カエルと魔法の杖と秘密の抜け道
ニールはいつだって、親切にしてやろうと思っていた。
誰にって?
当然、女の子。つまり、リナだ。
リナは、村ではちょっぴり浮いた存在だった。
村人のほとんどが、茶色い瞳。それから髪の毛は、だいたいみんな栗色。
色の濃い薄いはある。とはいえ、それくらい、たいした問題じゃない。ないのだが。
リナの目と髪は、『それくらい』じゃなかった。色の濃い薄いといった違いじゃ、おさまらない。
リナの目も髪も。どちらもまっ黒だったのだ。
神秘的な黒。心がぜんぶ、すいこまれてしまうような。
リナの黒を見ると、ニールはなぜだかドキドキした。
村で浮いた存在のリナを、俺が守ってやるんだ。
ニールは使命感に燃えていた。
ついでに言うと、リナの兄貴も村で浮いた存在だったかもしれない。
兄貴のほうは、あかるい茶色に緑をまぜたような、はしばみ色の瞳。それから日が沈む直前の夕焼け空みたいに、燃えるような赤毛だ。
けれどもニールは、男なんざ知ったこっちゃねえ、と思った。
男なら自分のことくらい、自分でめんどう見やがれ。それがニールの言い分だ。
『男は女を守ってやらなきゃならない』
出稼ぎに出ている父親から受け継いだ、男の美学というやつのひとつだった。
その男の美学とやらには『女にはやさしく』という項目もあったのだが、そいつはうまくいかなかった。
ニールはリナをまえにすると、どうしても、いじわるをしてしまうのだ。
そんなつもりはないのに。
いや、うそだ。
そんなつもりじゃないときもあるけれど、そんなつもりのときもある。
リナはニールよりか弱くて小柄な、女の子だというのに。
それなのに、ニールは憎まれ口ばっかりたたいてしまう。
その日もニールは、カエルを放り投げてリナを怒らせてしまった。
リナはカエルが嫌いだったようだ。
カエルのちいさな手足や背中は、ぴかぴか澄んだ緑色で、とてもきれいだった。
まんまるの黒い瞳だって、リナと同じようにきらきらして、宝石みたいだ。
リナと似ているし、かわいい。ニールはそう思ったのだ。
贈り物のつもりだった。うそじゃない。
喜んでくれたらいいな。
片手にカエルをにぎりこんで、ニールはドキドキしながらリナに近づいた。
それでいて、リナを驚かせたいような気持もあった。
素直に「ほらよ」と見せてやるより、リナを「きゃあ」と叫ばせたい気持ちのほうが、ちょっぴり勝ってしまった。
じつのところその前日にも、ニールはリナにダンゴムシを贈ろうとした。失敗だった。
リナの母親が勘づいて、邪魔されたのだ。
それでニールは、今日こそは、と意気込んでいた。
ニールはこっそりとリナにしのびよった。
リナは兄貴と母親といっしょに、ヒナギク畑でヒナギクを摘んでいるところだった。昨日はオオバコを摘んでいた。
家族そろって、父親のてつだいをしているのだろう。
リナの父親は、この村でたったひとりの医者先生だった。
ニールはヒナギクが薬になることを知っていた。
以前、リナの父親の医者先生が、ニールの血まみれのひざこぞうに、すりつぶしたヒナギクの汁をぬりこんでくれたからだ。
医者先生がてきぱきとニールのひざこぞうに薬をぬりこんだり、包帯を巻いたりするあいだ、リナはニールのそばにいてくれた。
かたときもはなれず、ずっとだ。
◇
「だいじょうぶ? 痛くない?」
リナがニールにたずねるのは、これで何度目だろう。
眉をぎゅっと寄せ、まんまるの黒い瞳には涙を浮かべ。
肩の上で切りそろえた黒髪をゆらしながら、ニールをのぞきこんでくるリナ。
なんて痛そうなの、かわいそうに。そんなリナの心の声が聞こえてくるようだった。
リナは今にも泣き出しそうだ。
リナを安心させてあげなくちゃならない。それから、男らしくかっこいいところを見せなければ。
ニールは歯をくいしばった。
とはいえ、ヒナギクのすり汁は、『とんでもなく沁みて痛い。思わず飛びあがってしまう』というほどではなかった。
だからニールは、ぜんぜん痛くないような澄まし顔をよそおうことができた。
◇
あのときは父さんの言う、『男の美学』を守ることができた。
かさぶたもなくなり、すっかりきれいになったひざこぞうをなでさすりながら、ニールは満足した心地で思い返した。
父さんの言うとおりにしていれば、きっとうまくいく。
ニールはそんなふうに思って、今度は『女にはやさしく』という項目を試してみようと考えた。
つまりはそういうわけだ。
宝石のようにきれいなカエルを、ニールがリナに贈ることにした根拠とやらは。
それだから、もちろんニールは、リナが喜んでくれることを期待していた。それが一番の目的だった。
けれどもリナを驚かせたいということだって、同じくらい、ニールの望みでもあった。
このようにして、ニール少年の心境は、複雑怪奇にして単純明快な変化をたどった。
さて。
ニール少年の内側で起きたあれこれについて整理したところで、こんどは現実世界で起きたあれこれへと話を戻そう。
囚われのカエルは、ニールの手の中というおそろしい監獄から、隙をついては脱獄しようと目論んでいた。
ぺたぺた手足をつっぱね、必死になって抵抗する、ちいさなカエル。
ニールは手の中のカエルをぎゅっとにぎりしめた。
カエルの動きが静かになる。
まさか死んじゃいねえよな。ニールは不安になって、手元をのぞきこんだ。
まんまるの黒い瞳で、カエルがニールを見上げている。
いかにもあわれそうにうるんだ瞳。
ニールは顔をしかめ、カエルから目をそらした。
いまから気持ちよく宙に飛ばしてやるんだから、ちょっとくらいがまんしろよ。ニールは、カエルにむちゃを通すことにした。
それから、ヒナギク畑に埋もれるリナの頭にねらいを定める。
さあ、いくぞ。
けれども、ニールが腕を振りかぶるまえに、リナの兄貴と目が合った。
ニールはしかたなく、中途半端に振りあげた腕をおろした。
「ジャックにリナ、いっしょに遊ぼうぜ」
ニールはニヤニヤ笑いを顔に浮かべて、白いヒナギクの花に囲まれた兄妹へと近づいた。
ジャックという赤毛の少年が、リナの兄貴だ。
リナとジャックに血のつながりはないらしく、兄妹はすこしも似ていない。
ジャックはカゴを妹に押しつけてから、妹をその背にかばった。
細い枝で編んだカゴの中には、ヒナギクの花。ちいさな太陽みたいな黄色と白の、愛らしい花があふれかえっている。
ジャックからリナへと、急に手渡されたカゴがゆれ、ヒナギクの花は端からポロポロとこぼれ落ちた。
リナはあわてて、カゴの取っ手を持ちなおす。
「今は無理だ。ヒナギク摘みの途中なんだ」
ニールを睨めつけるジャック。警戒心まるだしだ。
「俺もてつだうぜ」
ニールはヒッヒと肩をゆらして言った。
なぜだか笑いがとまらなかった。おもしろくもないのに。
それどころか、わけもわからずイライラして、むしゃくしゃした。
「てつだいはいらない。終わったら、オレがおまえのうちへ行く。それでいいだろ」
ジャックがそう言いおえるが早いか、リナがヒナギクの中にもぐりこむ。
とうとう、ニールの頭に血がのぼった。
「そうれ! リナに投げてやる!」
ニールはリナに向かって、カエルをつかんだ手を振りかぶった。
じっさいには投げていない。投げるふりをしただけだ。
「やめてよ!」
リナが金切り声で叫ぶ。
ニールはカエルをつかんだまま、ゲラゲラと笑い、ジャックが正義感ぶって「やめろよ」と立ち上がった。
ニールはますますイライラした。
リナを守る役目は、ニールのはずだ。
それなのに、これではまるでぎゃくだ。ジャックがリナを守っている。
誰から? ニールからだ!
こんなのはおかしい。
『男は女を守ってやらなきゃならない』
そういうふうに、ニールは父親から言い含められているのに。
ニールは立ちふさがるジャックに、ヘラリと笑いかけた。
もうそんな気はないよ、いじわるはしないよ、というように。
ジャックがほっとしたような顔つきになったのを見て、ニールはカエルを逃がした。
リナが隠れるヒナギクの小山へと。
そのあとのなりゆきは、推して知るべし、だ。
うっすらと雲のベールに覆われた、あかるい水色の空の下。
ヒナギクの白い花びらが舞い上がった。
◇
木こりが切り落とした大木の切り株を、ニールは腹立ちまぎれに、思いきり蹴っ飛ばしてやった。
けれどもそれは、ニールのむしゃくしゃをなぐさめるどころか、ますますみじめな心地に落ち込ませることになった。
それというのも。
「いてえ!」
思わずとびあがって叫んだものの、ニールは痛めた足を抱え、あわてて周囲を見渡した。
よかった。誰も見ていない。
切り株を蹴っ飛ばしたあげくに、足首をひねるだなんて。あまりにかっこわるい。もし、リナに知られでもしたら。
リナの名が頭に思い浮かんだところで、ニールはぶんぶんと頭をふった。
ニールは気を取り直し、ひねった足首をぶらぶらさせた。
足の具合をたしかめるためだ。痛くない。つぎに足踏み。それからかけあし。
着地するのに、ちょっぴりは痛むけれど、これくらいならだいじょうぶ。森の奥まで探検することだって、ぜんぜん問題ない。
ニールはしゃがみこみ、地面を覆う落ち葉の海に、手をつっこんだ。
がさごそ探れば、ちょうどいい太さと長さの枝がすぐに見つかった。
枝を持ち上げ、日の光にかざしてみる。
日の光を銀色にはじく枝。まるで魔法使いの杖みたいだ。
ニールは立ち上がった。
腰に手を当て、大物ぶってみる。空に向かって枝をふる。
「森の木々よ。枝をゆらし、葉を落とせ」
大人の男のような太く低い声になるよう、ニールは腹の底から声を出した。
「風よ。うずを巻け!」
すると、ちょうどいいタイミングで、森の中を突風が走り抜けた。
木々の枝から葉が舞い落ちたり、落ち葉が舞い上がったりする。
まるで森の大魔法使いになったような気分だ。
ニールは頬を紅潮させ、ふたたび枝を振るった。
「リナが俺をゆるして――」
「リナが、なんだって?」
気持ちよく唱えていた呪文をさえぎられ、ニールは振り返った。
短く刈られ、自由気ままにあちこち飛びはねる赤毛。むっつりと不機嫌そうな顔をした少年が、木の幹に背をあずけて立っていた。
「ジャックかよ」
ニールは魔法の杖を、背中に隠した。
「俺になんの用? おまえも俺のことが嫌いだから、俺とは遊ばないんだろ」
「そんなこと、オレがいつ言った?」
ジャックがあきれたように肩をすくめる。
「さっきは、俺を追い返そうとしたじゃねえか」
ニールがジャックを睨むと、ジャックも負けじと睨み返した。
「おまえがリナをいじめるからだろ」
「いじめてねえよ」
むすっとした顔をそむけ、ぶっきらぼうにニールが言えば、「やめろって言ったのに、リナにカエルを投げただろ」とジャック。
「逃がしたんだよ、カエルを。リナに投げたわけじゃねえ」
ニールは背中に隠した枝を指でいじくりながら言い訳をする。
ジャックなんか、はやく帰っちまえばいいのに。
そうしたらまた、大魔法使いごっこの続きができるのに。
ニールは枝を持つ手に力をこめた。
そうすることで、ただの枝が本当に魔法の杖になって、ニールの望みを叶えてくれるんじゃないかと思った。
さっきまではジャックやリナと遊びたかったけれど、今はもういい。
ひとりでもじゅうぶん、楽しく遊べる。
「どうだかな」
まるで信じていない、というようにジャックは鼻をならした。
「でもまあ、そんなことを言いにきたわけじゃない」
ジャックの声の調子が変わった。
それまではニールをとがめるようだったのに、なにをかたくらんでいるようなふうに。
「じゃあ、なんだよ。ケンカしにきたんじゃねえのか」
ニールは顔をあげた。
目の前にある、ジャックの顔つき。
ニールといっしょになって、村の大人にこっそりイタズラをしかけるときの、ワンパク坊主なジャックだ。
「オレがここに来たとき、おまえ、おもしろそうなことやってただろ」
ジャックははしばみ色の瞳をきらきらさせながら、その場にしゃがみこんだ。
ニールが口をひらこうとすると、ジャックは「隠すなよな」とさえぎる。
しばらく片手で落ち葉をがさごそ探ると、ジャックは立ち上がった。
「オレもやる」
ジャックの手には、ニールと同じような、銀肌のまっすぐな枝。
「そうこなくちゃ」
ニールは力強くジャックの肩を抱き、たがいの魔法の杖を交差させた。
ニヤリと笑いあうと、ニールとジャックは身を離した。
魔法の杖をかまえる。
相手の鼻先に杖の先端をつきつければ、さあ、大魔法使い同士、世紀の大決闘のはじまりだ。
◇
「どりゃぁあああああ!」
ニールが振りおろした枝を、ジャックの枝が受け止める。
「うぉおおおおおおお!」
ふたりの枝が乾いた音を立てて、まっぷたつに折れる。
打ち合った枝が折れるのが、これで何本目なのか。もう、かぞえていない。
「くそっ。つぎだ!」
ニールは肩で息をして、ジャックを睨めつけたまま、片手を落ち葉の中につっこむ。
「つぎはいい剣が見つかるといいな」
ジャックもニールから目を離さず、片方の手を落ち葉の中にさまよわせ、具合のいい枝を探す。
「それはおまえもだろ」
悪態をつきながら、ニールが立ち上がる。手には、さきほどの枝とたいして変わらない、すぐに折れそうな細い枝きれ一本。
ジャックもおなじだ。
ふたりともじっくりと枝探しをする暇はなかったので、打ち合うには細すぎる枝ばかりをつかんでは、相手の攻撃より先にゆかんと飛びかかる。
最初のうちは、大魔法使い同士の決闘のつもりだった。
ニールが「いでよ、竜の吐息! くそ熱い炎でジャックを燃やし尽くせ!」と叫べば、ジャックは「トカゲの火遊びなんか、かき消してやる! うなれ、雪男の猛吹雪!」と返す。
そういった、たがいの鼻先に枝をつきつけ、即席の空想呪文を唱えるような。魔法合戦らしいことだって、ちゃんとやっていた。
けれども、すぐに呪文のネタが切れた。
しかたがない。ニールもジャックも、魔法のことなんてぜんぜん知らないのだ。
ベッドサイドでこどもを寝かしつけようとしたり、あるいは、手に負えないイタズラっこをおどかすとき。
そういったときにひっぱり出される、むかしむかしのおとぎ話。そこでは、魔法を使える存在が登場した。
それがニールとジャックの知る魔法使いだ。
強敵をかっこよく倒す英雄のような魔法使いだったり、闇や悪に通じるおそろしくおぞましい魔法使いだったり。
おとぎ話の魔法使いたちは、いろいろと異なる性格をして、さまざまに異なる魔法を使えるようだった。
けれども、たいていの場合、くわしい呪文までは物語に登場しなかった。
それだから、ニールとジャックがいかに空想力ゆたかな少年といえども、数回魔法合戦をしてしまえば、そのあとは新しい呪文が思いつかなくなった。
何度も何度も同じ呪文を繰り返すだけでは、つまらない。
血湧き肉躍るはずの決闘が、興覚めだ。
それでニールとジャックは、大魔法使いになりきるのをきっぱりとやめた。
魔法使いの杖が、あっという間に騎士の剣へと様変わりする。
おなじおとぎ話に出てくる役でも、騎士は魔法使いに劣らず、かっこいい。なにより決闘での作法が明白だ。
こうしてニールとジャックは、いつものように枝を打ち鳴らし、騎士ふう決闘ごっこを始めたのだった。
そしてふたりは今、一時休戦とばかりに、ならんで寝転んでいる。
落ち葉の絨毯が、クタクタに疲れた体をやさしく包みこむ。
大魔法使い同士の決闘ごっこでもそうだったように、騎士ふう決闘ごっこでも、決着がつくことはなかった。
すこしまえだったら、ニールはいつでもジャックに勝つことができた。
体の大きさだとか、枝を振り回すはやさだとか技術だとか。そういったことは問題じゃない。
ジャックはニールに枝きれを打ち込まんとするとき、かならず隙ができた。ためらっていたのだ。
今はちがう。容赦なく打ち込んでくる。
リナが目の前にいないからだろう。
ジャックとリナの兄妹は、いつでもいっしょに行動していたが、最近ではべつべつに過ごすことが多いようだ。
ジャックの変化が、ニールは嬉しかった。
もちろん、勝てなくなったのは悔しい。けれども、遠慮されるのではつまらないし、それ以上に腹立たしい。
リナと遊べなくなったことは、ちょっぴりさみしい。
けれども、決闘ごっこでリナにできることといえばお姫様の役だけだし、お姫様の役をするには、気が強すぎる。決闘にまざろうとするのだ。
あんまりにもあぶなっかしくて、ニールだって満足に枝も振り回せないというものだ。
「ニール」
寝転がって空を見上げたまま、ジャックは呼びかけた。
「なんだよ」
ようやく呼吸の落ち着いてきたニールが応じる。
ニールもまた、ジャックへと視線をやることはなかった。
視線の先には水色の空。高くまっすぐのびる木々に囲まれ、まんまるに切り取られたように浮かんでいる。
日が沈むまでには、まだじゅうぶん時間がある。
「おまえは森の奥深くまで、よく知ってるだろ」
ジャックはモゴモゴとはっきりしない口ぶりで言った。
「そうだったらなんだってんだよ」
まどろっこしい言い回しをするジャックに、ニールは苛立った。
「はっきり言えよ」
「探検したいんだ、森を」
ガサガサと葉ずれの音を立てて、ジャックは上半身を起こした。
「レオンは忙しいし、ナタリーはよそ者だし。一緒に森に出かける機会があんまりなくて。それにふたりとも、オレが村から離れたところに行くのに、いい顔をしなくてさ。心配してくれてるのは、わかるんだけど」
ニールがころりと頭を転がし、ジャックへと視線をやれば、ジャックは情けなさそうなさみしそうな、できそこないの笑みを口の端に引っかけていた。
ニールはなんだか、胸がもぞもぞムカムカするような、奇妙な心地になった。
レオンとナタリーというのは、ジャックの養父母だ。
この村でたったひとりの医者先生であるレオンと、この村で生まれ育ったのではない、よそ者のナタリー。
ジャックはどちらとも血がつながっていなくて、妹のリナは養母のナタリーとだけ血がつながっているらしい。
ニールの父親は出稼ぎに出ていて、一緒に暮らしてはいないけれど、それでも血のつながった親子だ。
たがいに遠慮することなど、ほとんどない。
ニールが父親に遠慮することがあるとすれば、「さみしい」と素直に抱きつくことをせずに、強がってしまうことくらいだ。
それだって、父親を敬愛するニールにとって、父親から留守をまかされた長男らしくふるまうことは、誇らしいことでもあった。
「グニャグニャ言いやがるからなにかと思えば、そんなことかよ」
ニールはジャックから目をそらして、おもむろに立ち上がった。
頭のてっぺんからつまさきまで、体中にくっついた葉っぱが、ぱらぱらと落ちていく。
ニールはすわりこんだままのジャックを見おろした。
「はやく立てよ」
しつこくしがみつく葉っぱの残りを手で払い、ニールはそっけなく言った。
「グズグズしてたら、じきに日が沈んじまうぜ」
ニールはくるりと背を向けた。
それだから、ジャックが小声で「ありがとう」と言ったことには、気がつかなかった。気がつかなかったのだ。
てれくさかったわけじゃない。
◇
ニールとジャックは、谷川に沿って進んだ。
ツルツルと苔むした岩をよじのぼり、ときおり飛びはねる小魚をつかもうと、底が透けて見える水深の浅い川に手をつっこんでは、足をすべらせ。今ではもう、ふたりとも全身がぐっしょりぬれている。
ニールはぶるりと身をふるわせた。
ジャックはチュニックシャツとレギンスをいさぎよく脱ぎ、それぞれの両端をねじりあげて、しぼった。
ぼたぼたと水がたれる。
「ここらへんで乾かすことにするか」
ニールもジャックに続いて、衣服とブーツを脱ぎ、谷川からすこし離れた場所にならべた。乾いた落ち葉が、水分を吸い取ってくれるはずだ。
はだかになったニールとジャックは、たがいの姿を見て笑った。
なんだかまぬけだ。
ひとしきり笑うと、ニールは眉をひそめた。
「このかっこう、ほかのやつらには見つかりたくねえな」
谷川を沿う小径はこのまま行くと、森を抜ける。そこからしばらくまっすぐ進むと、となりの村へとたどりつく。となり村へとつながる一本道だ。
小型の荷馬車がようやく通れるような、細い小径ではあるものの、村と村をつなぐ唯一の通りでもあるため、人通りがまったくない、というわけにはいかない。
ジャックはきょろきょろあたりを見渡すと「あそこ」と指さした。
「岩のあいだに洞がある」
よく見ようと近寄ってみれば、長い葉が岩を覆いかぶさるようにして、入り口をふさいでいた。ジャックの言うとおり、洞はあった。
光は入口までしか届いていない。その先は闇に包まれてよく見えない。洞はどこまで続いているのだろう。
ニールとジャックは顔を見合わせた。
奥まで進んでみようぜ。たがいの顔にはっきりと書いてあった。
◇
ふたりはおそれ知らずに、ぐんぐん進んだ。
ひんやりした空気が入口から絶え間なくそそがれていて、ニールとジャックのすっぱだかの肌をなぜる。暗闇に目がなれてくると、岩肌をかさこそと動き回るネズミだったり、小さな虫がいるのもわかった。
頭の上や腹の下をくぐり抜けるネズミはうっとうしいし、腕や足に、なんだかよくわからない虫がよじのぼってくる感覚は不快だ。けれども、洞の中に生き物がちゃんといる、ということは、ニールを安心させた。
好奇心のままにつき進んでしまったけれど、洞ともなれば、おそろしい人食い動物のすみかだったり、毒ガスが充満していることもある。
なんにしろ、人がおとずれた気配のない場所というのは、危険なのだ。
おそらくジャックはそういったことを知らないのだろう。
ニールのうしろを這いつくばり、転んだときでさえ楽しそうに声をあげる。
ジャックの養父レオンは、とても頭がいい。医者先生なのだから、当然だ。
けれども森の奥を探検したり、ちょっとばかり危険なところを冒険したりするのには、ニールの父親のほうが、ずっとくわしいに違いない。
しかたねえ。ここじゃ、俺がジャックを守ってやらなくちゃな。
ニールは不本意ながらもそう思った。
ジャックは男だ。
ニールが父親から言い聞かせられた『男の美学』に当てはまるような、守るべき女ではない。けれども、親分は子分を守るものだ。
ニールは父親から受け継いだ『男の美学』に、新しい項目をつけ加えることにした。
とつぜん、目の前に光があらわれた。
そうはいっても、まぶしいようなかがやく光じゃない。
なにか蓋のようなもので覆われているのだろう。うすぼんやりとした光が、岩肌を照らしている。
「出口だ」
ニールとジャックは、ほとんど同時に口走った。
はやく進めよ、とばかりにジャックがニールの背を押す。
ニールはジャックのせっかちに舌打ちしながらも、前へ前へと手足をせわしなく動かした。
胸がドキドキする。顔がニヤける。
出口だ!
ちょっぴりふるえる手で、出口を覆う草をよける。
出口は入口同様にせまく、ニールやジャックのようなこどもであれば、どうにか通り抜けられる大きさ。そのさきには、となり村へとつながる小径が見えた。
谷川を沿う小径を進めば、森を抜けたところでとなり村へとつながる小径に出る。村のひとにもよく知られた抜け道だ。
だがこの洞は、きっと誰も知らない。ニールとジャック以外の誰も。
ふたりは洞の中で顔を見合わせ、ニヤリと笑った。
パン!
音をたてて手を打ち鳴らしてから、がっちり手を組み合わせた。
それから思わず肩を抱き合いかけて、やめた。
男同士、すっぱだかで抱き合うことほど、ゾッとすることはない。
◇
洞の入り口に戻ってみれば、森の中は黄色に染まっていた。
木々がはばむせいで、正確な太陽の位置を知ることはできない。とはいえ、そろそろ村へ戻らなければならない頃合いだ。
「くそ。まだぬれてやがる」
べっちょりと肌にはりつくチュニックを指でつまみながら、ニールは眉をひそめた。
「ブーツもぜんぜん乾いてない」
ジャックはブーツにつめこんだ枯れ葉を地に振り落とし、ため息をついた。
ぶつくさ文句を言いながらもブーツを履き終えると、ニールはぐるりとあたりを見渡した。
発見したばかりの秘密の抜け道。
また来たい。けれども、ほかの誰にも知られたくない。とくに大人には、ぜったいに秘密だ。
ニールはチュニックシャツやレギンスをひっぱったり、あちこちパタパタ手をやった。
腰に巻く革紐のベルトに指先がふれたところで、ニールはニヤリとした。
「そろそろ帰らないと」
ジャックがおずおずと言うので、ニールはうなずいた。
「ああ、そうだな」
「帰るけど」
ニールは細い枝を数本拾いあげた。
「ちょっとだけ待ってろよ」
それからジャックの腰紐をうばう。
「なんで」
ジャックの非難がましい声が聞こえたけれど、ニールは無視をして、洞の入り口すぐ近くに立つ木に手をかけた。
ニールはあっというまに木の上へとのぼった。手には数本の枝きれと、革紐が二本。
枝きれを組み合わせ、革紐で結ぶ。ズボラな蜘蛛がおざなりに編んだ巣のような形だ。もう一本の革紐を『蜘蛛の巣』に通して、木の枝にくくりつける。
それからするすると木からすべりおりた。
ここに秘密の抜け道があるという、秘密のしるしだ。
今ではちゃんと、ジャックもわかっている。
◇
「レオン先生にしかられそうになったら、俺に言えよ」
ニールは森に不慣れなジャックを導きながら、胸をはった。
「おまえはリナじゃないけど、今回は俺が守ってやる」
ジャックはニールのうしろを歩いていた。
乾いていないブーツがグチョグチョと水音を立てることにウンザリする。そのうえニールが、意味のわからない兄貴風をふかせてくる。
ジャックは「なんだそれ」と力なく反論した。
「親分は子分を守るものだからな。それに、男は女を守るものだ」
ニールはジャックの不満なんて気にもとめず、持論をぶった。
「おまえのことはともかく、だ。俺がリナを守ってやるんだ」
「リナは守られたいなんて、思ってないだろうけどな」
ジャックがボソリとつぶやけば、ニールはジャックへと勢いよく振り返った。
「うるせえな。女は男が守るもんなんだよ。そう父さんが言ってたんだ」
「ふうん」
ジャックが目をすがめる。
「それじゃあ、ニール。おまえの姉さんも守ってやらなくちゃな。『あの』姉さんも、女だもんな」
「姉さんは」
ニールは口ごもった。
「姉さんは、いいんだよ。例外もある。姉さんはすげえ強いから、俺が守らなくてもいい」
「なんだよそれ」
ジャックがいかにもあきれたような声を出すので、ニールはムキになって大声をはった。
「うるせえ。俺じゃないべつの誰かが姉さんを守るだろうから、俺はいいんだよ」
結局そのあと、ニールとジャックはふたりそろって、村の大人たちにきっちりしかられた。
森の入り口で、村の大人たちがせいぞろいしていたのだ。夕暮れ近くになっても、ちっとも帰ってこないこどもたちを心配して、探し回っていたようだった。
どこに行っていたのか。大人たちは問いつめた。
ニールとジャックは正直に、森で遊んでいたと答えた。
もちろん、秘密の抜け道を見つけたことは、けっして打ち明けなかった。
(了)
最後までご覧くださり、ありがとうございました。
今作は連載作「魔女の恋 〜150年前に引き裂かれた恋人達〜(https://ncode.syosetu.com/n1523gz/)」の派生作品です。
あわせてご覧いただけますと、とても嬉しいです。