なろうには○○さんがいる!
実は、この小説家になろうにおいて、わたしには敬愛し尊敬する方がいるのですが、皆様はいかがでしょうか。書かれてある作品もですが、人柄も含めて尊敬しております。勝手に脳内先生に認定させていただいているのです。もちろん、迷惑がかかるから、このエッセイでは名前を伏せさせていただきますが。
これは心の底から先生のことを信頼しているということですから、かなりの強度があると思います。たとえ一方的な片思い、幻に過ぎないとしてもです。
どういうことかというと、例えばなろうに対してなにかしらの批判が加えられたとします。
なろうはテンプレばっかでおもしろくねえんだよ。
オリジナリティなさすぎ。
ざまぁとか倫理観どうなってんの。
こんなふうな批判はどこかで誰かに言われている。
しかしながら、『なろうには○○さんいるし』と心の底から唱えることができると、あらゆる批判は価値考量の前段階として却下しうる。
たとえ、どんな事実を持ち出そうとも、
――なろうには○○さんいるし。
サイキョーです。
推しがいることによる信仰放射光は、ちっちゃな闇なんか塗りつぶします。
では、自分自身がなにかしら書いていた場合はどうでしょうか。
自分の作品に関して何かしらの批判を受ける。
あるいは、自分自身の言動が批判対象になることもあるでしょう。
人は人を評価するものです。その意味であらゆる評価は他者の評価です。
これも『なろうには○○さんがいるじゃないか』という考え方を援用できます。どういうことかというと、○○さんだったらどうするだろうかということを常に考えることができるからです。
もちろん、○○さんはメンターであり、先生であり、わたし自身ではありません。ですが、先生ならどう考えるだろうか、どう答えるだろうかと一泊置くことで、言葉そのものを信仰にくるむことができます。要するに、優しい言葉になるだろうと思うのです。
もちろん、なろうだけに限る必要はありません。
例えば、世の中には日本はダメだという言説が溢れています。
しかし、このような言説も『日本には○○さんいるし』という言葉を唱えればよいのです。べつに○○さんは政治家じゃなくてもいい。日本を直接的に変えられないとしても、○○さんが敬愛すべき人物であることは、わたし自身が最も体感として知っているからです。ええ、もちろんそれはわたし自身が勝手に先生を敬愛しているだけであって、先生は本当は敬愛に値する人物じゃないのかもしれません。
でも、それは人間という観測機械は皆そうでしょう?
推すのに理由はいるのかという話です。
ゴチャゴチャ言ってないで、己の本性に従えばいい。
結論を先取りして、存在をまるごと肯定すればいい。
――わたしには先生がいない。
そういう人もいるかもしれません。
自分を教え導いてくれる人がいないという実感ほど寂しいものはありません。敬愛すべき大人がおらず、政治家はだれもかれも自己の利益を優先しているように見える。世の中には絶望しかない。
そういう場合は、いくつもの本に接してみるのがよいのではないかと思います。書物は、誰であれ時空を越えてアクセスできるものです。死んだ作者の考えでさえも、今、まさに出逢えます。
逆に言えば、書物のほうはあなたに出会うのをじっと待っているのです。
この世界には那由多の本があり、未来においても人間が存する限りにおいては、本が綴られていくでしょうから、可能性としては無限の本に接することができるでしょう。ゆえに、きっとあなたが推せる書物が見つかるでしょう。
出逢いは人生の宝であり、逢いは地球を救うのです。
特に気負わずに書いたんで、今回はポエム度数高めだと思う。
しゅきぴを大事にしてねって話でした。
なお、一番じゃなくてもいいからわたしも推してもらえるとうれしいです。