三日目3
この町には、電車が二本通っている。その路線は、小文字のxと言うよりは、野球のボールの縫い目に似ているだろうか。町の東側を通るのが私鉄、西側がJR。ただし、この辺りではいまだに国鉄と言う呼び名のほうが一般的だ。
その最も近寄った部分に、双方の駅がある。その距離は100mほど。乗り入れていないのは不便だと、町の住人からはいつも文句が出ているが、二つを繋げられるような土地の余裕はないし、その為だけに100mだけの路線を引くわけにも行かない。その二つの駅を結ぶ道は、町の中心街になっていた。この町で何か欲しいときはまずここにくる、というのが住人達の習慣になっていた。当然、町の中で最も人通りの多い場所である。
と言う説明を緑がしていたが、僕はろくに聞いてはいなかった。考えていたよりも、ずっと人が多かった。思わず、腰が引けてしまう。
今までなら、真っ先に避けて通っていただろう場所。でも、今は敢えてここにいる。自分ひとりなら、こんな所には間違いなく近付いたりしないだろう。
確かにこの中になら、彼女がいてもおかしくないような気がしていた。この中に彼女が居るかも知れない。それだけが、ただ僕をここに止めていた。実際、彼女と同じくらいの年齢の女の子もかなりの数行き来していた。
ひとりだけで、何か買い物をするのが目的だろう女の子。友達と一緒にただ遊びにきただけだという事が一目で分かる女の子。春休みなのに何故か運動着にブルマ姿の女の子。よくよく見てみると、凄い髪形をしている。あ、転んだ。
そして、当然、カップルもいる。お互いの瞳を見詰め合い、心の底から本当に幸せそうに微笑い合う。
今までならまず間違い無く、横目で冷ややかに眺めるだけだったはずのその光景が、今は何故か心を引き付ける。そんな様子を、ただぼーっとながめていた。多分、馬鹿みたいな表情をしてたんだと思う。気が付くと、緑が横から顔をのぞき込んでいた。
「・・・大丈夫、兄ちゃん? ぼーっとしちゃってさ」
少しだけ心配そうな表情。多分、僕が通りすがるカップルをみて何を感じていたかなんて、こいつにはまだ分からないだろう。女の子の事を考えているより、サッカーでもしている方が楽しいくらいの年齢。
「恋しい彼女の事が気になるのは分かるけどさ、兄ちゃんがしっかり見ててくんなきゃ、見付かりゃしないんだぜ」
そう言ってけけけと笑う。本当に表情がくるくる変わる。
「そうだね」
興味なさそうにそれだけ言って、また通りに視線を向ける。行き交うたくさんの人達。他人をこんなに観察したことなんてなかった。
少し息苦しい。でも、何だかほんの少し、・・・本当に少しだけ、楽しい気がする。行き交う人々は、雑踏という名の単体では無く、人という名の複数なのだ。内容は一見同じに見えて、でもそのひとつひとつは皆微妙に違う。
「でもさ、その彼女って、そんなに思い込むほど可愛かったの?」
緑がこちらを見詰めている気配。やはり、慣れない。他人に注目されているという事実に。その緑の視線に出会わないように、僕は緑のほうを見ずに口を開いた。
「確かに、可愛かったことは可愛かったけど・・・ね」
透けるような白い肌、栗色の髪、底を見せない深い瞳。確かに、彼女は可愛かった。でも、正直言ってしまえば、飛び抜けて可愛いという訳では無かった。実際、彼女より可愛い子は、目の前を通り過ぎていく女の子達の中にもほんの少しだが、いた。
僕が彼女にこだわる理由は、外見なんかじゃない。その淡い、今にも消え失せてしまいそうな感じ。それが僕の目を引いたのだ。
「んー・・・なぁるほどねぇ。儚げな美少女かぁ。流石だね、あんちゃん。良く分かってる。やっぱり女の子は守ってあげたいタイプじゃないとね」
なにやら緑はひとりでうんうんうなづいている。とりあえず放っておくことにした。
「とは言えさ、髪が茶色で肌が白いくらい、つーことは、目立った特徴はないって事か。探すの大変そうだなぁ」
言いにくい事をずけずけと言ってくれる。もっとも、この素直さも緑の良いところのひとつなのだろうと、わかってはいるが。
でも、実際に見付けにくい事は確かだ。名前も分からないじゃ、例えそうかも知れないという相手がいても、僕が直接確かめるしか方法がない。ハーフかも知れないとも思うが、確実では無い以上、そうだと限定して探すのは危ないだろう。
「さっきも言ったじゃん、おれって割りと勘鋭いんだよ。だからあんちゃんが探してるって彼女さ、何つーかこの辺りにいる事はなんとなく分かるんだよな。でも、詳しくここだっ、ていうとこまでは、さすがに無理でさ」
緑の脳天気さに思わず苦笑する。そんな怪しげな事で、ほいほい分かる訳がない。
「そーだなー、おれの勘だと、あんちゃんの捜し人は・・・」
そういうと、緑は瞳を閉じて右手の指先を額の辺りに当てて、何やら考え込むような格好になった。もしかしたら本人は何かを探っている格好のつもりなのかもしれないが、それは、見ようによっては考え過ぎて知恵熱を出した子供のようでもある。
緑は、しばらくそのままの格好で、右を向いたり左を向いたりしていたが、やがて楽しみにしていたテレビ番組を思い出したような表情になって、大きくひとつうなづいた。
「こっちだ」
いきなり一方を指差すと、返事も聞かずに駆け出した。そりゃもう凄いスピードで。僕の事なんてお構いなしに。
やがて、一軒の店の前で止まる。その頃には、慌てて追いかけた僕の息は上がり切っていた。もともと、体を使うことなんて、数多い僕の不得意の中でも間違いなく二番目にはなる。体育の授業などでも運動音痴が知れ渡っているのをいいことに、真面目に走ったことなんて無い。全力で走ったこと自体、もう十年ぶりくらいにはなるだろう。
「あんちゃん、ここだよ、ここ」
言いながら、緑はその店を指差した。『共栄館』と看板が出ている。感じ喫茶店かレストランといった風情だ。
「間違いないって。ここにいる。賭けてもいいぜ」
自慢そうにそう言う。彼女のことにかこつけて、何か食べよう、それも僕にたかろうという腹積もりなのだろう。僕のその呆れたような視線に気付いたらしい。緑がぷうっと膨れた。
「んーだよその目は。ま、いーや。とりあえず入ってみりゃわかるって。な」
僕の返事も待たず、勝手に店に飛び込む。でも実際、この程度の事は他人に頼ろうと思った時点で覚悟の上だったし、変な要求をされるよりは、かえって安い。それに、僕も朝ほんの少し食べただけで、なんとなくおなかも空き始めていたところだ。軽く何か食べるのもいいかも知れない。
仕方なく、緑を追ってその店に入ろうとした、ちょうどその時だった。
ぞくり、と何か冷たいものが背後から忍び寄って来るのを感じたのは。
一瞬にして、体が硬直する。動けない。体が動かない。自分の意思では、指一本とて動きはしない。なのに、何故か・・・自分の意思とはまったく関係無く、体は後ろを向こうとしていた。まるで、何かに魅入られでもしたかのように。まるで、体を・・・あるいは、体を動かしている心ごと、誰かに乗っ取られてしまってでもいるかのように。
かなり年代がかったデザインのスーツ姿。しっかりと糊の効いたシャツにシルクのネクタイ。見ただけで、相当な高級品だということが素人目にもわかるくらいの最高級品。しかし、それだけならば珍しくはあっても別段不思議でも無いだろう。
その人は、余りに美しかった。いや、本当に人間なのだという確信がもてないほどに美しかった。男性にも女性にも見えるけれど、同時にどちらにも見えない。どちらだと言われてもそうかもしれない、と思う一方で、それは違う、と思ってしまう。男性でも女性でもない。すでに人間には見えない。それ程神々しい、あるいは禍々しい、近付きがたい程の美しさ。まるで人ならざるものの手で丹精込めて作られた、最高の芸術品のような無機質さ。冷たい、と言うよりはいかなる表情をも映し出してはいない、他人を寄せ付け無い瞳。見るものに恐怖をすら覚えさせる。その人に近付くためなら、そして近付かずに済ませられるなら、人はどんなことだって出来るだろう。
こちらに近付いてくる。通りを、こちらに向かって歩いてくる。周囲の人々は、注目こそしているが、別段変わった様子はない。
何故。
この人を見て、何故平然としていられるのだろう。何故、全力で逃げ出したくなる衝動を覚えないのだろう。足が動きさえしていれば、今すぐにでも逃げ出しているのに。瞳が動きさえすれば、すぐにでも視線を逸らしているのに。
「何やってんだよ、あんちゃん。さっさと入ろうぜ」
緑の声。ふっと、呪縛から解き放たれる。かかっていた重圧が抜け、体が軽くなる。いや、体を無理やり引き上げていた重圧が抜け、急に自分の体の重さを思い出したという方が近い。
体にかかっていた圧力は抜けたけれど、吊り上げられていた体が不意に降ろされた感じ。膝ががくがくいっている。足に力が入らない。足が、体を支えるためにあると言う事すら、長い間忘れてしまっていたような気がする。
「何? どーかした?」
緑の脳天気な声が、まるで別の世界の出来事のように思える。魅了は解けていたが、堪え難い恐怖は今だ全身を支配していた。その間にも、その人・・・人では無いのかもしれないが、こちらへとやってくる。その視界に僕が入っている訳では無いのだろうが、それでも、その恐怖感は拭い切れなかった。
「あれ、形代のだんなじゃん。んーでも今日は日曜だよな。珍しいの」
余りのギャップに、くらくらする。だんな、とか呼んでいい存在なのだろうか。と言うより、あの人をつかまえてだんなとか言ってしまう緑の神経が信じられない。
「よっ、だんな」
緑がてってっ、といった歩き方で近付いていく。その様子は余りにも無防備だった。恐怖などは感じないのだろうか。僕は、恐怖の余り立っていることすらやっとだと言うのに。
でも、よくよく考えてみれば、緑はもともとこの街の住人だ。あの人を見掛けることもたびたびある筈だし、あの様子では顔馴染みでもあるらしい。少なくとも、緑にとっては危険な相手では無いのだろう。
少しだけ、落ち着く。周りの人達も、少なくとも恐怖におののいている風ではない。最悪でも、すぐにどうこうなる類いのものでは無いらしい。緑がこちらに向かって手をぶんぶん振っていた。恐る恐る近付いて行く。
無表情、というよりも、感情があると言うことすら感じられない瞳。冷たさが全身を覆っている。いや、恐らく冷たいのではない。死体に触れて冷たいと思う感覚。気温と同じならば別段冷たい訳ではない筈なのに、実際人間が持っているべき体温が感じられない冷たさ。氷の冷たさと言うよりは、金属の・・・あるいは、陶器の冷たさ。
「紹介するよ。こっちだんなこっちあんちゃん」
やっぱりこいつ状況がわかっていない。だが、いちいち相手をしていられるだけの余裕もなかった。もはや眼前、手を延ばせば届く距離にいる。逆に言うならば、手を伸ばされればつかまってしまう距離。
怖い。いつも感じている、他人を怖いと思う気持ちなどではない。怖いなんて物じゃない。純然たる恐怖。
「は・・・はじめまして」
震える舌で、なんとか言葉に聞こえるものを吐き出す。こういう時は、頭を下げるなり、右手を差し出すなりすべきなのかもしれない、という考えが頭をよぎる。
そんな事、できる訳ない。こうして向かい合っているのだってやっとなのに。ましてや、この人の体に触れるなんて。
「宜しく」
相手は、緑が形代と呼んだ人は、微かに微笑みを浮かべた。唇の端を上げ、瞳を微かに細めただけの微笑み。顔の筋肉はほとんど動いていない。けれど、優しい微笑み。恐怖をすら感じた後のその表情に、一瞬だけ気が緩む。この人の全てを受け入れてしまいたい気分になる。
でも。あえて否定する。さっきまでのあの無機質感。あの無表情さは演技などで表現できるものでは無い。ならば。あの無表情が嘘でないのならば、この表情が嘘なのだ。
この形容できないほどに印象的な微笑みに、少なくとも今は身の危険は感じてはいない。
でも。
だけど、この人にあまり近付いてはいけないと言う感覚だけは消えなかった。この微笑みが嘘なのなら、この微笑みが作られたものなのならば、それは裏に隠さなければならない何かがあると言う事なのだから。
「そ・・・それじゃ」
慌てて踵を返すと、僕は不審がられないように、走り出したりしないように、歩き始めた。もっとも、不審がられてしまうくらいの早足になってしまっている事には、自分でも気付いていたけれど。
「あ、あんちゃんちょっと待てよ。じゃあだんな、さやねぇちゃんに、近いうちにまた行くからって言っといて。だから待てっつってんだって!」
後ろで緑ががなりたてる。でも、それどころでは無かった。この不安感、恐怖感から逃れられるところまで、逃げなくてはいけない。少なくとも、心の安定が保てるようになるまで、逃げ続けなくては。
行き交う人々の雑踏と、喧騒から背を向けて、僕は逃げ出した。
・・・今までと、まったく変わらずに。