2.
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「おねえさま! お待ちください、ジュディスお姉さま!」
大きな声を上げて、足音も高らかに近付いてくる妹の不作法さに、ため息が出た。
国名に肖ったグリーンオニックスで造られたこの城のすべての廊下には、シルクの絨毯が敷かれている。毛足が短くヒールが沈みこむことが無いので歩き易くはあるが、音が立ちやすい。だからこそ、歩き方には注意が必要なのだ。それなのに。
一度立ち止まり、ゆっくりと後ろを振り向けば、そこには満面の笑みを浮かべた妹リリアーヌの無邪気な笑顔があった。
悪びれない笑顔に眉を顰める。
「はぁはぁ。酷いわ、お姉さまったら。私を無視して勝手に退出していってしまうのですもの」
花びらのような唇を尖らせて拗ね、至極当然だとでも言うようにジュディスを批難する妹に、ジュディスは姉として苦言を呈した。
「リリアーヌ。あなたはこの国の王女です。この国の令嬢たちの見本となるべきあなたが、足音を立てて王城の廊下を走るなど論外ですよ。しかも、大きな声で呼び止めるなんて、あなたはいつまで幼子のつもりなのかしら」
「まぁ怖い。お姉さまったら、そんなに四角四面で堅苦しい事ばかり言っているから、眉間に皺ができてしまうのですよ? 歯も食い縛り過ぎですわ。口元が下がって怖いお顔になっておりましてよ」
やわらかな笑みを浮かべたリリアーヌの、ジュディスへの言葉には棘も毒もある。
けれど可憐な見目もあって、攻撃を受けているジュディス以外には誰も気が付いていないだろう。
「怖い顔にさせているのはあなたです、リリアーヌ。廊下を走ったり大きな声を上げたりすることは、マナー違反だと何度指摘すれば理解するのですか。王女としての行動を心掛けなさい」
「はぁい」
全く受け入れるつもりのない返事をする妹に、ジュディスは額を押さえた。
「それで?」
「?」
「大声を上げて私を呼び止めたのはあなたでしょう。私に何の用ですか」
「……あぁ! 私の婚約をお祝いして下さいますよね、お姉さま」
今度こそ。一点の曇りもない、満面の笑みをリリアーヌが浮かべて問い掛けた。
(いいえ。問い掛けては、いないわね)
リリアーヌの中では、あの見合いは自分のものなのだ。
それも既に確定した婚約となっている。
「はぁ。まだお相手の国から見合いの申し込みをお受けしただけでしょう?」
実際にその見合い相手として指名を受けたのは、リリアーヌではなくジュディスだ。せめて、まだ見合いが成立するか分からないのだということだけでも、理解して欲しかった。
「お姉さまったら。先方からの申し入れですよ? あちらが断るなど、あり得ませんわ」
それはそうだ。
そもそも、コベット国の第一王子ならば見合い相手に事欠くことはない。選び放題のはずで間違いない。噂通りの傑物ならば、星の数ほどあるお相手候補に対して内偵を重ねて選定した上で申し入れてきているに違いないのだ。
国を通して正式な見合いを申し入れておきながら『やはり違った』など申し入れた方から言える訳がない。
相手国へ多大なる恥辱を与える国交断絶覚悟の破滅的行為だ。
その選び抜いた相手が、なぜジュディスであったのかは謎でしかないが、確かにあちらから断りを入れてくることはないだろう。
「特別美しく着飾った私を前にしたら、今すぐ連れて帰りたいと仰って下さるかもしれませんわ」
はしゃいだリリアーヌはくるりと廻ってみせた。
広がったスカートと同じくらい大きく夢が膨らんでいるのだろう。リリアーヌはクリームを舐めた猫のように幸せそうに笑った。
「あぁ、私の娘はなんて可愛らしいのかしら!」
通りかかったらしい王妃が廊下にやってきて、リリアーヌを抱きしめた。
「お母様! お母様も、私の結婚を喜んで下さるかしら」
「まぁ! いつの間にそんなことになっていたの? あなたが喜んでいるということは良縁ということでいいのよね」
「えぇ、もちろんですわ! あのコベット国の第一王子さまから申し入れがあったのです」
「まぁ。見る目があるのね。でも、当たり前の事よね。王妃は誰より美しくなければ。こんなに可愛いリリアーヌを見て結婚を申し込みたくならない男性などいないわ」
「ありがとう、お母様。ねぇ、お姉さまも一緒に喜んでくださるわね?」
母である王妃と末の王女が、王城の廊下の真ん中で大袈裟に縁談を寿いでいるのだ。
そのまま存在を忘れてくれればいいのに、わざわざ妹が姉へ振り向き問い掛けた。衆目を集めるその言葉は、否を許さぬ圧を持ってジュディスを突き刺した。
それに対してジュディスにどんな口ごたえができるというのだろうか。すべてを諦めたジュディスには肯定するしかなかった。
「えぇ勿論よ、リリアーヌ」
「ありがとう、お姉さま。私、幸せになりますね」
そもそもの会話の流れとして、先方が断ってくることはない、ということに対しては同意できるというだけだったのに。感激した様子のリリアーヌから抱き着かれて目を白黒させる。
「ジュディスお姉さまより先に嫁する私へ祝福を下さるお姉さまは、やっぱり聡明で優しいわね。私、だいすきよ」
ぎゅっと両手を取られてダメ押しをされて、そこでようやく、妹が何を主張したかったのかがジュディスにも分かった。
「えぇ、もちろんよ。私はいつでも、可愛い妹の幸せを願っているわ」
「ありがとう、おねえさま!」
言いたいことだけ言い放って、リリアーヌはジュディスを置いて去って行った。
「走っては駄目だと言ったでしょう!」
ジュディスの苦言は無視していく癖に、リリアーヌはジュディスの祝福は強請るのだ。
リリアーヌが残していった綺麗な笑顔が、ジュディスの胸に刺さる。
リリアーヌは、自分が愛されていることを知っている。
相手からの愛を、疑うことすらしない。
そうしてそれは、間違っていないのだ。
彼女がしゅんと落ち込んだ顔を見ているくらいなら、どんな失敗も、笑って許してしまいたくなる。
誰よりも被害を被っているジュディスにとってですら。
仕出かしたことに対して、口先だけの軽い謝罪しかなかったとしても、それだけで周囲は仕方がないと受け入れる。受け入れたくなる。
姉であるジュディスと決定的に違う。
もしかしたら、自分の笑顔の価値を分かっているからこそ笑っているのかもしれない。
周囲もそんなズルいリリアーヌを受け入れているのだから。
そんなズルさすら許される妹という存在が、ジュディスは心の底から羨ましかった。
けれど、決してそれを表に出すことはできない──そんな自分が、ジュディスは嫌いだ。