8話 悩んでも
大きな丘の上に、リブラ魔法管理局はある。
そして、そこへ行くまでに長い階段がある。昇るには相当な時間と体力が必要だ。
イオはハァハァ言いながら足を動かし続けていた。
「なぁ、そう言えば……あの泉の事なんだけど」
「んー?」
特に話す事もなく、だらだらと階段の上を目指していたイオは、突然泉について切り出した。
先の、不気味な景色を見せてきたあの泉だ。
「あれ、何なんだ?」
「あれって言うと?」
「茶化すなよ。お前もあの口振りだと、泉に顔突っ込んだことあるんだろ?」
「そうだね」
「だったら説明してくれよ……中で見た景色が結構怖くてさ、寝ると時にうなされたらどうするんだよ」
イオはそう弱々しく言った。
泉から引き揚げられて目を覚ました時は、シロンと一悶着あったので、あの謎の恐怖を忘れられたのだが、こうして思い返してみると、やけにリアルで気色悪かった印象がある。
現世ではあり得ないことだから、きっと魔法関連の事物であるはずなのだが――――
「あれは少々――――どころじゃなくて、かなり厄介でね。まあ、夢の内容を話してごらん?」
そう言って、シロンはイオに対して告白を促した。
彼には断る理由もないので、特に迷わず夢の内容を話し始めた。
「あぁ……いきなりkごぉっほぉうぇ!」
「もう一度」
「ほがっはぁっ! うぇぇぇ……」
「うーん」
イオは別に喘息気味の体質という訳ではない。それに、軽い運動をするだけで肺が詰まる病気の持ち主でもない。だから、これは明らかにおかしい。
泉で見た夢について話そうとするだけで、なぜか喉を強く押さえつけられた感覚に陥る。
この状況を鑑みて、シロンは説明を始めた。
「実は、あの泉の見せる夢については他言無用なんだ。絶対に他人に聞かせることはできない」
「はぁ? どういう仕組みか知らないが、そういうのは早く言ってくれよ……」
「ごめんね、異世界人の君に効力があるのか試したくて……えへっ」
「笑って許されると思ったか? お前、何が真面目な顔して『もう一度』だ」
どうやら別世界の人間であるイオの理解が及ばない範囲に、その泉の秘密があるらしい。
彼はその後も、シロンに質問責めを試みたが「後でまとめて説明してあげるよ」と流されてしまった。
そうして、しばらくして長い階段の終わりが見えた。管理局の大きな扉が2人を待ち構えている。
「じゃあ準備はいい?」
「準備とか要らないだろ。早く休ませてくれ」
「はいはい」
ドアの重苦しい音が開閉と同時に鳴り響く。こうしてイオはついに管理局へ足を踏み入れた。
記念するまでもないが、これが1ヶ月に及ぶ異世界生活の始まりの第一歩という訳だ。
まだこの世界に来て時間は浅い上に、体験したことの全てが新鮮だったので、一日中歩き回ったような疲れ具合にある。まだ半日も経ってないはずなのに。
「では改めて……ようこそリブラ魔法管理局へ。君には1ヶ月間ここで働いてもらうよ。精進するように」
「働いたことなんてないから、自信を持って言えないけど、まあ、全力でやるよ。手抜きはしない。無事に元の世界に帰るのが、俺の唯一の目的で目標だからな」
イオは強がって笑って見せた。正直、見ず知らずの世界でいきなり働くのは、まだ若過ぎる彼にとっては不安でしかないが、何より帰るためだ。仕方ない。
今は余計な事は考えないで、ただ服従するだけでいい。それで救われるなら、どんな苦労だって厭わない。むしろ望むところだ。
そんなことを考えつつ、管理局に足を踏み入れると――――
「やっと帰ってきたんだね! もう心配したよ!」
決意を新たに、いざ管理局の自室で休眠を取ろうとしていた時、ロビーにある螺旋階段の上から声を投げかけられた。
うら若い女性の声だった。
「あなたが召還装置でやって来た……あ、名前は?」
「イオです。新田五百って言います」
「そう、これからよろしくね。私はブラキウムって言うの。色々不安だと思うけど、何かあったら私に聞いてね」
「あっ、はい」
突然話しかけてきたのは、漆を塗ったように艶のある黒髪と、黒曜石のような黒い瞳を持っている、どこか中性的な顔立ちの女性だった。
身長はイオより高く、自然と敬語で話すことを促される落ち着いた雰囲気の美人である。
「シロン、ごめんね。いきなり頼んじゃって。もう部屋に戻って休んでいいよ」
「はーい……じゃあね、イオ君」
「おう、また明日」
「それで、まずはあなたの部屋へ……と行きたいところだけど、その前に、この施設の案内をしておこうかな。大丈夫だよね?」
「全然大丈夫ですよ」
イオの案内手はブラキウムに交代だ。
見てみると、彼女はシロンと正反対の印象を受ける。雰囲気からして、少し大人びた20代前半の女性といったところだろうか。
イオは無言で、ブラキウムの後を辿って行く。
「ここが仕事場で、書類なんかが大量にあるの」
「へぇー」
「ここが共同のトイレだね。お掃除は当番制だからね」
「へぇー、そうなんですね」
「それで、ここが大浴場。右が男湯で左が女湯。間違ったら魔法の餌食になっちゃうかも」
「へ、へぇー」
「それから、ここが管理局が誇る大図書館よ。文字は読める? 読めないなら、私かシロンが教えてあげるよ」
「あ、ありがとうございます。そんなわざわざ」
「ううん、気にしないで」
ブラキウムは丁寧に、淡々と説明を続ける。
「大きいでしょ? このホール」
「確かに……」
「ここが職員寮なんだ。ホールの側面に扉がたくさん見えると思うけど、向かって右が男子部屋で左が女子部屋だからね。お風呂場と同じだから覚えやすいでしょ?」
ホールを囲むように部屋が配置されており、5階層分が吹き抜けになっている空間に来た。イオは成り行きで、入り口から離れた奥の方の空き部屋を案内された。
彼が想像していたものよりも断然広く、とても快適に思える部屋だ。話によると、音が漏れる心配もなく、夜間もホールの明かりが点いているのでトイレに行くのも怖くないらしい。って、一体何を心配されたのか。
「じゃあ、仕事についてはまた明日。今日はゆっくり体を休めてね」
「はい、ありがとうございました」
「こちらこそ」
イオは軽く頭を下げ、感謝の意を示した。お辞儀が通じるかは分からないが、とりあえずやっておいた。
ブラキウムが自室に戻るのを見届けて、イオは部屋のベッドに横になった。彼は大きく息を吐いて、枕に顔を埋めたのだった。
極度の緊張状態から急に解放されると、どっと眠気が襲いかかってくるのはよくある。大きなイベントの帰りに、車や電車の中で寝てしまうのが例だ。
しかし、イオには不思議なことに、その睡魔はやって来なかった。意外と疲れていないのか、それとも緊張が解けないでいるのか。はたまた、そのどちらでもないのか。
「はぁ、どうすっかなぁ」
上半身を起き上がらせ、部屋を見渡す。照明は元の世界のLEDライトに近い感覚がして、少しだけ落ち着く。どうやら電化製品ではなく、魔法アイテムらしいが。
天井や壁、机やベッドは木製で、触るとすべすべしていて気持ちが良い。
それから、窓が扉の向かいにあって、そこからは外が眺められた。イオがいるベッドからは、うまい具合に月が視界に入った。
それは、やはりとても綺麗で――――
「って、こっちにも月に近いものはあるよな。びびった」
この部屋に似た宿屋なんか、元の世界で探せばいくらでも見つかるだろう。それに、窓から月が見えたっておかしくない。
それだけに、どうしても寂しさを感じてしまう。1ヶ月は短いと思い込んでいるが、実は結構長いのかもしれない。
果たして、彼はこの生活に耐えられるのだろうか。
「はあ……シロンの部屋に殴り込もうかな」
不意に犯罪思考に飲まれそうになったので、イオはホールへ出て気分転換を計った。まだ起きている職員達が、用意された椅子に座り談笑している。
そこで、イオは知っている顔を探そうとするが、もちろん誰の顔も記憶にない。
「まあ、悩んでも仕方ないか……ここで働くしかないんだから」
しばらく近くの壁に寄りかかって、ホール全体を眺めた後、自分の茶髪に手櫛を入れつつ部屋へ戻った。
やっぱりまだ緊張が解けないのか、どうしても眠れなかった。