第4話 レイニャの気まぐれ
国王が病に伏せる中、宰相であるヨーランは次期女王にサーラを立てて、自らが権力を握り続けようと企んでいた。ヨーランは、国王の次女であるヨハンナの側近ヴァルターを陥れようと動き出す。そして、三女であるレイニャはヴァルターに掛けられた疑いを晴らすためにサーバスへと向かった。
玉座に着くギルギール王は担当官からの報告を受けていた。
隣には、初老の宰相ヨーランが胸を張って立ち、その周りには五名の大臣が整列している。
「というわけで、今年は作物の出来が悪く、地方からの租税が大幅に減少している次第であります。」
鋭い目で睨むヨーランは手にした宝石入りの杖で床を打ち鳴らした。
「たわけ!租税が減って、お主はどのような手を打ったのだ。何もせずに、ただ、税が減りましたというだけならば、子供でもできるわい。」
「はっ、はー。」
王の傍らで権力を握るヨーランに窘められた担当官は平伏するばかりである。
「全く、役立たずばかりだ。ギルギール様、いかがいたしましょうか?」
ヨーランよりも、三つ若いギルギールだったが、顔には生気はなく、年老いて見えた。彼は何度か咳払いをすると、静かに答えた。
「ヨーラン、おまえに任す。良きに計らえ。」
そんな国王の命に、ヨーランは身を正して深く頭を下げた。
「はっ、承知いたしました。」
「うむ。頼んだぞ。余は体調がすぐれぬ。戻って休むぞ。」
「はっ、はー。ごゆっくりとお休みくださいませ。」
立ち上がったギルギールの前に膝を付いたヨーランは頭を垂れて見送った。
大きなベッドに横になるギルギールは三人の侍女に囲まれていた。
虚ろな目で宙を見つめる彼の耳元で、ひとりの侍女が来客を告げた。
「ヨハンナ王女様とレイニャ王女様がお見えです。お通ししてもよろしいでしょうか?」
愛しき娘の来訪に、死んだような目が少しだけ生き生きと輝いた。
「おお、そうか。すぐに通せ。」
苦しそうに呼吸するギルギールはゆっくりと頷くと、体を起こし始めた。慌てて、横にいた侍女がそれを手伝う。
間もなく、花束を持ったヨハンナを前にして、二人の王女が入室してきた。
枕元に近づいたヨハンナは優しげな顔でギルギールの手を掴むと、悲しそうな目を向けた。
「お父様。苦しくはありませんか?」
ギルギールは美しき娘を見て微笑んだ。
「おお、ヨハンナ。よく来てくれたな。それから、レイニャ、おまえも来てくれたのだな。」
レイニャはベッドの反対側に回ると、もう一方の手を握りしめた。力なく握り返してきた手には力はなく、皮膚の色も黄色っぽく変色していた。
「はい。お父様。早く元気になってください。」
「ああ、そうなればいいのだが、もう、長くは生きられそうもない。」
それを聞いたヨハンナはじっと深い瞳でギルギールを見据えた。
「そんな悲しいことを言わないでください。サーラお姉様も、まだ、十九です。父上にいなくなられては、私達、困ります。もっと、もっと、長生きしてくれなければ嫌です。」
ヨハンナの目には涙が浮かび、グリーンの瞳が揺れ始めた。レイニャは、そんな姉の顔を冷めた目で見たが、すぐに、視線をギルギールに戻した。
レイニャは掴んだ手に頬を当てながら訴える。
「そうです。こんな病なんか、吹き飛ばしてください。私、お父様のためなら、何でもします。」
「レイニャ、おまえは、正直な子だ。何があっても、姉を支えてやるのだぞ。」
「はい。それはわかっています。」
満足そうに頷いたギルギールはヨハンナに視線を移した。
「ヨハンナ。」
無表情な彼女の目からは涙が零れ落ちていた。レイニャは、また、チラッとそんなヨハンナの顔を見つめた。
「はい。お父様。」
「おまえの心は海よりも深く、思いは大地を覆うほどに広い。何人たりとも、おまえの心を犯すことはできないだろう。姉も妹も大事にしてやってくれ。」
レイニャの耳にはギルギールの言葉が刻まれたが、その深い意味までは理解しきれてはいなかった。
綺麗な瞳から、涙を零しながらヨハンナは答える。
「はい。お父様。承知しました。」
ヨハンナの返事を聞いたギルギールは深く頷いた。
ギルギールの手を握るヨハンナは静かに報告した。
「お父様、明日、レイニャと共に、森に出かけようと思います。」
「おお、そうか。おまえが、森に行くとは珍しいな。」
「はい。木々の香りを感じながら、やんちゃな妹を眺めるのも悪くはないでしょう。」
ギルギールは目を細めてヨハンナの顔を見ていた。その老いた顔には、王としての威厳もなく、国家を想う余力すらなかった。
「ああ、おまえは本当に美しい。まるで、女神のようだ。もっと、傍に・・・。」
ヨハンナは顔色も変えずに頷いた。
「はい。お父様。」
ヨハンナはベッドの上に上半身を乗せ、ギルギールの顔を胸に抱きしめた。
美しき姉のそんな行動に、レイニャは目を背けた。自分の胸を擦りつけるようにしてギルギールを抱きしめるヨハンナを見ていられなかったのだ。
「こうすれば、お母様を思い出せますか?」
「ああ、あれは、おまえにそっくりだった。しかし、あまりに早くに天国に召されてしまった。神秘的にまで美しくもあり、誰よりも心優しい女だった。」
ベッドの上に横たわるギルギールは最も愛しきものに抱きしめられて満足そうだった。
窓に浮かぶ満月を見つめるサーラは少し憂鬱そうに、手元の筆を指ではじいた。ヨハンナと同じグリーンの瞳を凛として見開いていたが、彼女の顔は冴えなかった。
「どうかなさいましたか?浮かない顔ですね。」
間近に控えるラッセル・バーリントが直立したままに話しかけてきた。
憂鬱そうなサーラは胸の内を打ち明けた。
「近頃、父上の体調が思わしくないようだ。母上が亡くなってから、国を繁栄させようという意欲もなくしてしまわれた。そればかりか、若い側室もいるのに、相手にもなさらぬとも聞いている。がんばれば、王子を授かることだってできたはずなのに・・・。」
サーラのボヤキを聞いたラッセルは、少し姿勢を緩めて答えた。
「御病気とあれば、それどころでもないのでしょう。それに、王子などできれば、女王にはなれませんよ。」
「別に、構わぬ。良く考えてみれば、女王になるのも面倒なことだ。このまま、何の不自由もない暮らしを楽しむ方が気楽でいいかもしれない。」
ラッセルはクスッと笑った。ついこの間は、いつかは権力を握り、女王として君臨したいと言っていたばかりなのに、女心は変わりやすいようだ。
「そんな弱気な顔は、あなたには似合いませんよ。欲求不満なのであれば、害にならないような男を用意しましょうか。」
「馬鹿、言うな。その気になれば、相手など幾らでもいる。」
「それは、失礼。」
ラッセルは、ただのお遊びがしたいのであれば、求婚してくるような貴族を相手ではまずいだろうと思って言ったのだが、サーラはわかってはいないようだった。
そこに、また、宰相のヨーランが訪ねてきた。
取り次いだ侍女に、サーラはすぐに対応した。
「わかった。部屋に入れるがいい。」
手土産を差し出したヨーランはサーラの足元に跪き臣下の礼を取った。
「麗しき王女様。今宵も実に美しい。」
サーラはスカートを掴むと、軽く会釈して席に着いた。
「世辞は良い。こんな時間に尋ねて来るとは、何か急用なのか?」
後方に控えるラッセルをチラリと見たヨーランは咳払いをしてから話しはじめた。
「実はですな。ヴァルター・ダンジュー侯爵のことです。」
「ふむ。ヨハンナの側近であるヴァルターか。それが、どうかしたのか?」
ヨーランは神妙な顔でサーラを見据えていた。老獪な男の視線には強い目力がある。
「サーバス地方からの租税は彼の担当になっておりますが、今年は例年に比べかなり減少しておりました。」
「そうか。確か、今年は天候が悪く、どこも不作だと言っていたな。」
「そうなのですが、それにしても少なすぎるということで調査しましたところ、地元の知事と結託し、麦を着服していたようであります。」
サーラの顔は、急に真剣な表情に変わった。まだ、若かったが、彼女も王家の一員であり、長女であるという自覚も持っていた。
「証拠はあるのか?」
「はい。サーバスの大商人であるコーレ・ヘルナムという男の証言を得ています。彼は知事であるヘンリー・ペトロビッチから、租税として納めさせた麦の検品と輸送を請け負っているのですが、彼の証言によると、ヴァルターに命じられ、仕方なく大量の麦をシューレには送らずに彼の倉庫に入れたそうです。ヴァルターが多くの麦を着服したのは間違えない事実のようですな。」
事は重大である。サーラは窓辺に視線を向けて少し考えた。ヨハンナの側近でもあるヴァルターが罪を犯したとなれば、話は簡単ではない。
「そのヘルナムという男を王宮に連れてきて、証言させることはできるのか?」
「もちろん、可能でしょう。明日、ギルギール様に報告した後に、ヴァルターを拘束しようと思いますが、よろしいでしょうか?」
サーラは真っ直ぐにヨーランを見据えた。気の強さでは、誰にも負けないサーラである。
「なぜ、私に許可を求めるのだ。父上に報告すれば十分だろう。おまえには、そのくらいのことをする権限があるではないか。」
ヨーランの目は怪しく光った。
「是非とも、あなたの同意を得ておきたかったのです。ヴァルターを捉えれば、妹君の立場は悪化します。おそらく、あなたが次期女王になるのは確定的になるかと思われます。」
サーラは目を見開いて、ヨーランを睨みつけた。
王宮の中で、彼ほどに権力を握る者はいない。そのヨーランの言葉には重みがあった。この男は、現王であるギルギールの代が終わった後の事も考えて行動している。だから、ことあるごとに、サーラに献上の品を届けてきているわけである。
そのヨーランが病のギルギールだけでなく、サーラにも許可を求めてきたということは、裏を返せば、次期の女王にサーラを押そうと決めている証拠でもある。
それを承知で、サーラは決断した。
「わかった。ヴァルターを捕らえ地下牢にでも入れておきなさい。そして、審議を開催して失脚させましょう。」
その答えを聞いたヨーランはニヤリと笑った。
「御意。やはり、サーラ様は呑み込みが早く、決断力がおありだ。」
立ち去るヨーランを見送ったラッセルは、大きく息を吐いて椅子に座るサーラに視線を向けた。
「遂に、動き始めましたね。」
「ああ、もう後には引けなくなりそうだな。でも、それでいい。父なき後、女王になるのは、私で問題なかろう。」
「御意。」
跪いたラッセルはサーラの前に深々と頭を下げた。
翌朝早くから、ヨハンナとレイニャは森のアスレチックに出かけていた。
同行したのは、ヴァルターとユーリエに言い出しっぺのローガンの他、警備兵数名である。
ロープにぶら下がったレイニャは大はしゃぎだった。
「行くぞー。ヤッホー。」
勢いをつけたレイニャはターザンロープに掴まり、すごい速度で高い木から空中を移動していく。
木陰に座るヨハンナは、そんな妹を見ながら、ゆっくりと紅茶を飲み、その周りを貴族の男三人が取り囲んでいた。ヴァルターとユーリエ、そして、ローガンである。
そんな男達に、無邪気な声が飛んでくる。
「ねぇ、ねぇ、ユーリエ。いっしょにやろうよ。」
猿のように、はしゃいでいるレイニャを見たユーリエは、視線をローガンに向けた。
「おい、おまえ、ちょっと遊んでやってくれ。」
突然振られたローガンは両手を前に出して拒否した。
「いやいや、ユーリエ様、あなたが名指しされているではありませんか。」
「問題ない。あいつは、遊んでくれる相手がほしいだけで誰でもいいのだ。行って来てくれ。」
王女をあいつ呼ばわりできるユーリエに驚きながらも、ローガンは必死に拒否した。
「私は、ヨハンナ王女様のために来たのです。例え、妹君様であっても、他の女性に近づくわけにはいきません。」
ティカップを置いたヨハンナはローガンにゆっくりと視線を向けた。
「ローガン、私の大切な妹と遊んでやってください。」
それを聞いたローガンは、すぐさま立上った。
「あっ、はい。行ってきます。ヨハンナ様。」
丸太の壁を這い上ったレイニャは、天辺から飛び降りると、ローガンの腕を掴んだ。
「どっちが、先に登れるか競争しようよ。」
身長の二倍くらいの壁を見上げたローガンは、上から垂れ下がっているロープを掴むと頷いた。自分よりも小さく、細い腕の女の子に負ける訳はない。
「いいですよ。もし、私が勝ったら、言うことをひとつ聞いてくれますか?」
「いいよ。いいよ。その代わり、私が勝ったら、一日、奴隷だからね。」
「ええ、構いませんよ。」
ローガンは自信満々だった。
掛け声とともに、ロープを掴んだ二人は壁を登り始めた。腕に力を込めて登り始めたローガンは横にいるはずのレイニャを見て驚いてしまう。あっという間に、彼女は自分よりも上に登っていたのだ。
最上段の丸太に飛び乗ったレイニャは腰に手を当てて上から見下ろした。
「ローガンの負けー。」
「ああああ、そんな馬鹿な。」
最上段から、軽く飛び降りたレイニャは、ローガンの手を掴むと、次のエリアに向かった。
「ローガン、次も勝負よ。もし、あなたが勝ったら、さっきの勝負は御破算にしてあげるわ。」
こんな年端も行かぬ少女に挑まれては、貴族としては拒むことなどできない。ローガンは真剣な顔で次の障害を見据えた。
「よし、今度こそは負けませんよ。」
しかし、埋め込まれた不規則な間隔の切株をレイニャは驚くほどの速さで駆け抜けていく。必死に追い縋ろうとするローガンは途中で足を引っ掛けて転がってしまった。
「わーい。また、私の勝だ。」
泥だらけになったローガンは悔しそうに立ち上がり、驚くべく王女に見とれてしまった。
「あああ、そんな・・・。」
木陰から見ていたヴァルターは感心したように呟く。
「全く、規格外の王女だな。」
ヴァルターの言葉に、ユーリエは頷いた。
「そうでしょう。毎日、あれと遊ばなければならない私の苦労もわかっていただけますか。」
「おお、私には勤まらぬかもしれないな。」
ヴァルターは大声で笑いだした。
ゆっくりとお茶を飲みながら聞いていたヨハンナは、ティカップを置いた。
「でも、ユーリエ殿とレイニャは仲が良くて羨ましいです。」
しんみりとしたヨハンナの言葉を、ユーリエは慌てて否定した。
「いやいや、飛んでもありません。もう、やんちゃすぎる王女に手を焼くばかりです。」
ユーリエは頭を掻いて弁解した。そんなユーリエに、ヨハンナは薄っすらと笑みを零すだけだった。
ローガンと遊ぶレイニャのはしゃぎ声を聞きながら、ヨハンナはもう一度カップのお茶を口にした。
何とも優雅で繊細な動きである。
目を伏せたままのヨハンナは繰り返した。
「でも、羨ましいです。」
美しき王女の横顔を見たユーリエは、ドキッとしてしまった。そんな自分に戸惑い、ユーリエは不自然に笑うと、わざと明るく反論した。
「いやー、参りましたね。ヨハンナ王女様に羨ましがられるようなことなどありませんよ。」
ヨハンナは深淵な眼差しを伏せたまま、それに答えることはなかった。
秋の日差しの中、少しだけ冷たい風が吹き抜けていった。
そこに、けたたましい音を立てた警備兵達が駆けつけてきた。
何が起きたのかわからないヴァルターとユーリエはヨハンナの前に立ちはだかると身構えた。
「何事だ。」
遊んでいたレイニャも、遊具の途中で停止して注目する。
「あれれっ、どうしたんだ?」
剣を装備した二十人近くの警備兵が、あっという間にヴァルター達を取り囲んでいった。
ヴァルターとユーリエは歯を食いしばり兵隊たちを睨みつけた。二人共、どういうことなのか一向に飲み込めていなかった。
ヨハンナは目を伏せたまま、手にしたカップを静かに置いた。
警備兵の一人が大きな声で通達する。
「ヴァルター・ダンジュー。租税横領の罪で拘束する。手荒なことはしたくない。おとなしく投降せよ。」
「何?横領だと、そんな覚えはないぞ。」
目を見開いて叫ぶヴァルターの横で、ユーリエも口添えした。
「何かの間違えではないのか。ヴァルター殿が、そのようなことをするはずがない。」
それを見たレイニャが離れて位置から叫んだ。
「やめなさい、ユーリエ。」
その言葉に、ユーリエははっとすると、片膝をついて首を垂れた。その声は、子供ではない王女の命であった。
レイニャは器具から飛び降りると、ヴァルターにも命じた。
「ヴァルター殿、歯向かうことは許しません。王女の名において命じます。おとなしく投降しなさい。」
「はっ。」
ヴァルターは悔しさに震えながらも膝を付き、頭を下げた。
レイニャの後ろにいるローガンはただ打ち震えているだけで何もできなかった。今まで、子供のように遊んでいたのが、嘘のようである。
ヴァルターを拘束した警備隊は、近づいてきたレイニャの前で臣下の礼を取った。
「レイニャ王女様、ご協力、ありがとうございます。」
「当然のことをしたまでだ。しかし、ヴァルター殿は姉上の側近、それを拘束するとは、余程のことだな。このことは、サーラ姉様や父上もご承知なのか?」
レイニャはオレンジの瞳を見開いて、隊長の顔を凝視する。王女の強い瞳で見据えられた隊長は姿勢を正し答えた。
「はい。そのように聞いております。」
「そうか。」
いつの間にか近づいていたヨハンナは、レイニャの横に立ち、深く落ち着いた目で隊長を見つめると、その視線をヴァルターに向けた。
どこまでも澄み切った瞳だったが、あまりに深く、彼女の心が見えることはなかった。
ヴァルターは無念そうな顔で目を反らし、隊長はヨハンナの前にひれ伏した。
「ヨハンナ王女、申し訳ありませんが、ヴァルターは連れていきます。」
ヨハンナは表情も変えずに深く頷いた。
ヴァルターに目を向けたレイニャは笑みを称えながら告げた。
「真実はいずれ明らかになるはずだ。くれぐれも、短慮に走らないでね。」
「はっ。レイニャ王女様。」
ヴァルターを引き連れた警備隊がいなくなると、レイニャはフーと大きく息を吐き、ユーリエの腕に掴まった。
ほっとして、力が抜けてしまったようだ。
「だいじょうぶですか?レイニャ様。」
「うん。平気だけど、どうしよう。ヴァルターは横領なんてする人ではないよ。このままだと、罪人にさせられちゃう。」
ユーリエは、今にも泣き出しそうなレイニャの頭を撫でてほほ笑んだ。
「まずは、真実を見極めなくてはなりませんね。戻って、サーラ王女様にでも会ってみますか?」
「うん。そうだね。お姉様もいっしょに行く?」
レイニャは隣のヨハンナを見たが、彼女は首を横に振った。
「私は行きません。」
涙目のヨハンナを見たレイニャは自分が何とかしなくてはいけないと覚悟した。
ユーリエは冷めた目で、そんなヨハンナを見つめていた。
その目には、光の中で揺れる銀色の髪、深いグリーンの瞳が映っていた。
どこまでも美しき少女の悲しそうな顔だったが、彼女の心は見えなかった。
レイニャは、椅子に深く座り足を組むサーラに食いついていた。
「でも、証拠と言ったって、そんな地方の商人の言うことなど信用できるのですか?絶対、怪しいと思うな。」
サーラはじっとレイニャを見つめながら答えた。彼女の後ろには、少し離れてユーリエも控えていた。
「この世界に、嘘を言わないものなどいない。信用できるかと聞かれれば、それを証明する論理はない。しかし、審議を行い、正当な場でヴァルターは裁かれる。この国のルールに従ってだ。それを疑ってしまっては、国家自体が成り立たない。定められたルールに従うからこそ、秩序が保たれ、人々が安寧に暮らせるのだ。」
レイニャはしっかりと姉を見ながら答えた。
「ちゃんとした審議をするのですね。もちろん、その商人も呼んで証言させるのですよね。」
「そのつもりだ。しかし、ヨーランの話では、その商人とやらは、大怪我をして動けないらしい。中立的な人間を派遣して、証言を確認すると言っていた。」
「中立って、誰が行くのですか?お姉様の言うこともわかるけど、それでは、納得できません。」
サーラは溜息をついてしまった。
「レイニャ、おまえは、私のかわいい妹だ。それは、嘘偽りもない私の気持ちだ。だから、この事は、私に任せておいてくれ。」
「私も、サーラお姉様のことは大好きです。ただ、私は真実を知りたいだけです。お姉様に任せて置いたら、ヨーランの好きなように真実を曲げられてしまいそうです。」
レイニャは勢いよく立ち上がった。
それを見たサーラは苦笑いを浮かべた。レイニャは言い出したら聞かない。それに、常識では考えられないようなことでもやり遂げてしまう。もう、そういうことは何度も経験していた。
「フフッ。おまえは小さいころから、言い出したら聞かない。かわいいだけの妹であれば良いものを・・・。」
「私がサーバスに行ってきます。そして、その商人とやらに直接会って話を聞いてきます。」
それを聞いたサーラは立ち上がると、軽くレイニャを抱きしめた。
「無茶するな。と、言っても無駄なのだろうな。しかし、おまえは、私のかわいい妹だ。それだけは、忘れるなよ。」
サーラの部屋を出たレイニャは小走りに廊下を進みながら、ユーリエに命じた。
「すぐに、出立の準備をして。」
「本当に行くのですか。王女の外出申請には三日はかかります。」
「そんなものを待ってはいられない。お忍びよ。お忍び。明日の早朝には出発よ。」
ため息をついたユーリエは頭の中で、何を準備しなければならないかを考え始めていた。こうなってしまえば、もう、行くしかない。レイニャを止める術などありはしないのだ。
「また、あの抜け穴から出るのですか。しかし、サーバスまでは、馬車だと、二日はかかります。途中、めぼしい街はありませんので、宿の確保ができるかどうか?」
立ち止まったレイニャは首を捻って少し考えると、ポンと拳を叩いた。
「馬なら、一日で行けるでしょう。サーバスまで行けば、宿くらい何とかなるよ。」
そう言ったレイニャは、また、歩き始めた。
それに合わせて、ユーリエも後を追う。
「向こうでは、ヘルナムとかいう商人の他にも誰かと会うおつもりですか?」
「そうね。ヴァルターと共謀したという知事にも会いたいな。」
「レイニャ様が向こうに到着する頃には、その知事の身柄も確保されていると思いますよ。」
「そうか。なら、その家族とか知り合いとかかな。何しろ、真実の糸口を掴まなくっちゃ、行く意味がない」
「しかし、全てはヴァルター殿が横領などしていないという仮定に基づいているように思えますが、もし、そうでなかったら、ということも考慮していますか?」
心配になって尋ねたユーリエだったが、レイニャは即答した。
「しているよ。」
レイニャの部屋の前に着くと、ユーリエは手を伸ばして、王女の頭を撫でた。レイニャもまた何を考えているのかわからないところがある。子供のように遊んでいるかと思うと、急に大人びた対応をすることもある。そして、意外に抜け目はない。
諦めたユーリエは、今考えている算段を告げた。
「私の他、衛兵二名に同行させます。警備は手薄ですので、服装は目立たないものを選んでください。できれば、フードで顔も隠した方がよろしいかと思います。」
「わかった。そうする。」
扉を開けたレイニャはニッコリと笑うと、部屋の中に消えていった。
少し目を細めたユーリエは、そんな王女を見送ると、気を入れなおして準備にとりかった。
「全く、めんどうな姫様だ。」
翌朝早く、宝石で飾られた服を無地のローブで隠したレイニャは馬にまたがり、宮廷を後にした。
宮廷にいる時と変わらぬ豪華絢爛なレイニャの服に目をやったユーリエは溜息をついた。
「目立たぬように言ったのに、ローブを脱げば一発で王女だとわかってしまいます。」
「いいの。いいの。だって、もしかしたら、そういう地位が役に立つこともあるかもしれないでしょ。」
「そんな目立つ格好で、良からぬ輩の目に触れることの方が心配ですよ。」
いつもながらのユーリエの愚痴など聞いていないように、街を抜けたレイニャは地平線まで続く畑に目を輝かせた。
「うーん。やっぱ、街の外はいいな。さあ、行くぞー。ユーリエ、遅れないでね。」
馬を駆るレイニャは速度を上げて走り出した。
「はいはい。」
朝日に向かって走るレイニャを眩しそうにユーリエは見つめると、自らの馬に鞭を入れた。
夕刻のサーバスの街に到着したレイニャは見知らぬ街を見ながら、ゆっくりと馬を進めた。フードに隠れた顔には、さすがに疲労の色が濃かった。
「ああ、疲れたなあ。」
俯くレイニャの元気のない顔を見たユーリエは馬を近づけると、フードの上から頭を撫でた。
「よく頑張りましたね。日が暮れてしまうのではないかと心配でしたよ。」
レイニャは、何かを乞うような、かわいらしい目でユーリエを見上げた。
「私が言い出したのだから、弱音は吐けないよ。」
レイニャの馬の周りには、何やら叫びながら走り抜ける人々が目についた。どこかに向かって走っていく人々に、ユーリエの視線は向けられた。
「しかし、何やら騒々しいですね。何か、あるのでしょうか?」
ユーリエの言う通り、多くの人々の動きを見ていると、何かありそうな感じだった。ユーリエは人を捕まえると、何が起こっているのかを尋ねてみた。
「おい、おまえ、どこに行くのだ?」
「広場で、火あぶりが始まるんだ。」
それを聞いたレイニャはピクリと顔を上げた。
「火あぶりか。残酷だな。何をしたんだろう。」
「聞いてみましょうか?」
ユーリエは別の者を捕まえて問い正してみた。
「年端もいなかい女の子が、ヘルナムさんの大事なところを噛み切っちゃったんだ。」
ユーリエはレイニャに耳打ちした。
「ヘルナムと言えば、例の商人ですよ。大怪我というのは、あそこを噛み切られたってことらしいですね。」
少し俯いたレイニャはクスクスと笑い出していた。
「年端もいなかい女の子に噛み切られたのか。つくづく情けない男だな。大方、悪さでもしたのだろう。」
笑っているレイニャに対し、ユーリエは真面目な顔だった。
「男としては一生の恥ですね。しかし、噛み切って火あぶりにされる女の子もかわいそうなものです。」
レイニャは笑いながら顔を上げた。
「よし、火あぶりを見に行こう。」
街の中をさっそうと駆け抜けていく後ろ姿を見たユーリエは溜息をついてしまった。
「やれやれ、また、面倒なことが起きなければよいのだが・・・。」
あっという間に広場に到着したレイニャは馬から飛び降りた。
宙を舞う彼女の頭からは、フードが外れ、ブロンズの美しい髪が風で広がった。
「おおー。」
近くにいた人々の目は、一斉に王女の華麗な姿に注がれた。宮廷の中で大切に育てられたレイニャの姿は平民や下級貴族とは違う。ただ、立っているだけでも、街中では目立ってしまうほどに優美だった。
「どこの姫様だろう。」
「なんと綺麗なブロンズだろう。しかし、見かけない顔だ。」
「都の上級貴族の娘だろう。」
舌打ちしたユーリエは、急いで馬から降りて、外れたフードを直してみたものの。もう、遅かったようだ。辺りの人々の目は火あぶりはそっちのけで、レイニャに向けられてしまっていた。
広場を取り囲む民衆の中には、ラウナが火あぶりになると聞いて、取るものも取りあえずにやって来たソフィアの姿もあった。
彼女は目の前で手を組んで、祈るように見つめていた。
「どうか。神様お願いです。ラウナを・・・。ラウナを助けてください。」
そんな彼女が、辺りの騒がしさに顔を上げると、その目には石畳に立つ壮麗な王女の姿が映った。
「嘘。あれはレイニャ王女様・・・?でも、どうして、ここに・・・。」
思い立ったソフィアは、レイニャの前へと走った。絶望的な気持ちで、処刑を見守っていた彼女にとって、もし、本物の王女であるなら願ってもないチャンスである。
駆け寄ったソフィアはレイニャの前で跪いた。
「あの、お願いです。」
自分の前に平伏した貴族らしき少女を見下ろしたレイニャは凛とした口調で答える。
「なんだ。」
「もしかして、レイニャ王女様でしょうか。」
少女の声に居合わせた者たちは、一斉にレイニャに注目した。もし、王女であれば、その前に立つことだけでも憚れるのだ。
ユーリエが戻したフードを外したレイニャは足元にひれ伏す少女を見下ろした。
「いかにも、レイニャだけど、何か?」
少女は平伏したまま、願い出た。こんな願いは聞き入れられないだろうことはわかっていた。でも、嘆願する以外に方法などなかった。
「この火あぶりを止めてください。」
「うーん、そう言われてもな。訳もなく、そんなことはできないな。おまえ、名は何という。」
「はい。ソフィア・ペトロビッチと申します。ご無礼をお許しください。」
「ペトロビッチ?この街の知事も、そんな姓だったような。」
父親の名を知っているということが取り付く糸口になるかもしれないとソフィアは直感的に感じた。
「はい。知事のヘンリー・ペトロビッチは、私の父です。父も不当な罪に問われて、都に引き立てられ、友人のラウナも不条理な罪で火あぶりになろうとしています。こんな酷い裁きをする国であるなら、私はもう、この国を信用できません。」
ソフィアはリスクを承知で訴えた。友達というには接点は少なかったが、どうしても、このままラウナを死なせたくはなかった。それは理由ではなく、心にある想いであった。
「おお、それは困るな。」
レイニャは鋭い視線を広場に向けた。農民一人が殺されようが、彼女には大きなインパクトはない。王女として生まれた彼女には、末端の犠牲を容認するだけの無頓着さがあった。
レイニャの目には、広場に突き立てられた柱に縛り付けられた少女が映っていた。
少女の服は乱れ、足はあらわとなっていたが、みすぼらしき女は泣き叫ぶこともなく、じっと、刑の執行を待っているように見えた。
-ふん、確かに、まるで、この国の歪みを背負っているかのようにも見える-
ラウナは集まった観衆の声を聞き、薪が足元に積み上げられていく気配を感じ取っていた。目は宙を見ていたが、その視界には何も映ってはいなかった。
-あああ、こういう終わり方なんだな-
-今まで、いろいろとがんばってきたつもりだけど、あんまり報われなかったな-
-でも、そんなことよりも、熱いだろうな-
-きっと、耐えられないくらい熱いだろう-
-どのくらい泣き叫んで、のたうち回れば死ねるのかな-
-早く、死ねるといいな-
判決を受けた時は、泣き叫んでしまったが、今は落ち着いてはいた。ただ、できるだけ楽に死にたいと願うばかりである。
ラウナを見つめていたレイニャはゆっくりと馬に跨った。
「何をなさるおつもりですか?」
レイニャは答えることなく、張り付けられた少女の目を見ていた。
「きれいな目をしている。まるで、サファイヤのような瞳だ。」
ユーリエの脳裏には、また嫌な予感がしていた。
羽織っていたパーカを脱ぎ捨てたレイニャは手綱を掴むと馬を動かし始めた。一度、下がって勢いをつけたレイニャは馬上で叫んだ。
「みなの者、どけー。私は レイニャ・フォン・フリューゲン。国王ギルギールの第三王女だ。」
その声を聞いた民衆は一斉に道を開いた。
ユーリエは額に手を当てながら俯くも、気を取り直して彼女の後ろに続いた。
「やれやれ、全く、手間のかかる姫だ。」
多くの民衆が見守る中、勢いをつけた馬は目の前の柵を飛び越えた。馬のいななきと、風を切る音に刑を執行しようとして役人達は振り向いた。
広場に乱入したレイニャは叫んだ
「待て、待て、この刑の執行を取りやめよ。」
ブロンズの髪を並みかせて向かってくる少女の雄姿にラウナの視線は向けられた。
「ああ、何だろう。あの人?」
ラウナの目の前まで来たレイニャは、もう一度、馬上から叫んだ。
「王女の名において命ずる。この刑の執行を取りやめよ。審議をやり直す。」
火あぶりの準備をしていた役人達は顔を見合わせて固まってしまった。
ラウナの目には涙が溢れ出していた。白馬を操り、役人たちを見下ろすブロンズ髪の少女は正に女神に見えた。あまりにも壮麗で、あまりにも奇跡的で、夢の世界に連れていかれたような気分だった。
絶望の底で、どうしたら楽に死ねるか。それだけを考えていたラウナは、自分を助けようとしている女神に歓喜した。
「レイニャ王女様?ウワー、なんて綺麗な人なのだろう。」
ラウナの目には馬を操る王女は、高貴な光に輝いて見えた。それは、目が霞むほどの美しさと尊さである。
役人の長はレイニャに向かって、釈明する。
「この女はコーレ・ヘルナム卿に重傷を負わせた罪人であります。街の審議で・・・。」
「うるさい。そんなクソジジイのものを口に突っ込まれたら、私でも噛み切るわ。」
「王女様に、そのようなことをなさる方などは、おらないかと・・・。」
「あたりまえだ。そんなことをしたら、噛み切るだけでなく。その場で、首を跳ねてやる。審議はやり直しだ。おまえは、王女の命に従えぬと言うのか。」
役人は観念したようにレイニャの前に平伏した。
「はっ、今すぐ下ろします。」
後ろを振り返ったレイニャはユーリエに命じた。
「ユーリエ、その娘を連れて来い。私は、先ほどの娘と知事の家に行く。」
ユーリエは注意深く周りを見ながら、レイニャの前に馬を進めた。
「はっ。私はいなくても、だいじょうぶですか?」
「心配するな。」
姿勢を正したレイニャはゆっくりと馬を進めた。
彼女が近づくと、柵の扉を守っていた役人は慌てて扉を開いた。
真っすぐに、前を見るレイニャは無言で柵を通り過ぎると、民衆のいる目の前を堂々と進んでいった。胸を張り、王女らしくである。
夕日にブロンズの髪を輝かせた彼女の姿に、誰彼ともなく拍手が沸き上がり、王家の権威の象徴の如く、サーと波のように人々は石畳の上に平伏していった。
「あっ、あれが、レイニャ王女様・・・。」
多くの民衆は、本物の彼女を見たことはない。遠く、首都の王宮で暮らす姫であることくらいしか知らなかった。それでも、王家という名の威光は絶大だった。
初めて見る王女の姿はあまりに衝撃的であり、体が震えるほどの威厳に満ち溢れてもいた。いつも高飛車で威張っている役人までもが、彼女にひれ伏していく。王家の偉大な力を見せつけられた民衆は畏敬の念を抱くと同時に、ある種の痛快さも感じていた。
馬上から、ソフィアを捜したレイニャは、彼女に近づくと手を伸ばした。
「掴まれ。」
ソフィアは、涙でいっぱいの目でレイニャを見上げると頷いた。
「はい。王女様。」
レイニャの手を掴んだソフィアの体は軽く浮き上がり、馬上に引き上げられた。自分よりも少し背が低いレイニャの前に座らされたソフィアは、初めて乗る馬の上からひれ伏す民を見下ろした。
驚くソフィアの顔を見たレイニャは耳元で囁いた。
「どうだ。なかなか、いい眺めだろう。そうそう見られるものではないから、よく見ておきなよ。」
「あっ、ええ。」
民衆の前を抜けると、レイニャは力を抜いて表情を和らげた。
「いやー、でも、こういうのは苦手なんだ。」
「えー、あの、そうなのですか?」
「そうだよ。王女というのも意外に、疲れるんだよな。」
ソフィアは振り返って、王女の顔を確認してしまった。そこには、もう、先程の威厳に満ちた顔はなかった。
でも、やはりそこいらの貴族とは違っていた。髪の毛もサラサラだし、信じられないほどに、肌も綺麗である。
「どうかしたか?私の顔に何かついているのか。」
「いいえ、とんでもありません。あまりにお綺麗なので驚いているのです。」
「そうか?ヨハンナお姉様は、もっと、ずっと美人だぞ。王宮では、私なんか見向きもされない。」
ソフィアはあまりに信じられない出来事に驚くばかりである。まだまだ、限りないほどに知らない世界があるものだと感心してしまった。