10話 時雨の如く
異世界生活、二日目の中盤。
それも朝食を食べ終えた頃合い。
同行していた王が部下に連れ去られる事件が発生したのだが、それを無視して今日という日を楽しむことにする。
と言うか、あれは彼の自業自得だろう。気にするまでもない。
「そうだ、俺は温泉に入りに来たんだよ。危うく忘れるところだった」
濃い性格の男と一緒にいたために本来の目的が頭から抜け落ちるところだった。
気怠げに自分の茶髪に手櫛を入れるイオは、一度出かかった建物にまた入り直した。知っての通り、目指す温泉は料亭と同じ建物の中にあるのだ。
それを再確認した彼はスタスタと建物の奥へ向かったのだった。
「いい雰囲気だ……」
あの慌ただしい雰囲気とは打って変わって、この温泉宿はとても静かで安心できる空気に包まれていた。
見渡してみると、壁と天井は紅白を基調とした絢爛模様で埋め尽くされており、シャンデリアのような大型照明が煌々と正面玄関を照らし出している。
そして、まだ朝方にも関わらず多くの人で賑わっていた。
そこの受付で代金を払い、代わりに鍵と券を受け取り、それから軽い足取りで奥へと向かう。一人でこのような場所に来るのは初めてなので、実は少しだけ気分が舞い上がっているのは内緒だ。
ウキウキ気分で歩みを進めると、その先には暖簾があり、そこをくぐり抜けると無事に脱衣場に着くことができた。
(あー、いい……落ち着く……)
イオは思わず目を閉じて気分を蕩けさせた。
現時点の記憶上では、まだ召喚されてから数日しか経っていない訳だし、それに加えて旅の疲れも溜まっていることだろう。
そんな彼が、脱衣場の向こうに広がる温泉から漂う心地よい熱気に身を委ねかけるのは、全くもって当然の反応に思えた。
もう待ちきれないと言わんばかりのスピードで、イオは服を脱いで腰にタオルを巻き付け、さっさと温泉に向かった。
ガラッと扉を開けてみると、そこには露天形式の開放的な温泉があり、周囲に柵や建物の壁が巡らされているのが分かった。
「いい感じの場所だな」
「そうだよね。これが数々の旅人と商人を癒してきたという、まさに我が国の自慢の温泉さ」
「へえ…………何でここにいるんだよ!?」
温泉マナーも知らぬまま、イオがいそいそと湯船に浸かろうとしたところ、何者かが休んでいるところに遭遇してしまった。
よく見知った人間が、そこにいた。
「さっき捕まってましたよね……?」
「王たる者、あれくらいは振り切って然るべし」
「王たる者なら仕事くらいしてください……」
イオは全てを諦めて湯船に入った。
のほほんとしたバニローの顔を見た瞬間、今までの疲れがドッと押し寄せてきた気がしたのだ。
だからこそ、脳の血管が切れる前に気を休める必要があると判断した次第である。
温泉水を手ですくい上げ、その触感を楽しんでいる風のバニロー。
彼はどことなくこちら側に無頓着で、それでいて確実に影響を及ぼしてくる存在と認識されていた。
まるで疫病神にでも取り憑かれた気分だった。
「そんな浮かない顔をして一体どうした? 温泉の底まで沈むつもりかい? まあまあ、嫌なことは温泉で綺麗さっぱり流しちゃいなよ……ふふっ」
「…………」
足からゆっくり湯に浸かってみる。
温度は熱すぎず、かと言って刺激が足りない温度でもなく、ちょうど良い。
そうして体を慣らしたら、次は腰、手、胸と順番に体を滑り込ませていく。
少しの移動時間と食事時間があったが、時間はまだ朝に近い方で寒さがある。そんな冷え込んだ体にジワッと熱が伝わってきて、イオは体の芯から暖められて癒されたのだった。
しばらくしてから、気持ちの良い汗が首を伝った。
諸々の疲れが一気に吹き飛んだ感覚になった。
「ここは地理的に頻繁に雨が降る場所でね、また火山地帯でもあるから、雨に侵食されていった部分が綺麗な川になる。そして、元から存在していた間欠泉と、川を伝って流入した雨水が混ざり合って、大きな温泉がアクエリアスの各地にできたんだ。
だから、貿易輸送の面でもその他の面でも、あらゆる側面から水はこの国を支える重要な資源と言える」
「へえ~」
バニローが唐突にマジメな解説を挟んできた。
正直よく聞いてなかったし、聞いてても理解には及ばない内容だったと思う。それでも、バニローが何かを真摯に伝えようとしていることは分かった。
だから、この時だけは余計な茶々を入れずに、温かく静かな雰囲気を楽しむことにした。そして、バニローも珍しいことに静かなままでいてくれた。
音のない時間は十数分も続いたのだった。
「――――あ、そうだ。お風呂から上がったら何か飲み物を買いませんか? 俺と一気飲み対決しましょうよ」
「……ふごっ」
「……ん?」
「ぐごぉ……むにゃむにゃ」
「おい起きろ! いつから寝てたんだ、死ぬぞ!」
静かな時間が長くなるのに比例して、イオがバニローの居眠りに気付くまでの時間も長くなった。
ちょっと大人しくなったと思ったのに、まさかそれが新たな問題の伏線になっていたとは。
これはイオでも脱帽して感服せざるを……いや、もう止めてくれと言わんばかりに地面に頭を擦り付けざるを得なかった。
「おい! さっさと起きてくれぇっ!!!」
「げぼっ、ごほっ……ぶくぶくぶく……」
もはや例の通り魔なんかより、無言で介抱を要求してくる現役国王の方が、イオはよっぽど厄介で恐ろしけ思えたのだった。




