12話 アクエリアスの危ない夜
イオは昼過ぎから宿屋で休息していた。
それから、夜までずっと。
「ねえ、イオ君――――」
「お~い、起きて~――――」
同室にいる二人の女の言葉攻めに遭ったが、なんとか耐え凌ぐことができた。彼女たちがいない時は天井を眺めたり、窓の外に広がる空を眺めたりしていた。
しかし、不思議と眠くはならなかった。
そして、いつの間にか夜になっていた。
「はあ……」
ふと隣を見てみれば、シロンがベッドで寝ているのが見える。耳を傾けてみると、小さくて可愛らしい寝息が聞こえてきた。
「いいよな、すぐに眠れて」
そこでイオは急に妹のことを思い出した。
新田五百とその妹、新田五月は真反対の性格をしていた。
イオは家でゲームをよくやっていたが、妹は外で運動をよくやっていた。
イオは意外と繊細な性格をしているのだが、妹は大胆な人間だった。
そして、イオはゲームばかりやっていたので寝付きが悪かったのだが、妹はそれに対して寝付きが良かった。
まだ彼が小学生だった頃は妹と一緒に寝ていたのだが、その時の五月は本当に眠るのが早かった。
「なんだろうな……この敗北感」
自分はなかなか眠くならずに悩んでいるのに、目の前のシロンはかつての妹と同じように、純真無垢な表情で眠りについている。
羨ましくはあるが、同時に恨めしくもある。
「……ってか、トイレ行きたくなってきた」
そう言えば、この世界で目覚めてから一度も大の方を催していない。ちょうど食べ物を消化した後のカスが溜まっている頃だ。
彼はバッと飛び起き、布団を跳ね上げて、部屋の外に向かう。
その時、ある異変に気付いた。
「やっぱり寒くないか……?」
布団に潜り込んでいた時から何となく感じていた、この肌をつねるような寒さ。シロンから聞いたところ今は夏らしいので、どう考えてもこの状況はおかしい。まるで冬の夜みたいだ。
と言うか、元の世界でも夏にここまで寒くなる気候なんて聞かない。北方の極寒地域ならまだしも。
もちろんアクエリアスが高所や極地に位置しているのなら、その線もあり得るのだが、リブラから移動している時に大きな坂を登った覚えはないし、そもそもリブラでの一夜はそこまで寒くなかった。
おかしすぎる。
「まあでも、魔法アリの世界だし当たり前なんて信じない方がいいかもな」
そう結論付けて、イオは扉を押し開け――――
「ん!? さっむ!!!」
なんと先程まで感じていた寒さとは比べものにならないほどの圧倒的な冷気が部屋の中に流れ込み、イオの足を突き刺したのだった。
彼は思わず飛び退いて、部屋の扉を閉めようとしたのだが、それができなかった。
「あぁ……っ! 寒さが体の芯まで……っ!」
その予想外の寒さに、イオの腹が悲鳴とも取れる唸り声を上げたのだ。内臓が締め付けられ、排泄される予定のモノたちがグルグルと蠢くのを感じた。
とても痛いし、今すぐトイレに行きたい。そんな気持ちが心の中で強く疼いた。
「クソっ! 行くしかねぇ!」
寒さには耐えられる。
しかし、社会の冷たい視線には耐えられない。
ここで漏らしたことが二人に知られた日には、部屋から追い出されること間違いなし。
もはやイオの命の危機だ。
だから、まず階段へ向かう。扉も閉めずに。
そして、腹を刺激しないように股を開かずに、奇妙な格好で階段を下りる。
それから、一階の端にあるトイレを目指す。
今は深夜だ。
つまり、誰かにトイレを横取りされる事態は発生しないはず。
駆け込めば勝ちだ。
「はぁ……っ! はぁ……っ!」
徐々に息が荒くなる。
下腹部に血液を持ってかれて、だんだんと脳の働きも鈍くなる。
イオは今、なんと便意に追い詰められている。
分からないことだらけの異世界で、まさか最初に便意に命を狙われるとは思わなかった。
しかし、辿々しい足取りになりながらも無事にトイレに到着し、あとは中に入るだけになった。
そのはずだったのだが……ここでとあるハプニングが彼を襲った。
「こんな時間に誰だ!? 幽霊か!?」
「そっちこそ誰……ってイオさんか~。もう驚かせないでよ」
「こ、こっちの台詞っすよ……いつの間に部屋から消えてたんですか。はぁ、はぁ……」
中に突入して洗面所を覗いてみると、そこには恐ろしい髪色の女が立っていた。
こんな真夜中に人がいるとは思っていなかったので、思わず幽霊だと決めつけてしまったのだが、正体は同室の女だった。
赤と紫のグラデーションが映えるメッシュが、暗闇のせいで血に見えてしまったではないか。
「急いでるみたいだね。先いいよ」
「本当ですかぁ!? ありが……あっ、やば」
よく見てみると、トイレを使おうとしているマイアが立っていただけだった。そんな彼女だが、イオの鬼気迫る表情を見て、心優しく順番を譲ってくれた。
しかし、なぜ彼女はイオと同じトイレにいるのか。
(……ここ、兼用なんだな)
イオはその疑問に対する答えをトイレの中で見つけることになった。そう、トイレの中の張り紙に男女共用を思わせるイラストがあったのだ。
これは申し訳ないことをした、とイオは思った。
(でも、助かったぁ……)
安堵の情に浸りつつ便座の上に腰を落ち着かせ、ホッと一息ついたのだった。




