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こたつのある夢

作者: 八雲 辰毘古

 小さい時から、こたつが好きだった。電熱機の付いたローテーブルに、ドレスのように舞い降りたこたつ布団。そこから庶民的なタコ足配線がにゅっと延びて、テレビの裏っ側にあるコンセントに差し込まれているのが、いかにもわたしの大好きな景色だった。

 幼いわたしは、その中によく潜っていた。母親にやめなさいと言われながらも、へらへら笑いながら、姉の足をくすぐったり、父の足から逃げたりした。


 大きくなるとさすがにそんなことはしなかったけど、こたつからは卒業できなかった。編み物をしたり、みかんを剥きながらダラダラとテレビを見たりする──そういう時間がしあわせだった。

 そして、ついに寝てしまう。夢ではこたつの中みたいにあったかい家族だんらんとした空気が漂っていて、自分がいつか結婚することになるひとと、自分が産むことになる子供といっしょに過ごしている。それが誰かはわからないけれども、いつかそうなるもんだと心のどこかで思い込んでいた。


 当時はまだ彼氏なんていなかった。わたしはやんちゃな女の子で、男勝りというか、男どもを次々と腕力で打ち負かしていた。

 雪の深い田舎だった。だから、雪合戦となると石つぶてもかくやというほど固く握って、握って、思いっきりぶち当てた。


 まだ殴り合いの喧嘩がふつうだった頃だ。容赦はしなかった。

 勉強はいい加減で、部活動は物理部という名前のなんでもアリな場所だった。理科実験室のくせに、野球バットやサッカーボールがあり、こたつや菓子類もあった。いつも球蹴りか菓子を食べておしゃべりにふけっていた。思い出すこともできないほどくだらない話ばかりだった。それっぽい活動をしているのは学園祭と予算会議の前後で、あとは生徒会からどうやって予算をせしめるかということしか考えていなかったのだ。


 そんなわたしも、中学・高校を卒業すると都会に出て、ひとり暮らしをした。

 最初は親の猛反対に遭った。女の子のひとり暮らしだなんて、と文句も言われた。親の世代はこれが固いんだからしょうもない。実際わたしは大学でもそんなに変わらず男女構わず愉快に楽しく生きていた。惚れた腫れたの話は周囲にはあったけど、わたしはそういうのは興味がなかったからなんとなく楽しく過ごすだけ過ごした。


 ときどき、親が来た。ちゃんとご飯食べてるの。元気にやってるの。彼氏はいるの。ほんとに前触れなく好き勝手なことを言って帰っていった。

 うるさいって。余計なお世話だよ。わたしは元気にやってるからさ。ね。そう言って、住んでるアパートから追い出したことも数知れない。べつにしあわせになりたくないわけじゃない。いまいる自分が楽しくて仕方ないだけだった。


 六畳半とちょっとだけの部屋で暮らす。その狭さは実家で教わったよりは心持ち広く感じた。けれどもそこに家族が入ってくると狭くて狭くて仕方なかった。いまある自分だけの生活がよくできていたから、割り込んでほしくなかったのだ。


 そして、大学を出て就職をした。


 最初は外資系企業に派遣として入った。女性の雇用についてはまだ法律すら成立していなかった頃で、おまけにわたしが大学を出る頃は氷河期という話だった。バブルが弾け、景気が悪循環を繰り返し、どこへ行っても雇ってもらえないような時期だった。

 そんな中で就職できたわたしは、ある意味で幸福だったかもしれない。


 しかし日々苦しい生活が続いた。毎日まいにち冷房がガンガン効いた機械室に出向き、当時大きくて処理速度がかたつむりのように遅いコンピュータに業務処理を叩き込んでいた。部屋が寒すぎて冷え性を通り越しからだを壊した。上司は嫌ならやめろとすげなかった。当時ようやく法律で男女の雇用機会均等法が成立したばかりだった。でも、働くにあたってはちっとも生活が改善しなかった。


 冬。ひとり暮らしの部屋で寝込む時、わたしはその寒さに震えた。それでこたつを思い出した。六畳半の部屋は何もかもがあるような気がしたが、こたつが入る余裕はなかった。この時ひどく部屋が狭くて寂しい場所だと思えてならなかった。


 その時、お見合いの話があった。


 いつのまにか親同士で話が進んでいたらしい。同郷の人で、二年先輩。県内で数少ない高校の、あちらとこちらであったために接点もなかったが、わたしは何かに縋りたい気持ちで会うことを決めた。

 結果はさんざんだった。まだ携帯電話もなかったから、親の電話経由でどこそこ集合、て言っただけだった。ところが都心のデパートの入り口が複数あるなんて思っても見なかったから、南口なのか、北口なのか、西南口なのかで互いが互いを探してぐるぐる追いかけっこをしていたのだ。


 ようやく出会った時、その人は冴えないけどふんわりした風貌のメガネだった。

 それから先はふつうだった。いっしょに出掛けて、いっしょにご飯食べて、終わり。お見合いだからその後も親同士で話が進んで、わたしはべつに嫌じゃなかったから、話は決まり。結婚式を挙げて、子供が生まれた。


 そしてわたしは専業主婦になった。


 子育ては地獄だった。夫は仕事に追われて帰ってこなかったし(わたしはそれを〝本社に単身赴任する〟って呼んだ)、子供はわんわん泣くしで、寝不足にもなった。寂しくはなかったけど、こんなはずじゃなかったのにという気持ちが湧いてきた。

 二人目ができてからは、もっと酷かった。夜泣きが連鎖反応するし、上の子は好き勝手動き回るし、下の子は発達障害だったし、とにかく手に負えない。夫の仕事はいつまで経っても繁忙期を終えることができず、たまに帰ってきても寝るためでしかなかった。あまりに帰ってこないから、ときどき子供を見せに行かないと、子供が父親を忘れるぐらいだったのだ。


 引っ越した先のマンションの人付き合いも大変だった。夜泣きがうるさいのはわたしだけではないのだ。上の子が歩き出し、下の子もハイハイするようになると、余計に近所迷惑を気にしなければならなかった。おまけにわたしが大学生の時は障害者福祉の教科書に「障害者は親の責任です」と明記されていた頃で、下の子の面倒を看るためにほんとうに苦労したのだった。

 ときどき、夫と喧嘩もした。高校時代の気性がたたって殴り合いもした。夫はストレスとわたしの食べさせすぎで激太りした。お互いタバコを吸い始めた。当時はまだタバコがかっこいいと思われていた時代だった。けれども息子が煙たがったのでやめなきゃなとは思っていた。しかしやめたのは夫の方が先だった。子供の健康に悪いから。そう言って、前触れなくキッパリやめたのだ。そういうところは、素直にかっこいいと思った。


 結局、タバコをやめたのは、上の子が小学校を卒業した頃だった。


 息子はふたりとも母親依存が強い子供だった。すぐに泣くし、すぐに呼ぶし、いつも顔色をうかがうように見上げてくる。厳しくしすぎただろうか。いつも勉強しなさいってガミガミ言ってたもんね。でも、その倍ぐらいは美味しいご飯と愛情を注いでいたつもりだったんだ。

 息子たちは愛されて育ったと思う。わたしの親をおじいちゃん、おばあちゃんと呼ばせてやれたのは数少ない親孝行のひとつだった。両親は目に入れても痛くないぐらいの可愛がりようで、息子たちと接した。おかげで痛みに弱くなったのかもしれない。

 

 上の子は、学校ではいじめに遭っていた。


 わかったのは中学校の頃だった。やけに学校に行きたがらないなと思ったら、担任の先生から連絡があって、どうやらクラスで八分にされているらしいとのことだった。当時のニュースではいじめをどうやったら無くせるかという議論で朝の番組が埋まっていた。わたしは初めてテレビの向こう側のできごとが自分たちの現実であることを理解した。

 結局、いじめは解決しなかった。ただ耐えて、耐えて、耐えてもらって、卒業することでその苦しみから逃げ出したのだ。上の子はその件について恨んでいるかもしれない。おかげで話しかけてもらえなくなった。反抗期かもしれない。下の子は上の子とは違う学校に進学した。発達障害の度合いが重かったからふつうの学校に通うことはなかったのだ。


 そして上の子が大学受験かと思った頃、父が死んだ。癌だった。家族で帰省して、わたしはわんわん泣いた。あれほど帰省するたびに疎ましく思っていた親だったのに、死んだら死んだでとても悲しい。

 けれども上の子は、冷めた目つきで葬式に参加していた。あれほど小さい時に可愛がってもらっていたのに、その態度はなんなんだろうと思った。それを怒ると、息子はますます煙たがった。この恩知らず。ばか。人の気持ちをわかるようになりなさい。怒鳴って、なおのこと距離が開いた。


 やがて上の子の大学受験が終わって、親元を巣立っていった。ひとり暮らしを始めたのだ。仕送りはしていたが、帰ってくることは滅多になかった。便りがないのは良い知らせってことだから、それはそれでよかったけれども、心配してないと言うなら、嘘になる。

 結果的にわたしはまたひとりになった。夫は相変わらず仕事に追われていた。仕事しかしてなかった。休日に子供の遊び相手になるぐらいはしていたが、思春期の難しい時期になるととたんに仕事に逃げた。結局わたしがずっと家と子供の面倒を看ていた。ママ友同士でおしゃべりしながら、家庭っていうのはそういうもんだと割り切ってしまわないとやってられなかった。


 それが、終わってしまった。下の子も高校を卒業してすぐに福祉園に行ったから、急に時間が空いてしまったのだ。ようやくひとり。ようやく自由。学費も払い切り、子供が社会人になると、その感覚はより強くなる。けれどもわたしは苦しかった。寂しかった。

 わたしが住んでいるマンションは、高いテーブルと背もたれのある椅子が四つ並んだ、わかりやすい居間があって、テレビもハイビジョンの大型だった。ゲーム機も目まぐるしく進歩していて、ときどきわたしもやった。アクションは苦手だった。けれども頭を使う戦略ゲームやRPGはやり込みがいがあって好きだった。たぶん息子よりも熱中した。ナンバリングタイトルの多いシリーズ物の、二桁目に入ったばかりのものは何回も周回した。ストーリーとキャラクターが好きだった。


 けれども、そんな居間にはこたつはなかった。べつに欲しくなかったわけではない。一度買って設置してみたこともある。しかし掃除が面倒で、ほこりを溜めて、子供の健康にも悪かったのでしぶしぶ捨てることにしたのだった。

 結局こたつは実家にしかない。その実家には、もう母と姉がいて、帰ると愚痴の捌け口にされてしまうから近寄りがたかった。解決しない愚痴は嫌いだった。そんなことを言うならわたしのほうが愚痴りたいぐらい。結局行動するしかなかった。何もできなくてもどうにかするしかなかった。そして失敗も悔いも受け容れなければならなかった。


 そんなこんなを乗り越えた時、わたしはついにおばさんになっていたのだった。


「もうダメですね」


 ところが、その時だった。医者に余命宣告を受けたのは──


 からだの不調があった。背中にしこりがあったような感じがしたので、いつもの町医者で診察してもらったところ、どうやらまずいということだった。それでさらに遠い病院を教えてもらって、芋づる式に癌研にたどり着いてしまった。

 そこで何度も検査を受けて、何度も確認を取った。嘘ですよね。と言いたかったけど、そんなことを言っている場合ではない。本当のことはあまりに唐突にやってくるから、受け入れがたいのである。


「手術をしても、あと三ヶ月でしょう。延命しても春までです。少なくとも来年の夏は越えられません」


 これが秋口に入る頃だった。信じられなかった。ここまで自分のからだがダメになっていたとは思わなかった。

 わたしはかなり元気にやってきたつもりだったのである。しかし無理がたたったのか、何か悪い生活習慣がついていたのか、寝不足だったのか。とにかく、ハッキリとからだの限界が数字になってしまった。余命という数字は、この世で最も深い不幸の数字だった。


 わたしはその結果を持ち帰って、夫と話した。上の子にもなんとか連絡した。伝える途中で涙を流さなかったのは我ながら凄いと思えた。しかしその夜は枕を濡らさずにはいられなかった。

 まもなく手術をした。全身麻酔で寝て、起きたら病室のベッドだった。過去に何度か手術もしたし、入院もしたことがある。しかし今回はしんどかった。リハビリで立つのでさえ、弱って仕方がない。腹を縦に切ったのである。起き上がるのも、立ち上がるのも、筋肉がすっかり弱っていて、情けなかった。


 その時、世の中は感染症が流行り始めていた。みんなが出かけるのを控え、在宅ワークになり、病院も面会を避けるようになっていた。わたしはこれまでの入院生活で最も応えたのはこれだった。誰も会いに来れない。夫も上の子もとても心配してくれた。今まで何もしてなかったり、できてなかったりしたけれども、そんなことはどうでもいいぐらい、心配してくれた。上の子に至ってはわざわざ実家に戻ってきてくれたのだ。

 にもかかわらず、来てもらえない。会うことを許されない。


 わたしは突然父のことを思った。父も病院に入ったきり帰らぬ人になった。生まれ落ちたわけでも、育ったわけでもない空間に、たまたま居合わせた人たちといっしょになって過ごす最期の時──あの時家族に会うことはできても、最期の瞬間はひとりで旅立たねばならなかったのかと思うと、やりきれなくなった。

 わたしは退院した。術後の数値は不思議なほどよかったので許された。しかし筋肉が弱っていたから、上の子に来てもらって、支えてもらいながらタクシーで帰った。ふだんなら電車で通う場所だったが、徒歩三分の駅にすら歩いて行くことができない。わたしは上の子に支えてもらいながら、ひさびさの我が子の優しさに触れて嬉しかった。そしてそれまで過ぎた時間を思った。


「わたし、このまま冬も越せないかもしれない」


 初めて弱音を吐いた。夫は定年を過ぎてなお働いていた。さいわい時期が時期なので在宅ワークになっていた。けれども仕事は変わらず忙しそうだった。


「しばらく仕事休むから、冬を越えるために頑張ろうよ」


 そう言ったのは夫ではなく上の子だった。彼は実家に寝床を移して、仕事から逃げられない夫に代わって在宅ケアの手伝いをしてくれた。もうあの白い部屋に戻りたくない。そのわがままが、心底の本音だった。

 まだ歩くと疲れるから、移動は車椅子だった。意外だったのは上の子の手押しが上手かったことだろうか。必ず周囲を見て、声かけをして動いてくれる。安心する。夫はその点マイペースでダメだった。もちろん不器用なりに頑張ってはいたのだけれど。


 夫とはなんやかんやあって、欠点や不器用な点ばかり言いたくなる。けれども人生を四半世紀歩いてきた仲間だった。その点、実は上の子の優しさよりももっとずっと深いものがある。何より触るとあったかい。白熊のぬいぐるみみたいな雰囲気がある。

 とはいえ、良くも悪くもわたしの遺伝子の強い上の子は、細かいところまで気をつけてケアしてくれた。医療介護の説明を聞き、リハビリを手伝ってくれた。そしてついに、わたしは杖なしで歩けるようになった。もう二度と歩けないまま死ぬと思っていたから、かなり感動してしまった。


 そのままラーメンを食べた。思えばこうして親子でご飯を食べたことも最近なかった。流動食以外のものを、外食できるようになったことが嬉しかった。

 冬を越した。そして春が来た。ゴールデンウイークに下の子の誕生日を祝ってやれた。続いてわたしの誕生日も祝うことができた。もう来ないと思っていた。だからなぜか涙が出るほど嬉しかった。


 しかし、その喜びもそこがピークだった。


 時期を前後して咳が出た。在宅ケアの人から癌の進行がすすんでますと説明を受けた。そろそろだな、と思った。背中の奥にしこりを感じる。咳き込むたびにみしみし全身に響く。またご飯が食べられなくなった。食欲もなく、食べると吐くようになった。それでも食べないとからだがやつれた。筋肉が衰えるくせにむくみだけがひどくなる。また歩けなくなってきた。けれども頑張らなきゃ、と思った。頑張って、頑張って、夏を迎えたい。


 ところが、限界は思わぬところで来てしまった。


 母の日だった。上の子が必死に手伝ってくれたおかげでいまがある。しかし上の子は大事なことを忘れてしまっていた。花を買い忘れたというのである。母の日は覚えていた。いろいろ祝ってはくれた。しかし肝心の花を忘れたのである。

 わたしはなぜか虚しくなった。悲しくなった。そして怒った。もう二度と来ないんだからせめて──言いかけて、口をつぐんだ。花を買って欲しかったの? と聞き返した上の子の言葉がとても冷たく感じた。違う。違う。そうじゃない。息子はよくやってくれている。しかしなんでこんなことで辛くなるのか、自分でももうわからなかった。


 それから数日後、わたしは救急車を呼んで、また入院した。腕に管を入れて、医療用大麻を打つようになった。もう呼吸もできないぐらい病状が進行していて、酸素呼吸器を付けなければならなかった。

 それでもわたしは入院が嫌だった。絶対に家に帰りたかった。わたしは無理を言って夫に迎えに来てもらって、家を改造してもらってまで、帰宅した。やっぱりリノリウムの床より埃と髪の毛が落ちているフローリングの方が良かった。畳の部屋が見えるのが好きだった。ただ、リビングの椅子とテーブルが高いのが嫌だった。もうわたしは歩けない。管に繋がれ、ハイハイして手すりにつかまりながら生きるしかできなくなっていたのだ。


 そんなある日、夢を見た。

 こたつのある夢だ。


 医療用大麻は、医療用と名がついてもなお大麻の一種だった。だから強い幻覚作用がありますよとあらかじめ話は聞いていた。おかげでわたしは痛みも和らぐ代わりに何か妙なことを喋ったり、変な夢を見たりするかもしれない。そう思っていた。

 しかしよりによって、見た幻覚がこたつだとは思わなかった。


 しかも、そこには夫がいた。息子たちがいた。お母さんのために奮発して豪邸を買ったんだよ、と言っていた。タワーマンションの最上層でもありそうな、昼の都心を見下ろすような凄い広い部屋のど真ん中に、なぜかこたつがある。配線がどこから延びているかもわからないし、壁にはプロジェクターと映画館で見るようなでかいスクリーンが掛けてあった。

 なんだよ、これ、と自分でもあきれた。自分の人生の一番逃避的な夢が、あまりにも庶民的というか、ちっともグレードアップしてないことに驚いた。貧乏くさいというか、なんというか──


 とにかくわたしは帰ってこない夫を怒ったりはしなかった。息子たちの成長も心配していたけど、悪くは思わなかった。ただ、孫の顔は見たかった。ふたりともまだ独身で、浮いた話は一切ない。優しく育て過ぎたかな。そんなことを思ったところで、終わった時間を取り戻すことはできない。

 ただ、いっしょになんとなく過ごして、ときに面白く、楽しく、笑ったり泣いたりする。そういう時間が好きだったのだ。


 上の子が復職し、出勤するようになると、夫とふたりきりになった。仕事中の夫はとても集中していて、話しかけにくい。家では決して見せない顔をしている。夫は夫で頑張っていた。わたしがひとりで子育てに苦しんでいた時、夫は仕事に苦しんでいたのだ。

 人に話しかけるのが苦手で、言葉遣いもふしぎで、余裕もときどき無くして、不器用で、マイペースで、わたしのことをあんまり気遣ってくれない(してたのもしれないけど百点満点中五十五点ぐらいの出来栄え。もうちょっと頑張ってほしい)けれども、わたしはこの人のことを好きだった。誰よりも好きだった。だからいま、寂しくはなかった。苦しくはあったし、この先ずっといっしょでないことが悲しかったけれども、別の人生の可能性を考えることは一切なかった。


 だってそんなことを考えたって、仕方ないんだもの。


 ある夜、たまたま好みが重なったテレビアニメを夫とふたりで見ながら、わたしは思ったことや考えたことをつらつら語った。そしてなんとなく、愛していることを伝えた。


「ぼくもだよ」と夫は言った。「愛してる」


 ふだんそんなことを言わない人だった。でも、言うときは恥ずかしげもなく言う。そういうところがずるかった。わたしは思わず咳き込んだ。その背中を、あの白熊のぬいぐるみみたいな手で、優しくさすってもらえた。それがなによりも求めていたものだと知ったのは、この瞬間だった。この時のために今まで生きてきたし、それで何もかもが納得できてしまった。


 翌朝、たまたま休日で、息子がふたりとも家にいた。

 その日にわたしの体調はゆっくりと坂を下った。すでに六月で、梅雨に差し掛かる前だった。カンカン照りで、冷房を付けなきゃいけないぐらいの暑さだったらしい。わたしは外に出れないから、上の子を使いぱしりにして蕎麦やアイスカフェオレやアイスクリームを買ってもらって、なんとか食べれるものを食べようとしていた。


 けれども意識がもうろうとした。五分に一回は視界がぼやけた。栄養が足りてないと言われていたが、ほんとうだった。あまりに酷かったので、在宅ケアの人を呼んでもらった。

 最初は大丈夫そうだった。休日に呼んでごめんなさいねと言えるだけの体力はあった。アイスクリームをふた口食べた。味覚がおかしかったからどんな味かもわからない。しかし上の子の優しさが染みた。元気に見せたかったし、家の足手まといにはなりたくなかったから、洗濯物を少し畳んだ。


 でも、ちょっと眠かった。頭の回転も鈍い。少し休ませて、と言った。それからしばらく寝た。ときおり、上の子が来て、脈を取っていた。優しい手だった。夫に似ている上に、夫より温かい手だった。冬にはほんとうにこの手に助けられたのだ。

 おかげであのとき医者に言われた余命の、一番長い時間まで生き永らえて、誕生日も迎えることができたのだ。ただ、強いて言うなら、そんな子供の子供に会いたかった。自分がおばあちゃんになる日が来て欲しかった。


 思えばやり残したこともいっぱいある。家族で行きたかった場所も山ほどあった。大阪や台湾で食べ歩きがしたかったし、作ってみたいお菓子や料理のレシピも埋もれたままだった。相続のための情報整理も終わってないし、続きが見たい小説も、漫画も、テレビアニメも映画も、数え出したらキリがない。

 それもこれも、ぜんぶ中途半端に終わるのだ。わたしの人生、意味を訊かれたら特に何もと答えるしかない。でも、ふしぎと後悔はなかった。振り返ってこうすればよかった、ああすればよかったなんて思うことはそんなになかった。思ったところで仕方がないのだ。終わったことは終わったこと。これからのことはこれからのこと。わたしがいなくなっても、夫と子供は意外となんとかなるだろう。それをわかっているだけでも、とても心が軽かった。強いて言うなら、母に対して先に旅立ってしまうことを、ごめんなさいとしか伝えられないのが残念ではあった。


「もう脈が取れません」


 いつのまに在宅ケアの人が来ていた。息子たちが泣きそうな顔をしてわたしを見ている。夫も表情が固かった。そんな顔しないでよ、前から余命がそうだって言ってたの、忘れちゃったの?

 気が付いたら寝かされていた。そして家族一同わたしを囲んでいろんなことを言っていた。心配を掛けまいと、たくさんの言葉を掛けてくれた。でも、わたしは喋れない。うんうん、そうだね。大丈夫。ありがとう。いろんな言葉が聞こえてきた。それも遠くなると、わたしはふわっと身も心も軽くなって、ついにここではないどこかに向かって旅立つ瞬間が来たのだとわかった。そっと背中を押されたような心地だった。


 きっと天国にもこたつとテレビぐらいはあるだろう。そんなことを夢見ながら、わたしのからだはそっと布に潜り込んだのだった。

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