8話 知らないこと、知りたくないこと
欲しい物はすぐ目の前にあった。
手を伸ばせば届く距離にあったのだ。
そう、あと少しで届く、そんな状況はこんなに短い人生で何度もあった。
その度に自分に力があれば、と後悔した。
『これを……イオ君に』
あの日もそうだった。
吸い込まれそうな黒い瞳を見た時、たくさんの失敗の経験がフラッシュバックしてきて嫌だった。どうせまた失敗するんだろうな、とイオは勝手に決め付けてしまった。
まだやってもないのに、あの人は精一杯頑張ったのに。
人は本当に嫌なことがあると、記憶に蓋をしてしまうらしい。イオは精霊を迎え入れたショックで参っていたせいか、記憶の塗り替えはいとも容易く行われた。
『あれ……君、誰?』
『……えっ』
自分の勝手な判断で傷付けてしまった人がいた。
その人は必死に彼を止めてくれたのに。
◆◆◆
リオ王城近くの闘技場。
そこに本能に支配され、理性を欠いた人ならざる者がいた。
「ゴガアァァァァッッッッ!!!!」
「好かんな。獣になるということは、自分を抑制しなければならないということだ」
「レグルス様! イオ君を止めて下さいっ!」
「……はぁっ!」
レグルスはシロンの悲鳴に応えるように、その獅子の健脚を利用して大きく跳躍し、イオとの距離を一瞬で詰めた。
ちなみにイオは牛と化している。
その肉体は変貌を遂げ、以前の面影はどこにも残っていなかった。
イオの腹に拳が迫る。それを彼は非生物的な気持ち悪い動きで躱した。
足を地面に突っ立てたまま、上半身を芋虫のようにグルンと捻ったのだ。
そうやって回転した上半身は、すぐにレグルスの前に帰ってきた。それは回避行動に見せかけたカウンターだと、攻撃をもらった後に気付かされた。
「っ!」
「ガァッ! ガァッ! アガァッッッッ!」
重心が乗っていない力任せの三連撃が、王の顔面を猛追する。
しかし、レグルスは戸惑いながらも華麗に受け流して見せた。武術に則った流水のような動きで。
「ここまで力強いとは……っ、だが」
「バァァァァッ!?」
鞭のようにしならせた足で地面を蹴り上げ、土煙でイオの視界を遮ったレグルス。
これに反応できなかった彼は目標を見失った。
「一時は貴様を魔法で仕留めようか迷った。しかしだな―――」
「ウゥ……? ウガァッ!?」
「自ら決めた規則に背くのは納得いかん。よって、貴様には力でどちらが上か教えてやろう」
「ゴォォォォガァァァァッ!?!?」
音も立てずにイオの背後に回り込んだレグルス。
彼はイオの首根っこを掴むと、反撃も許さないスピードで思い切り地面に叩き付けた。
王の癖に筋力、瞬発力、技術力が圧倒的に優れている。
てっきり王とは部下に命令を下す生き物だとばかり思い込んでいたが、これを見た者は今後考えを改めた方が良いだろう。
さもなくば、このイオのように顔面をすり潰されてしまうから。
「―――」
「い、イオ君!」
「殺さんように手加減はした。いや、もし何かの間違いで死んだとしても、彼は大丈夫だろうが」
意識を失ったイオの体はどんどん萎んでいき、やがていつもの姿に戻った。角も尻尾もない、普通の人間の姿に。
観客席から飛び出したシロンは、真っ直ぐに彼の元へ向かった。
「起きて! 起きてよ!」
「……ん、あ……あぁ……ここは」
「ホントに起きた……」
「お、シロンか?」
「そうだよ! ボクだよ!」
『不死』の効果ですぐに回復したイオ。
見慣れない景色の中からシロンを見つけ出した時の彼の顔は、何とも情けない表情をしていた。




