29話 黒の領域
――――コツ、コツ、コツ
自分の足音だけが聞こえてくる。寮の自室へ向かう道のりは薄暗く、人の気配はなかった。
こんなところを歩いていたら刺客の格好の的になるのは間違いない。
しかし、イオは暗闇の中を進む。
「……この短時間なら、特に何も起きないよな」
イオは無事に自室にたどり着き、服を着替えた。
午前中に身に纏っていたのは作業向きの風通しの良い服で、これから着るのは半袖半ズボンのほぼ寝間着に近い軽装。
夜が近まった局内では、ほとんどの職員たちがこのスタイルで彷徨いている。
「ふぅ……」
部屋から出て、イオは闇夜に舞い戻った。
頼りない灯りに照らされる道を歩いている最中、イオの胸中には少しの焦りが渦巻いていた。
と言うのも、実はシロンに嘘をついていたのだ。
嘘をついてでもやりたかったことに、自分で勝手に焦っていたのだ。
いや、それなら焦りというより不安の方が正しいか。とにかく、イオは使命感に駆られていた。
(これから怪しい奴全員に会うつもりだからな……ははは)
これはかなり危険な賭けで、負けたら命を払わなければならないものだが、それと同時に報酬がおいしいものでもある。
と言うのも、今の管理局にはアークトゥルスやスピカを始めとした強力な魔法使いが多数揃っている。彼らと行動していれば、まず命は保証されるだろう。
ただし、犯人はイオに近付くのを止めてしまう。
最悪の場合、一度も再会せずに元の世界に帰れてしまう恐れがあった。
イオは、それだけは避けたかった。
(元々は俺が原因の騒動だ……ここの人たちに後処理を丸投げして帰れるかっての)」
言ってしまえば、この騒動から逃げるのは容易である。強い魔法使いと四六時中行動を共にすれば良いだけ。
しかし、そこで不利益を被って、更に尻拭いをさせるのは他でもない管理局の人間だ。イオではない。
もしかしたら、イオがいなくなることで無事に問題は解決するかもしれないが、逆に巻き添えをくらって傷付く人間が出てくる可能性もあった。
彼はそれだけが嫌だった。それだけはどうしても避けたかった。
(どうにかして犯人を誘き出してやる……)
シロンには「自分を頼ってほしい」と言われたが、これからその頼みを裏切ってしまう形になる。
彼女の神対応から得られた安心感が大きかった分だけ、これから約束を破ってしまうことへの罪悪感も大きく膨れ上がっていた。
しかし、イオは自分に必死に言い聞かせて、その罪悪感を打ち消そうとした。
(そう、巻き込みたくないだけなんだ……)
これが勝手な言い訳だということは分かっているが、こう思い込むことでしか作戦は成功しない。
誰にも迷惑を掛けずに、ひっそりと事件を終結させる方法はこれしかないのだ。
イオは頭の中で「もし作戦が失敗したら、シロンから死ぬほど怒るだろうな」と妄想した。
それから「もしこの作戦がバレたら死ぬほど謝らなくちゃ」とも思ったのだった。
◆◆◆
しばらく歩いたところで、暗がりの廊下を踏破した。
「やっと明るい所に出られたな……っと」
イオが寮を出て、管理局の大きな廊下に合流したところで、ある人物と出会った。
それは――――
「あれれ、イオ君だ。元気にしてる?」
管理局に来たばかりの頃に案内役を務めてくれた、あのブラキウムだった。
彼女の美しい漆黒の髪は、今は少しだけ湿り気を残していて妖艶に輝いている。恐らく風呂上がりなのだと推測できた。
それに、胸元が開いた刺激の強い服を着ていて、彼女の大人の魅力が最大限引き出されていた。
これにイオは思わずたじろいだ。
「こ、こんな所で会うなんて奇遇ですね」
「そうだね……あ、事件のことは大丈夫なの? 一人で歩き回ってたら危ないよ?」
「このくらいなら大丈夫ですよ。そうそう、俺は魔法が使えるようになったんで」
「へえ~……でも、あんまり暗い所には行かないでね。じゃあね~」
「ははは……気を付けます」
イオは足早にその場を去ろうとした。
ここからは彼が用意した作戦を実行する時間だ。
とりあえず、話したい人物は管理局内に山ほどいる。
その中から犯人を炙り出さなければならないから、一人一人に時間をかけている暇はないのだ。
「またね、イオ君」
「はい…………あっ、そうだ、ブラキウムさん」
「ん、どうしたの?」
互いに背を向けて、それぞれ別の方向へ歩き出そうとした時に、イオがブラキウムを呼び戻した。
彼はまず彼女の容疑を晴らすために、鎌を掛けることにしたのだ。まあ、彼女は調べるまでもなく白だろうが。
「この管理局って屋上があるんですよね? どこの階段を使えば行けるんですか?」
何気なく、それとなく、とりあえず聞いてみた。
自慢じゃないがポーカーフェイスは得意なのだ。表情から意図を悟られることはないはず。
しかし、質問が遅れた上に咄嗟だったので、少しだけ怪しまれたかもしれない。
でも、どうせ外れだろう。彼女の答えを聞き次第、すぐに別の人物に当た――――
「ねえ、また襲われたらどうするの? 危ない所は行かない方が良いよ」
「え?」
「……どうしたの?」
今、確実に、屋上でイオが襲われたことを知っている口振りだった。間違いない。
まだ彼は自分が襲われた本当の場所を誰にも教えていない。つまり、それを知っているということは異常なのだ。
と言うことは、返答から推測にブラキウムは――――
「ちょ、ちょっと来てください!」
「急に何なの!? は、離して……っ!」
イオは彼女の手を思い切り引っ張って、口を塞いで、近くの小部屋に強引に連れ込んだ。
小部屋と言っても、数ヶ月も使われていないような埃を被った部屋だが。
その部屋の隅に押し倒した。
「んぅ! っ、はぁっ! いきなり何なの!?」
「静かにしてください! ブラキウムさんこそ自分が何をやったのか分かってるんですか!?」
ブラキウムの首に手を添えて、腹の上に馬乗りになりながら聞き返した。焦りと恐れからか、イオの声は上擦っていた。
そして、質問に対するブラキウムの返答は沈黙だった。
まずはどうにか言質を取らないと。
これで犯人じゃなかったら、物凄く失礼なヤツになってしまう。
「どうして俺があなたを疑ってるか分かりますか?」
「さ、さあ……私は犯人じゃないのに……」
「じゃあ何で俺が襲われた場所を知ってるんですか?」
「……え?」
「俺は寮舎裏で保護されたんですよ。誰にも屋上から飛び降りたことは言ってません」
「…………そ、っか」
二人の間に沈黙が流れた。
これは黒か。
「……何で俺を狙ったんですか? と言うか、ドロフさんの捜査をどうやって掻い潜ったんですか?」
「んー、話すと長くなるかな……それで、イオ君は自分が置かれている状況を理解してるのかな?」
「え……っ!?」
イオが間抜けな返事をした時、何かが彼を殴り飛ばした。
強い力だった。しかも、その感触は人間のものではなかった。
「ごふっ!? だ、誰……だ」
殴られた箇所を瞬間的に治療した。
イオが気付いた時には、部屋中に黒い靄が充満していた。どうやら靄を変質させた物体で攻撃してきたらしかった。
抜かった。こんな状況になる前に少しは考えておくべきだった。
「ドロフでも分からなかった犯人を特定できたのは凄いね。誉めてあげる。でも、その後がダメダメ。すぐに大人に頼るべきだった……ねっ!」
ブラキウムの声を合図に、周囲の靄がイオに向かって飛び掛かった。
彼はそれを回避しようとしたが、どうしても避けきれず、悪足掻きの末に傷を負ってしまった。
イオが靄を空気と同じ感じの物質だと思い込んでいたが、どうやら魔法で作られたものは何でもアリの硬い凶器になれるらしい。
腕を掠めただけなのに、次の瞬間、そこに赤い筋が一本だけ走った。それから、傷痕に沿って綺麗に流血した。
靄が刃物みたいに固くなっている証拠だ。
しかし――――
(何度治っても慣れないな)
イオの腕に描かれた赤い線は、あっという間に消滅。見る影もないくらい綺麗に治った。
これが『不死』の恩恵だ。彼が攻撃を避けられなくても、すぐに治せるので実質的には無傷。
彼はブラキウムと互角に戦えていることになる。
「面倒臭い……でも、次は避けられないからね」
その言葉と共に放たれた黒の刃は、イオの逃げ場を完全に封鎖しつつ襲来した。
四方八方から、まるで大波のように押し寄せて来た。
まさに絶体絶命の大ピンチ。
(クソ、これはマズイ……っ!)
イオは黒の波を避けることを諦めた。
そして、全身の力を抜いてしまった。本能的に降伏してしまったのだ。
しかし、波が彼を呑み込む直前に、部屋の外から声が聞こえてきた。
絶妙なタイミングで助け船がやって来たのだった。
「イオく~ん、ど~こ~? ま、まさか襲われたりしてないよね……?」
待ち合わせに遅れたイオに痺れを切らしたのか、シロンが寮へ向かっていた。その途中で、偶然にもイオたちがいる小部屋の前を通過しようとしていた。
「……どうしよ」
ブラキウムの口から声が漏れ出た。
とても悔しそうな声で、決断を自らに迫っている焦りの声でもあった。
確かに、ここで大声を出せばイオの勝利だ。シロンが助けを呼びに行き、職員たちが集まってくるはず。
ブラキウムが悔しがるのも頷ける。
しかし、イオはそれをしなかった。
彼は廊下の方へ目を向けた後、すぐにブラキウムと目を合わせたのだった。
それを受けて、彼女は観念したかのように口を開いた。
「運が悪かった。神に見放された私の負けだね」
低く構えていた腰を上げて、臨戦態勢を解除し、部屋に充満していた靄を払ってから言い放った。
それから数秒も経たずに、イオが言葉を返した。
「黙っててあげます……後で中庭に来てください」
「……え?」
「聞こえなかったんですか? 後で事情を説明してください」
何を思ったのか、イオはそう言い残して部屋を出て行った。あまりに摩訶不思議な提案だったので、ブラキウムは目を見開いて、その場に座り込んだのだった。
彼女の視線はイオを追わず、ただ遠くを眺めていた。
「おーいシロン、こっちだ」
「うわ、どこから湧いて出てきたの?」
「俺をゴキブリみたいに言うなよ」
そうして、誰にも使われていない部屋に、茫然自失のブラキウムだけが取り残された。
しばらくしてから、彼女は暗闇の中で独り言を呟いた。
「まさか、変なことされちゃうのかな……」
イオの名誉のために先に言っておくが、彼にやましい感情は少しもない。
ただ中庭に来るように言っただけだ。




