魔王様の懐かしふんわり親子丼
ガーランド・サタニスは魔界を統べる魔王である。
強大な魔力と彼にしか使えないいくつもの根源魔法を兼ね備え、魔界中の畏怖を集める『白銀の闇』。
彼も玉座から離れて家に帰れば一人の魔族であり、父親でもあった。
そのことを知る者は、この世界でかなり限られているが。
◆
「ん、んぅ……仕事行かねば」
月陽が上り、世界が漆黒に染まる魔界の朝。
いつも通りの時間に目を覚ました吾輩は重たい頭を持ち上げベッドから出ようとする。
しかし、体を起こしたところでその動きが止まった。
「……そうだ、今日は休みを取ったんだったか」
魔族と人間が世界を分けて早数百年。
魔王が統治するこの魔界には荒くれ者も多く、たびたび衝突や問題が起こっている。
加えて魔王軍の中も一枚岩ではない。
元々魔族という種族が野心が強い種族だということもあって、気苦労が絶えない日々であった。
ここ十年でようやく安定したため、久しぶりに休みができたのだが……。
「いや不安だな」
休みだと認識した途端、落ち着かない気持ちになる。
今日は宰相に仕事のほとんどを任せる手筈になってはいるが大丈夫だろうか。
判子の場所が分からずに探していないだろうか。
「届け言ノ葉、我が意思繋げ」
思わず通話魔法を唱えてしまう。
だが、帰ってきたのは部下の事務的な声だった。
「どうせ魔王様が不安になって連絡を取ってくるのは明白なので、声を残しておきます」
「ぐ……」
開口一番、図星を突かれた。
さすが宰相。『先見の羅刹』と呼ばれるだけはあるな。行動を予想していたとは。
「仕事が忙しくて娘様ともロクに話せていませんよね。三十年ぶりの休みなんですし、仕事ではなくそちらを優先して考えてください。今日のために考えていることがあったんでしょう?」
「うぐぐ……それはそうだが」
「何かありましたらこちらからお呼びしますので。では良い休日を」
それだけ言って彼との通話はプツリと途絶えた。
もう一度繋ごうにも反応がない徹底っぷりだ。
「休み……休みか」
そう認識すると、どっと眠気が襲いかかってきた。
このままベッドの中で二度寝をするのも……いや、起きねばせっかくの計画が……。
サキュバスの魅了がごとき二度寝の誘惑に沈んでいってしまいそうになる。
──コン、コン。
吾輩の意識は、控えめなノックによって妨げられた。
ドアの方へと視線を向ける。
「……」
ひっそり開かれた扉の隙間から、吾輩と同じ蒼い瞳がこちらを覗いていた。
ミーガット・サタニア。
今年五十歳──人間で言うところの五歳に当たる彼女は吾輩の愛しい一人娘だ。
慌てて身体を起こした。
「おはよう、ミィ。月が隠れぬいい朝だな」
「眠たそう」
「今起きたところだからな。おいで」
「……いいの?」
「もちろんだとも」
手を広げれば、少しためらいながらもトテトテとベッドの端まで来て座った。その逡巡に一抹の寂しさを覚える。
今まで魔王の仕事で時間が取れなかったから仕方がないんだけれど。
でも親としてはもっと素直に甘えてきてほしいと思う。
吾輩の銀髪とは違う黒色の癖っ毛を撫でれば甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
撫でていくうちに強張っていたミィの身体が解れていく。
どこか芒洋としていて感情が分かりづらいミィだが、今日は全身で心地よさを表していた。
こんなに穏やかな朝の時間を過ごしたのはいつぶりだろうか。
「あ……」
ぐぅ、と可愛らしい音が鳴った。
ミィは恥ずかしそうに俯く。
「朝ごはんはまだ食べてないのか?」
「ぱぱと一緒に食べる」
「……そうだな。せっかくだ、一緒に食べるとしよう」
普段は吾輩の方が早くに出る必要があり、共にできる時間は周囲が明るくなった数刻の間のみ。
色々と計画は立てていたのにそんなこも忘れていた自分が恥ずかしくなる。
「ぱぱ、今日のお昼ごはんは何作るの?」
あぁ、そういえば言ってなかったか。
せっかくの休みだから、と。
今日のお昼は吾輩が作るとあらかじめメイド長には相談してあったんだけどな。
作るのはかつて『彼女』が作ってくれた思い出のレシピ。
「親子丼だ」
◆
『彼女』──吾輩の妻でありミィの母親であった女性だ。
そう、あった。
今はもう魂を冥府に魅入られ、体だけの存在になってしまった。
『彼女』の世界では死というらしい。
料理と農耕に詳しい女性で、魔王城栄養省に勤めていた彼女はコメやショウユなどといった誰も知らない食べ物をどんどん作り出し、広めていった。
その知識はまるでこの世のものとは思えない驚きと美味を魔界に与えてくれた。最初はなかなか受け入れられなかったが。
数十年経った今では魔界の食料問題を解決した大賢者とも言われている。
『彼女』に一目惚れした吾輩は何度もアプローチの末に婚姻を結んだ。
忙しいながらも時間を見つけて愛を育む日々は楽しかったし、愛おしかった。
懸念があったとするならば、『彼女』は体が弱かったことか。
跡継ぎの問題は魔王として最優先事項の一つだ。
だが、もしものことで『彼女』を失いたくはないという思いも強かった。
一週間かけて大臣や名医を集め、二人で様々な意見を聞いて。
幸せな今と未来を天秤にかけた吾輩たちは結局、未来に手をかけることを選んだ。
ミィを産んでからじわじわと体調を悪くしていった『彼女』は、三十年前のあの日に眠るように命を落とした。
仕事を必死に終わらせてきた吾輩と、自らが産み落とした命に看取られながら。
『私、この子が大きくなったら親子丼を作ってあげたいな。私がいっちばん得意な料理を美味しいって食べてもらうの』
そう夢を語ってくれた『彼女』はもういない。
故にこれは吾輩が為すべき役目。
なのだが……。
「本当に手伝わなくてよろしいのでしょうか、旦那様」
「……もちろんだとも。最初から最後までこなしてみせよう」
料理の練習もしておくべきだったかもしれない。
厨房で並べられた材料たちを前にそう思った。
コカトリスの肉と卵、オニオンに調味料各種。
『彼女』の残してくれたレシピ通りに作ればいいと分かってはいるのだ。
「お腹を壊して明日の業務に差し支えがないようお願いします」
「吾輩だって魔王であるぞ。料理の一つや二つできないことがあろうか」
「魔王と料理は関係ないと思われますが」
できないはずがないのだが……。
包丁ってどうやって持つんだったろうか。フライパンの大きさはこんなもので良かったのだろうか。
知識としてはあるんだ。何も無知というわけじゃない。
ただ今の吾輩には経験というものがとてつもなく欠如していた。
いや、いっそのこと軍勢を屠るがごとき魔法で──
「──魔王様、できれば魔法は控えていただけると。屋敷どころか魔界が消滅しかねませんので」
「も、もちろんそんなことするわけないだろう!? 吾輩一人でも魔界一の親子丼を作ってみせるとも!」
そう意気込めば、メイド長は部屋の端に下がった。
ぬぅ、魔法は使えぬか。
ならば手元の道具でなんとかせねば。
「ぱぱ、てつだう」
「ミィ!?」
覚悟を決めていると、食卓で待っているはずのミィが厨房までやってきていた。
魔法でひょいと台を作り、その上に乗る。
僕の腰ぐらいしかない小さな頭がが肩の辺りまで持ち上がった。
「危ないからテーブルで待ってなさい」
「や。ミィだってお料理できる。包丁はね、こう持つの」
愛しい娘の手は拙いながらもしっかりと包丁を握りこんでいる。
かつては僕の指を握りこむのも精一杯だったはずなのに。
「メイド長にたのんで、教えてもらってたの。ぱぱをびっくりさせたくて」
メイド長の方を見ればなんでもないような澄まし顔をしていた。
……まぁ、今回は不問にしておこう。
指を握るのにも精一杯だった愛しい娘の手は、拙いながらもしっかりと包丁を握りこんでいた。
娘に料理を手伝ってもらうなど魔王どころか親としてもどうかと思うが、今は手伝おうとしてくれるその気概こそ愛おしい。
「ありがとう、ミィ。では一緒にやるとするか」
「ん」
「だが包丁は危険だ。ミィには卵を割ってもらおう」
「んっ」
元気よく頷くミィの頭を撫でて、吾輩たちは料理に取り掛かるのだった。
◆
そして時間は経ち、テーブルに座る僕たちの前には湯気を立てる親子丼。
艶のある黄身と白身の中に鶏肉やオニオンが沈み、そのさらに下にはダシの染みたコメが輝いている。
ちょっと形がまばらだが、初めてにしては上々のはずだ。
「いただきます」
「……」
「ミィ?」
「ぱぱ、いただきますってどういうこと?」
「言ってなかったか」
「ん、ずっと気になってた」
そういえば意味自体は教えたことがなかったか。
いや、気になっても忙しそうな僕に気を遣って聞けなかったのかもしれない。
「ママがいた国の方言でな。作ってくれた人、材料となってくれた動物や植物にありがとう、という意味の言葉らしい」
「ありがとう……」
僕の言葉に、ミィは少し遠くに視線を向ける。
『彼女』の故郷の空のような瞳は、何もないはずの場所を……いや、見えないはずの何かを写しているような気がした。
ミィはもう一度手を合わせ、目を閉じる。
「まま、いただきます」
「──」
「ぱぱ?」
「いや、なんでもない。いただきます、サーシャ」
『彼女』の名前を告げる。
どこからか吹いた風が湯気を揺らし、タマゴとダシの甘い香りが鼻の奥を抜けていく。
──二人同時に、おなかが鳴った。
「よし、じゃあ食べるか!」
「ん。おなかぺこぺこ」
お椀から匙で口に運ぶ。
ふんわりとした白身と黄身が口の中で解けて溶けていく。
中に閉じこめられていたダシがじゅわりと滲み出し、口の中を甘さが満たす。
絡まったご飯は口の中でさらに溶け合い、懐かしい味わいを奏でていた。
「おいしい……」
「もちろん。サーシャ秘伝のレシピだからな」
魔王の舌をも蕩かせ、魔界にもその名を轟かせたサーシャの料理だ。
今は書籍となって民間にも出回っており、もちろん吾輩の書斎にもある。
「ままのレシピって、他にもある?」
「気になるか」
「ん」
「では今日の夜にでも部屋に来るといい。出しておくとしよう」
「ありがと、ぱぱ」
穏やかな昼が過ぎていく。
それは永遠を望みたい、されど不可能である貴重な時間で。
頑張ろう、これからも。
魔界を統べる一人の魔王として。
そして務めよう、これからは。
彼女を愛するたった一人の父親として。
その成長を一時たりとも見逃さないように。
食べ終えたお椀を前に、心の中でそう誓った。
この後めちゃくちゃ遊んだり抱きしめたりした。