性がちょっと」
と彼女。
「とにかくあなたなら、観に来てね」
「あなたなら」。
一応、限定で示す言葉ではある。
が、ひろく言って。
「変人」という意味にもとれる。
マイナス思考かもしれないが、やっぱり変わっているのには違いない。
何しろ、凝り過ぎている。
段々を下りて更に、奥へと案内される。
どこの方向も石壁で、正直寒いと男は思った。
コツコツ鳴る足音。
案内は一人ずつの様子。
正確に。かっきり。
やがて扉の前で、
「合言葉は?」
と訊かれる。
ふと見ると、美しく着飾った老婦人。
漆黒のベール。オパール。豪勢な飾り。
そう。ここが肝心な所で。
男は答えた。
「空港」
答えたのは、合言葉。
だが、その内容も少々変わっている。
「あなたなら」。
方向性も何も、場違いであろう自分がこんな演奏会へ来て、扉から内側へ入ろうとしている理由は?
と男は反芻する。
その一。
まず彼女との繋がりだ。
彼女も一応ピアノだが、男も一応触れなかったわけじゃない。
ぶっといギプスを巻くことにさえ、ならなければ。
その二。
合言葉は?
そう、とある「ダイイングメッセージ」である。
今日は誰のか?
明日は?
殺人事件なんて、頻繁に起きるもんでもないが、それでも人間同士。
すったもんだの、勢いに任せて、とか。
それ以外。
殺される側がそれを予め、わかって、メッセージを残した殺人事件。
なんてのも、ちょっと。あったりする。
警察でも何でもない。
男自身はそんな華やかな、というより憧れの的になるような世界には、首を突っ込めなかった。
報道中の情報。
殺人事件で、どんなことがあったか。
それより一つ突っ込んで。
「どんなものが残っていたか」
という部分。
男は、そういうのに興味があった。
無論、彼女もである。
そして、会場に来ている連中もだろう。
どうやって、殺人事件のダイイングメッセージにまで首を突っ込みますか?
そんなことはさておき。
いろんな事件のそれらが、演奏会に入るための条件だ。
今回のは「空港」。
そもそも、正解か。
合っているかどうかも、会場へ来てみないと謎である。
レパートリーは一つ以外にもあるらしい。
過去のレパートリー。
「G線上のアリア」。
「フーガ」。
死んだ奴はバッハと掛けて、何を伝えたかったのだろう?
犯人の名前?
逃げた方向?
所在地?
所属?
それこそ、警察に任せておくべき情報。
とにかく、男は入る。
今回が初めて。
舞台中央にピアノ一台。
これは、容易に予想がついていたが、まんまだった。
更に青と白を中心にした、眼に入る全体の色合い。
「空港」なのだろう。
ここまで凝るのか。
青と白と黒の対比。
あるいは、チュニックか。
ドレスか?
会場の席へ腰掛けている全員が正装かドレス。
そして黒が多いので、全体で色の対比が見事、とも言える。
何度か、照明がついたり、それもゆっくり、消えたりした。
その度、ドアマンの数が更に増える。
男は気が付く。
「何か、異常でもあったんでしょうか?」
落ち着かない客席。
それへわざと面白がって、男は落ち着かない様子で隣に話しかけた。
「照明系統とかでは?」
と隣。
「あなた、何件ぐらいですか」
これには男もピンと来た。
見た方々の事件、その数のことだろう。
「たぶん十件くらい」
「そんなにあるもんかねえ」
と薄ら笑いの隣。
「私は六件がせいぜいでした」
「口外してはいけないわ。ここで起きたことはね」
薄ら笑いとは違って。
男の眼を見て、にっこり笑いかけた老婦人の。
あの入口で言い残した言葉。
残した、か。
何か今の場合、ダイイングメッセージみたいだな。
と男には思えた。
何にせよ「空港」がダイイングメッセージで、一体何を伝えたかったのだろう?
それすらも、男はよく知らない。
被害者はガトーショコラの入った皿と洋酒を傍に、テーブルに突っ伏して死んでいたという。
毒殺が疑われる事件。
「空港」と、一体なんの関係があるのだろう?
しかも会場まで、空港のよう。
ダイイングメッセージの装飾と来た。
中央の彼女もまた、漆黒のドレス姿。
「口外してはいけない」と演奏会前に言われていたが。
曲名。
果たしてどんな?
空港のイメージに凝り過ぎているせいか、中央スクリーンに文字を映す手間は省かれた様子。
お陰で、
「彼女が仕事にしているドラマの担当曲とは、方向が全く違う曲だ」
という印象しか、聴衆には伝わらないだろう。
と男は思った。
当然、自身にも。
雪の降る演出。
実際、上から降りてくる。
「照明は、降って来る演出と相性が合わなかったんでは?」
と隣。
幕間での会話。
それを聞いて、何人かが笑った。
笑うところだろうか?
男にはだんだん疑問に思えて来た。
ダイイングメッセージを知る者限定といって、意外に聴衆が多いこと。
もっと、少なくてもおかしくないはずだ。
さすがに、更にあのメッセージに寄せるのだろうといっても。
被害者を連想させる、ガトーショコラを幕間に配るのは、やり過ぎでは?
「演出、楽しんでいただけましたでしょうか」
とステージの彼女。
「ここからは、ある人のための曲です……」
演奏中の、方々の演出は当然止まない。
男は実に奇妙な気分だった。
一体、楽しむとは?
盛り上がりが目立ってきた中盤。
男は、ステージの照明がちらついたのに気が付いた。
降る。
落下する。
今度は雪でも紙でも、水でもない。
天井板。
それも、ステージへ。