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月桜  作者: 未田 尚
8/22

三日目2

 公園に戻ってくると、もうそこには誰もいなかった。地面には竹ぼうきの跡。掃除が終わって、もう帰ってしまったのだろう。

 安心して腰を下ろす。あれからまだ30分とは経っていないのに、辺りは少し明るさを増していた。なのに、空はまだ紅くも蒼くも染まっていない。

 ああ、そうか。ふと気付く。雲が空一面を覆っていた。それはそうだ。この街にだって曇りの日はある。ここ何日か晴れが続いたと言う、ただそれだけの事なのに、何故かこの街の空は何時でも晴れの日しかないような錯覚に陥っていた。そんな筈はないのに。

 曇り空。何だか心がもやもやする。何だろう。何故だろう。薄暗い雲が、標高のせいか、妙に近くに見える。屋上で見ていたただ薄汚い雲とは違って、何故か微妙な色の入り交じった、水墨画のような繊細さだった。

 もう、何日も通い詰めた公園。もう、顔も覚えられてしまうほどに通い詰めてしまった公園。そのせいで、もう幾度も声を掛けられてしまった。でも、何故かここを離れられない。

 何故? 今までならもう二度と、少なくとも忘れ去られるくらいまでは近付かないでおこうとしているはずなのに。

 確かに、ここは居心地がいい。人込みから外れ、あまり人もいない。たまに声を掛けてくる物好きを別にすれば、自分に関心を持とうなんて人間もいない。このさびれた公園では、その物好きも、もうそれ程は居はしないだろう。

 いや、この公園に長居をしてしまっているのは、なにも居心地が良かっただけではないだろうと思う。

 そう、多分待っていたのだ。

 彼女を。

 会いたい。でも、会いたくない。

 実をいうと、彼女ともう一度会うのが、怖かった。しょせん、彼女も今までに出会った他人たちと同じ、薄汚い人間に過ぎやしないさ、と鼻で笑う自分がいる。でも、その一方で、それでももしかしたら、彼女は他の他人たちとは違うのかも知れない、僕に、・・・今までずっと心の底で、諦めつつも求め続けていた何かを与えてくれるかも知れない。

 そう希望を持ち続けている。そんな筈はない、今まで見付からなかったものが、不意に目の前に現れる筈がないと否定しても、その後には必ず、でももしかしたら、と続いてしまう。

 しょせんは裏切られるだけだとわかっているのに。それに、もし万が一彼女が「もしかして」のその通りだとして、どうなる? 次に会った時も、初めの時のような事になるのは分かり切っていた。何を言えばいいのか、どうすればいいのかわからず、ただうろたえるだけの不様な姿を晒すのは火を見るよりも明らかだった。しょせん、その程度の男なのだ。

 僕なんかが、今までも出会えさえしなかったような、そんな女性と釣り合う訳がない。僕なんかを相手にしてくれる訳がない。だから、彼女とは会いたくない。彼女でなくても同じ事だ。他人と向き合った時、どうすればいいかわからない。誰かに会う事が、関わる事が怖い。だから、彼女に限らず、誰とも会いたくない。でも、心のどこか隅のほうで、何かを期待している自分がいる。もしかしたら、彼女とまた会えるかも知れない。僕に何かを与えてくれるかも知れない。

 僕を・・・救ってくれるかもしれない。

 ひと目見掛けるだけでいい。いや、ひと目見掛ける以上にはなりたくなかった。その時にどうなってしまうか分かっていたから。

 何を考えているんだろう、と自分でも思う。僕が自分から誰かに会いたいと思うなんて。誰とも会わない、誰にも関心を持たれない。それが一番の望みだった筈なのに。

 騒がしさにつられ、目をやる。いつの間にか、いつもの子供達が集まってきていた。もうバスケを始めている。普段なら、自分とは関係ないとしか思えないだろうその喧騒も、今はなんだか有り難い。あの騒ぎが耳に入って来ている間は、考えもあまり複雑な事にはならない。それだけ、彼女に会いたいという気持ちも、彼女に会ってしまうかも知れないという恐怖も薄らぐから。

 ぼんやりと桜の木にもたれかかって空を見上げる。初めて見た時よりも、もう目でわかるほどに綻びた桜の蕾が、風に揺れていた。それが花になるのもそれ程後の話ではないだろう。

「へい彼氏ぃ、何やってんのぉ」

 ひょこっと横から顔が突き出され、視界が遮られた。思わずぎょっとして、そちらに目を向ける。

 見覚えがあった。昨日、同じ様にここで、同じ様に僕の顔を覗き込んでいた。この公園でずっと子供達と遊んでいた中学生。所々切れ目の入った洗い晒しのGパンをはき、タンクトップの上に直にGジャンを羽織っている。足元はナイキのスニーカーだが、かぶっている帽子はアディダス。良く分からないコーディネイトだが、何故か旨く着こなしている。僕を見詰める意志の強そうな瞳が、いたずらっ子の様に輝いていた。こうしてよくよく落ち着いて眺めて見ると、顔立ちはかなり整っていて、多分かなりもてるのだろうと思わせる。ただ、女顔なので、もてるのは女の子にだけでは無いだろうが。そこに、昨日と同じ様に人懐こい笑みを浮かべている。

「ね、昨日のあれ、さ。どう? まだ痛い?」

 あまり心配そうではない表情でそう言う。僕の顔で大体の事は分かっているのだろう。

「ん。もう何ともない」

 ちょっと面倒になって、目を閉じる。風が梢を鳴らすさやさやという音が聞こえてくる。曇りだというのに、風がなんだか暖かい。もうすっかり春だな、と思う。春なのに何故か気持ちがいい。隣に腰を降ろす気配。どうやらここから立ち去ろうという気はないらしい。でも、何故だかあまり気にならない。

「ね、兄ちゃんさ、ここ2、3日、ずっとここにいたろ。人待ち顔っての? なんか誰か待ってるって感じだけどさ、三日も待ってるなんてただごとじゃないんだろ」

 少し、沈黙。実際、自分でも考えあぐねていた。僕は、どうしたいのだろう。どうすればいいのだろう。何故ここにいるのだろう。

 本当は、分かっていた。ここに、ただぼーっと座っていただけで、ずっとその事だけを考えていた。本当は、分かっていた。ただ決めあぐねていただけだと、本当はずっと前から分かっていたのだ。

 でも、それを口に出してしまうと言う事がどういう事か、わかっているから。今までの自分を、自分の選んできた生き方を否定する事だから。だから、僕は沈黙を守っていた。それを口にしさえしなければ、今までのままでいられるのだから。

 でも、それでも口を開く。何故か。

「待ってる、か。・・・そう、多分その通りだと、思う」

 そう言いながら、目を開ける。そいつは好奇心に溢れた、でも真剣な表情でこちらを見詰めていた。もう、言い訳は効かない。今言葉で、僕は前に進むか、避けて逃げ出すかの選択をしなければならなくなった。彼女を視線に据えて、彼女を中心に行動しなくてはならなくなった。今までのように、目隠しをして風の吹く方へふらふらと歩いて行く訳にはいかない。でも、何故か僕の心の中には、春の暖かな風が吹いていた。

 多分、生まれて初めての。

「ふぅん?」

 よくわかっていないような、何となくわかっているような表情で、そいつは首を傾げた。

「要するに、とりあえず誰か待ってるってことだろ? それって、やっぱり女の子だよな?」

 瞳をきらきらさせている。馴れ馴れしいけれど、人懐こい笑顔でなんだか許せてしまう。得な性格だ。

「んで、どんな女の子? 背ぇ高い? 年は? やっぱり可愛いんだよな、な?」

 矢継ぎ早にしゃべくる。こちらが口を開く間もない。僕の咎めるような視線に気付いたのだろう。

「いやさ、兄ちゃんが余りにかわいそうだったもんで、ついね。オレ、緑ってんだ。三日待って来ないのにまだ待ってるって事は、相手の家も知らない、ってー事だろ。迷惑じゃなきゃ、兄ちゃんの人探し手伝ってやるぜ。オレこの町のもんだし、こう見えてもわりと顔は広い方だし。役に立てると思うけど」

 しかし、本当に良く喋る。それに良く笑う。ここまででも随分ころころと表情が変わっている。見ていて飽きない。確かにこれなら顔も売れるだろう。人生を楽しんでいる類いの人間。僕が月に属するとするなら、太陽に類する人間。まったく性質の違う相手。こういう事態にでもならなければ、決して関わりを持ったりはしないだろう。

 でも、僕は決めてしまっていた。進むか逃げるか、二つにひとつ。でも、逃げるくらいなら、最初から決めないでいただろう。曖昧なまま、自分をごまかし続けたまま。

 でも、僕は認めてしまった。自分がどうしたいと思っているのか、自分が何をしなければならないのか。

 でも、僕ひとりではどうしていいのかわからない。誰かに会いたいなどと、相手が何処にいるのか知りたいなどと思ったのは、生まれて初めてなのだから。僕一人ではまず間違いなく見付け出すことはできないだろう。探さなければならないという選択が決まっているのならば、協力してくれるという申出に、僕には選択の余地はない。

 勿論、こいつが見ず知らずの僕に協力しようなんて、何か目的があるに決まっている。でも、こういった人生が楽しくて仕方がないといった類いの人間にとって、一番の目的とは、大抵は娯楽だろう。他人を楽しませてやるなんていうのは好きではない・・・というか、本当は嫌なのだが、それで何か実害があるという訳でもない。結果としてこいつが楽しむというだけならば、実質無料と言う事だ。僕にとって損ではないと思う。

「でもさ、三日も待ってて一度も会えなかったんじゃ、いつもここ通るって訳じゃないんじゃないかな」

 そう。僕にはもうできることは無かった。誰かの手を借りでもしなければ。ここで待っているだけではいけないのかも知れないと思っていたから。もしかしたら、ここにこうしていても無駄なんじゃないか、と。

 僕には時間が無かった。春休みが終わる前に帰らなければならない。それには、残った時間は幾日も無い。次の連休、例えばゴールデン・ウィークにでもまた来るとしても、その時にまた会えるとも限らない。何より、そんなに待たなければならないのだとしたら、あの現実感の無さが僕の中で大きくなりすぎて、多分、僕には彼女に会う勇気が無くなってしまうだろう。彼女が現実の存在では無かったのだと、そしてその事を実感するだけなのだと、そう思って気後れしてしまうだけだろう。

「それよりさ、もっと人通りのある所の方が良いんじゃないかな。その娘の事、知ってる奴がいるかもしれないしさ。それに、オレの勘が言ってるんだよ。他んとこに行けってさ。言ったっけ。オレさ、そういう事結構鋭いんだぜ」

 そういうと、緑は、にこっと笑った。

「じゃ、行こうぜ」

 そう言って飛び起きる。一秒もじっとしていられない、といった様子で。多分、そういう質なのだろう。

 僕も慌てて立ち上がる。何処に行こうと言うのかわからないが、僕ひとりではどうしていいのかもわからない。緑は僕のことなど気にもかけず、もう公園を出てしまっていた。後を追いかけて、ふと、立ち止まる。桜の梢の揺れる音に、後ろを振り返った。

 もちろん、誰も居はしなかったけれど。

 でも、昨日のあの女性が、あの微笑みを浮かべながら手を振っているような気が、何故か、した。

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