二日目
まだ、太陽は昇り切ってはいなかった。
なのに、僕は何故かあの桜の下に立っていた。
辺りを真っ紅に染めて、それでもまだ下の端を山の裾野あたりに引っ掛けたままの太陽。ここは周りを山に囲まれているせいで日が登るのは決して早い時間ではないけれど、それでもまだ街が起き出してくる時間ではない。
なのに、何故か僕はここに来てしまっていた。はっきり言って、まだ外に出る理由はまったくない時間。と言うよりも、外にいれば不審がられてかえって目立ってしまうような時間。なのに、何故か僕はここにきてしまっていた。
何をするでもなく、ただ立ち尽くす。遠目に見ると、神社の境内には巫女姿の女の子がひとり。どうやら、境内の掃除をしているらしい。
ふと足元を見てみると、むき出しの土の上に箒の跡がある。この辺りはもう終わった後なのだろう。ならば、少なくとも掃除のためにここに来ることはない筈だ。
少し、安心する。でも、こんな所に立っていたのでは、余りにも目立ちすぎる。そう思って、とりあえず座ってみた。あまり変わらない気がした。でも、視界に入りにくい分、少しはましだろう。そう思うことにする。
とりあえず、空を眺めてぼーっとしてみた。日が昇ったばかりだけれど、実際は山の陰に隠れて顔を出していなかっただけだ。だから、空はあの真紅の光はもうすでに拭い捨て、すでに蒼く染まっていた。そう、あの時のあの瞳のように。抜けるような高い空。底の知れない深い湖のような瞳。すっ、と一陣の風が公園を吹き抜けていく。もう四月に入ったとはいえ、初春の、しかも早朝の風はまだ冷たかった。でも、それがかえって心地いい。
春という季節は嫌いだった。春は暖かいから。春は、冬眠していた動物達が目を覚ます季節だから。春は、出会いの季節だから。春は、何故かみんな楽しそうに見えるから。だから、冬の北風は好きだった。誰も、自分から進んで外に出ようとはしないから。自分の事に精一杯で、他人の事になんて気を配らないから。冬という圧倒的な恐怖に怯えて、皆小さく縮こまり、気休めにしかならない建物のわずかな陰に逃げ込んで、ただ震えているだけだから。
不意に、騒がしい声が聞こえてきた。
はっと我に返る。子供達の集団がやって来ていた。おそらく、昨日いたのと同じ子供達だろう。幾人か、見覚えのある顔が混じっていた。
どうしようか。子供達が何かに夢中になって、こちらに気が向きそうもないくらいになるまで、どこかに行っていたほうがいいだろうか。
でも、なんとなく動きたくない気分だった。面倒臭い。目を閉じる。寝たふりを決め込むつもりだった。いや、どちらかと言えば、実際に眠かったのかもしれない。昨日は遅くまで外を歩いていた上に、なんとなく寝付けないでいた。そして、今日は何故か朝早くからこんな所にいる。寝不足になっていてもおかしくはない。
うつらうつらと重くなってきた瞼をなんとか持ち上げてみると、子供達はもうサッカーを始めていた。確か、昨日は野球をしていた筈だ。じつに節操がない。どうでもいい事だが。でも、少なくともあと暫くはこちらに気が向く心配もないだろう。
安心すると、なんとなくそちらに気が向く。ほとんどが小学生だろう中で、一人だけ、明らかに中学生だと分かる子がいた。この中では、多分中心的な存在なのだろう。他の子供達の倍くらい走って、倍くらい騒いでいる。なんだか、すごい騒ぎになっていた。その中学生が騒ぐのにひきずられるように、他の子供達も余分に騒いでいるようだ。頭の血管の二・三本は切れかねない勢いだった。その子供独特の感性にちょっとついて行けなくて、ぼくは溜息を吐く。
斜めに空を見上げた視線をほんの少し上げるだけで、視界は桜の枝で覆い尽くされてしまう。その桜の蕾は、昨日と比べればほんの少しだけ綻んでいる筈だ。もっとも、それは見た目では分からないけれど。昨日と同じ様に、頭上は木肌の色が混じった桜色に染まっている。桜をこんなにじっと眺めることなんて、もう何年も無かった事だった。毎年、同じ様に咲いていた筈なのに。その枝と蕾の間をかいくぐって、陽の光りが差し込んでいる。
優しい光が、瞳に飛び込んでくる。
この光の中で、彼女と出会ったのだ。この桜色に染まった光の中で。桜色の天井の下で。空は淡いブルーに染まり、その中を真白な雲が穏やかに漂っていた。少し冷たい、でも何故か暖かい風にその髪をなびかせながら。
桜なんて、陽の光なんて珍しくもないのに、何故か、とても新鮮な気がする。多分、桜に、春の陽の光の熱に浮かされているのだろう。嫌いな筈の春の陽射しが、今日は何故かとても暖かかった。
周り中がきらきらと輝いていた。
そう、世界中がくらくら・・・
「だいじょーぶかー。おーい」
一瞬、なにが起こったのか分からなくなる。どかんだか、べこんだか、とにかく何か音がしたような気がした。それから、側頭部辺りに激しい衝撃。
「あ、動いた」
子供の声がする。
「おっけーおっけー。だいじょーぶ、生きてるー」
さっきの声。次第に視界がはっきりしてくる。のぞき込んでいる子供達の顔。多分、サッカーをしていた子供達だろう。その背後には桜の枝と、その隙間からのぞく、紺碧の空。
どうやら仰向けに倒れているらしい。頭がくらくら、というか、がんがんする。とくに、側頭部。さっき衝撃を感じた辺り。
「あー、まだ起き上がらない方がいいよ」
子供達の中のひとりが言った。さっき見た、一番騒いでいた中学生だと、その頃になってようやく気付いた。
何時の間にか、僕は子供達に取り囲まれてしまっていた。
「・・・ごめん。ひとりにしておいてくれないか」
言った僕の口調は、自分の記憶の中にあるものよりも、ずっと優しかった。他人が側にいて、話しかけられているというのに、何故かそんなに嫌じゃ無かった。
「・・・別に、良いけどさ」
それでも、普通よりはずっと冷たいはずのその言葉に、怒った様子も傷付いた様子もなく、そいつは屈んでいた身を起こした。他の子供達も、それに倣う。
子供達に占有されていた視界が開ける。一昨日初めて見たのに、もう見慣れた桜の天井。風が、寝転がったままのシャツの襟を揺らしていく。桜の枝がざわざわと揺れ、木洩れ日がそれに合わせて動いていく。揺れ動く陽の光に照らされ、僕は目を細くした。
世界が、きらきらしていた。
「暇なんだったらさ、一緒にサッカーやんない?」
ふと気付くと、まわりにはその中学生しかいなくなっていた。視線を移してみると、他の連中はもうすでにサッカーに戻っているらしい。
「ごめん。体を使う事とか、好きじゃないんだ」
これも、自分でも意外だった。いつもなら無視するか、一言二言言い訳して、直ぐに逃げ出している筈なのに。
僕の言葉を聞いて、そいつは少しだけ、残念そうな表情をした。
「そっか。ま、無理にとはいわないけど、さ」
なんとなく歯切れの悪い言葉に、そいつの方を見る。まだ、何か言いたそうな表情だった。上半身だけ起こして、そいつのほうを向く。
「あのさ、ちょっと、聞きたいんだけど・・・」
そいつが、ちょうどそう切り出した時。
「おーい!」
え、という表情でそいつが振り向く。
どかんだか、べこんだか、とにかく凄い音がした。ああ、なるほど。さっき聞いたのも、この音だったんだ、と納得する。
「(お好きな言葉を入れてください)」
良く分からない擬音を吐きつつ、そいつがふらあーっ、と倒れる。その後を追うように、一度天高く舞い上がったボールが地面に落ち、転々と転がった。そいつの顔面に、五角形と六角形が並んだボールの跡が、くっきりと刻まれている。
「あぶないぞー」
いいや、もう危なくはない。
「てーめーえーらー」
暫くそのままの格好で地べたに寝転んでいたはずのそいつが、両手を使わずにむくりと起き上がった。映画で死体が起き上がるのと同じ感じだ。
「あっぶねぇだろうが、ぼけぇ!」
傍らに転がっていた、自分の顔面を強打したボールを引っ掴むと、そいつは子供達の方へと突っ込んでいった。
そいつに追いかけられた子供達が、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。辺りは蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。それでも公園から出て逃げる奴はいない。そいつも本気で怒っているのでは無かっただろうし、皆、この状況を楽しんでいるのだ。話し合った訳でもないのに、皆の中に暗黙の了解が出来上がっている。鬼の役のそいつは本気でやらない。逃げる役の他の子供達は、公園を越えていかない。相手がそう決めたのだという事が、お互いに分かってしまうくらいに、この子供たちは通じ合っているんだ。
なんだか、無性におかしかった。こんなに心から笑った事なんて、今まであっただろうか。事を荒立てない為の、他人に併合する笑いなら得意だった。でも、楽しいと思って笑った事なんて、今までにあっただろうか。頬に何かの感触。掌で拭って、ようやくそれが涙だと気付く。泣きながら、涙を拭いながら、何故だか分からないままに涙を流しながら、僕はただひたすらに笑っていた。
「くすくす・・・」
直ぐ近くで起こった笑い声。不意をつかれて、そちらに振り向く。
桜の木の根元に、ひとりの女の人が両足を揃えて腰掛けていた。さっきまで、僕が腰掛けていた辺り。つい今まで、誰もいなかったのに。
「こんにちは」
多分、相当驚いた顔をしていたんだろう。その女性は、僕のほうを向いてもまだ微笑み続けながら、挨拶してきた。慌てて、拭い切れていなかった涙を拭う。ここにきてから、なぜか泣いてばかりいるような気がする。今までは、どんな事があっても、涙を流したことなんてなかったのに。
そこにいるのは、僕と同じか少し年上位の女性。少し控え目な柄の着物が、どちらかと言えば活動的な感じのその女性に、何故かよく似合っていた。
「懐かしいな」
その女性が言う。その時には、すでにその視線はこちらを向いてはいなかった。
「え・・・?」
警戒心よりも、好奇心が勝った。立ち上がろうとしていた足が止まる。今日の自分は、どうかしていた。初対面の女性の、他人の話を聞きたいと思うなんて。
「私にも、あんな風にして遊び回っていた時期があったんだなーっ、て」
こちらをむいて、にっこりと微笑む。
身体はまだ緊張していたけれど、その笑顔で警戒心は消えていた。いけない、と思う。笑顔を見せたくらいで他人を信頼してはいけない。他人の笑顔には、必ず何等かの理由があるのだから。
もっとも、この笑顔には、母親の、あるいは・・・自分のそれのような邪気は感じなかったのだけれど。
「このくらいの子供って、いいよね。無邪気で」
どういうつもりなんだろう。見ず知らずの他人に、こんなに気軽に声を掛けてくるなんて。自分で言うのもなんだけど、僕は話し掛けたくなるような美形という訳でも、そうしたくなるような雰囲気を持っている訳でもない。今まで、努力してそうなるようにしてきたのだから。
「私ね、ここで人を待ってるの」
いたずらそうに笑って、僕の瞳を覗き込んでくる。どきっとした。まるで、僕の心を読んでいるようだった。
「何時来るか、わからないんだけどね。時間に適当な人だから」
はーあと溜め息をつく。少しだけ、芝居掛かった仕種。本当に憂欝だという訳ではなく、多分、僕に見せるための演技。
「あなたが待っている人は、何時来るの?」
くすくす、と笑う。心を読んでいるかどうかはともかく、この女性は少なくとも、一昨日のことを知っているのだ。僕が彼女を待っているなんて事が、まったくの的はずれだったにしても。
「・・・僕は、別に誰かを待っている訳じゃないから」
言ってから、なんとなく気まずい気がして、僕は視線を逸らした。
また、くすくすという笑い声がする。
「じゃ、なんでここにいるの? 行くとこが無いんだったら、家にいればいいんじゃないの?」
「・・・今は、他人の家にいるんで、家には居にくいんですよ」
間違った事を言っている訳ではなかったけれど、何故か僕の口調は言い訳がましかった。
「ふうん?」
また、くすくすという笑い声。全部わかってるんだよ、という微笑い方。
「ま、そういう事にしといてあげる」
僕は黙ったままだった。何を言っても言い訳がましくなるだろうし、それに何を言っても無駄だろうと言う事が、なんとなく分かっていたから。
「あなたは今、楽しい?」
僕の瞳をのぞき込みながら、ほんの少しだけ、真剣な表情。他人からこんな瞳で、こんなに見詰められたことなんてなくて、なんとなく視線をそらす。
「楽しくなんか、ないです」
できるだけ冷たく。ぶっきらぼうに。相手が怒るか傷付くかして、どこかに行ってしまうようにと身に着いた口調で。
「そう?」
くすくす微笑い。僕の意図など知らないように。いや、もしかしたらわかっているからこそなのかも知れないけれど。
「私は、楽しいよ。誰かを待つのってね、すっごく楽しいの。あの人は何時来るのかな。どんな服を着てくるのかな。最初に口を開いたら、何て言うのかな。ってね、考えるの。ずうっと待っているのはやっぱりつらいけど、でもやっぱり、来たときの事を考えてると、楽しいほうが多いよ。どんな言い訳するのかな、とかね。ま、多分『やあ、待たせてしましましたね』、だけで終りでしょうけどね」
そのときの相手の表情でも思い浮かべたのだろう。またくすくすと笑う。心の底から嬉しそうに。
純粋に、ただひたむきに、誰かのことを待っている。冗談めかした言い方をしているけれど、この女性の想いの強さはひしひしと伝わって来ていた。
居心地が悪い。この女性の言葉をただやり過ごして、なんとかまたひとりになろうとしているいつもの自分がいる陰で、認めたくは無いけれど、この女性の強くて純粋な想いを羨ましいと思っている自分が確かに存在していた。
いや、違う。これはただの気の迷いだ。僕が誰か他人に対して感情を持つなんて有り得ない。まして、羨ましいなんて。
後ろめたい気持ち。何故かいたたまれなくなって、僕はぶっきらぼうに立ち上がると、その女性に背を向けて歩き出した。とりあえず、ここには居る訳にはいかなかった。これ以上この女性と話している訳には。
「ね、最後に、ひとつだけ」
何故か、足が止まる。もうこの女性と話して居たくはなかったのに。この女性の言葉なんて、聞きたくはないはずなのに。
ふりかえる。その女性は、まるで母親のような表情で、微笑っていた。まるで、手の掛かる子供を見守る母親のような表情で。
「待つこと、信じることは、とても大切な事だわ。でも、ね。一か所に留まる事だけが待つことじゃないの。相手を探して、追いかけることだって、待つことなの」
それから、芝居がかった動作で苦笑。
「あのひとの方向音痴は筋金入りだから、下手に探しにも行けないんだけどね、私の場合」
その微笑を振り切るように振り向いて、歩き出す。少しだけ、・・・立ち去ることに、心残りを覚えながら。
「また、会いましょう。・・・近いうちに」
風が梢を鳴らすさわさわという音に混じって、その女性の声が僕の耳をくすぐった。それを振り切って歩き出す。何故か心地良いその響きに、足が止まりそうになるのを堪えながら。