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月桜  作者: 未田 尚
5/22

一日目 桜

 桜が咲いていた。蕾ばかりの目立つ、満開にはまだまだ程遠い桜。

 町の片隅にひっそりとある、ブランコやすべり台のある、子供向けのちっぽけな公園。そのさらに隅のほうに、その桜は立っていた。隣は神社になっているのだが、その境内との間に囲いもない所を見ると、あるいは神社の土地なのかもしれない。その境目もはっきりとはしていない神社との間を行き来して遊ぶ子供達の服装も、桜に合わせたように、薄く色合いも鮮やかになってきている。冬と言うには遅すぎて、春というにはまだ早過ぎる時期。物事の境目の、はっきりとしない時期。冬と春の境界線の、ちょうどその上。人間が一番体調を崩しやすく、精神にも変調を来しやすい時期。

 僕はただ、桜を眺めていた。何をする気もおきない。それはいつもの事ではあったけれど、でも知らない町でこれからどうすればいいんだろうという、漠然とした不安が僕を支配していた。

 そこまで考えて、ふと自虐的な考えになる。今までだって、一人でどうすればいいのか分からないでいたじゃないか。ただ場所が変わったというだけの事で、なんでこんな事を考えたりするんだ?

 そうだ。僕には何もない。だからこそ、ここは知っている場所だという、数少ない安心感を失った事が辛いのだ。

 法事が終わったときに、直ぐに帰ってしまってもべつに良かった。べつに何をする必要があると言う訳でもなく、ただ代理もなしに放っておく訳にはいかないという、あの二人の体面のためだけにここにいたのだ。

 実際、あまり大きくはないけれど古さだけはそれなりにある、築百何十年かの家はなんとなく落ち着かなかったし、道場だという雰囲気も馴染めなかった。それに、いたと言うことしか覚えていなかった従姉妹ももちろん、道場の師範代だという変な外人も、全くの赤の他人でしかない。

 でも、だからこそ。自分の意思とは関わりないとしても存在してしまっている家族なんてものよりも、余程ましだった。少なくとも、あの家に帰って血だけは繋がってしまっている家族と顔を合わせなくてはいけないことを考えれば。

 でも、ここは思っていたほど田舎ではなかった。確かに人口では「町」と呼べるほどの物でしかなかったのだが、背後に山の迫るこの土地では、人口密度は田舎と呼べる程度の物では無かった。

 必ずどこかに誰かがいる。その時には居なくても、安心して落ち着こうとする時分には、必ず誰かが通り掛かる。かといって他人の居ない町外れを探そうとすれば、そこはすでに限度を越えた山岳部である。幾らなんでも遭難の危険を犯すほどに追い詰められては居なかったが、でも、気の休まる暇がない。いつも、心は張り詰めていた。

 空を見上げる。その視線が、ピンク色の天井に遮られる。桜の枝は頭上に広がり、その先で綻び始めた程度の蕾が、木肌の色を打ち消す程度には、桜色に染まっていた。

 綺麗だった。思わず暫くは、馬鹿みたいに大口を開けてぼうぜんと佇んでしまう程度には。まだ薄い桜の天井を通して、辺りを暖かく包み込む春の真昼の陽射しが降り注いでいる。

 不意に、涙が溢れてきた。何故だろう、自分でも分からない。涙で視界が滲んで、目の前が桜色一色に染まる。

 何故だろう。何故涙が止まらないんだろう。何故、その涙を拭おうとしないのだろう。目の前が見えなくなってしまう程の涙を、何故拭おうという気分にならないのだろう。わからなかった。

 瞳を閉じる。どうせ開けていても何も見えないのだ。閉じた瞼に押し退けられた涙が頬を伝う。瞼越しに、目の前が真っ赤に染まる。瞼に流れる血流の色。僕の体に血液が流れている証し。僕が、生きているのだという証拠。

 そうだ、僕は生きている。何のためか、どうしてか、わかりもしないのに。ここに居ても仕方ないのに。なんで、僕はここにいるんだろう。

 トン、と胸の辺りに軽い衝撃が走った。

 同時に、どさっと重い物が地面に落ちる音。二、三歩、少しだけよろける。はっきりいって、僕は同学年どころか中学生の女の子にさえ、腕力で勝てる自信が無い。なのに、この程度で済んだのだ。何か軽くて、非力な物がぶつかったのだと言う事が、特に考えるでもなくわかった。慌てて頬の涙を拭うと、そちらに視線をやる。

「ごめん、なさい・・・」

 一瞬、時が止まった。

 心なしか桜色に染まった木洩れ日がその姿を映し出す。

 どこかの高校の制服だろうか。セーラー服に似た服を着ている。似ているだけで、もしかしたら制服ではないのかも知れない。一言で制服だとは断言できない感じがしていた。これがもし制服なのだとしたら、見ただけでかなり上品な学校のものである事が分かる。その肩にかかるくらいの位置で、滑らかな栗色の絹糸が背後を透けさせながらさらさらと揺れている。それはセミロングの長さで揃えられ、リボンで軽くまとめられている。その微妙な色彩は脱色では有り得ない。もしかしたら外国の血が混じっているのだろうか。そう言えば、肌も日本人では有り得ない程、透けるように白い。

 しかし、僕の目を引いたのはそんな所ではなかった。

 雰囲気。

 深い湖のような瞳。眩しい程に透き通っているのに、決してその奥を映そうとはしない、底の知れない湖。波紋がその美しさを乱すように、触れただけで、触れようと手を伸ばしただけで壊れてしまいそうだった。だからといって、そのままにしておけば、目の前で消えてしまいそうな気がする。攻撃的とは言えない、どちらかと言えば柔らかいと言える陽射しなのに、桜の枝越しなのに、今にも陽に融けて消えてしまいそうな気がする。

「大丈夫ですか・・・? 考え事をしてしまって・・・」

 今にも消え入りそうな細い声。もしかしたら空耳ではなかったのかと思いかねないその声は、現実ともまぼろしともつかないその姿をますますかすめさせた。

「何か・・?」

 はっ、と現実に戻る。どうやら幻では無かったらしい。しかし、その現実感の無さは、いささかも変わってはいない。

 少し小首をかしげて不思議そうな顔でこちらを見つめている。

「あ・・・あの・・・っ」

 なにか言わなくてはいけない事は分かっている。でも、何を言えばいいのか分からない。何も言えない。どうすればいいのかわからない。彼女とぶつかってしまったのだ。そう、彼女に触れた。幻なんかであるはずがない。しかし彼女がぶつかった衝撃を受けたはずの胸は、その余りの軽さに、もういかな感触をも残してはいなかった。

 不思議な感じがする。今、触れたはずの感触が無いという事は。今、目の前にいる彼女の感触が、もうすでに残っていないという事は。

「その・・・すみま、せん・・・」

 多分、今の僕の言葉は、彼女のそれ以上に掠れているのだろう。もともと僕は他人と話す事が得意ではないし、それどころか、出来るだけ誰かと接しないで過ごそうと努力してきたのだ。それを急に話をしろと言われたって、無理に決まっている。本当を言うと、いますぐにここから逃げ出したかった。

 いや、そうしていただろう。足がすくんでしまってさえいなければ。

 困って、迷って、情け無くなって落とした視線の先に、一冊の本が映った。先程の、何かが地面に落ちる音の正体だろう。とりあえず彼女の視線から逃げる口実が見付かって、何かを言わなくてはという重圧への言い訳が見付かって、僕は内心ほっとしながら、しゃがみ込んでその本へと手を延ばした。

 もしかしたら、触れることもできないのではないか、という思いが、一瞬頭をよぎった。彼女のその非現実感を証明するように、その本は僕の手が触れる事を拒絶するのではないか。そんな気がしていた。不意に怖くなる。思わず手を引こうとしたその瞬間、指の先に、何かが触れる感触。僕の杞憂に反して、しかしその本は確かな感触と、ずっしりとした重さとを僕の腕に伝えてくれた。

 古風なハードカバーの丈夫そうな本。かなり古い物のようなのに、それ程痛んだ様子もない。余程大切に扱われてきたものなのだろう。その裏表紙に図書館の物らしいシールが貼られていた。本のタイトルと作者の頭文字、整理番号。何処の図書館もそう変わるものではない。本のタイトルは『吸血鬼の系図』。女の子の読むような本ではないが、ホラーなどが好きならば、こういう物も面白いのかも知れない。それに、彼女の現実感の無さと、この本の神秘的な雰囲気が、良く似合っているような気もした。

 何を言おうか考えるためにゆっくりと立ち上がり、でも何を言えばいいのか思い浮かばないまま、ただ黙って拾い上げた本を差し出す。何か言わなければ、と言う思いだけが、頭の中を駆け巡る。

「ありがとう・・・ございます」

 大事そうに本を両手で受け取ると、彼女は真剣な表情で、本を調べ始めた。本の角が曲がっていないか、傷がついていないか。実に念の入った様子で、彼女は本の状態を確かめていた。よほど大事にしている物なのだろうか。それとも、この本だけでは無く、何に対してもこんなに真剣な表情をするのだろうか。ずきり、と胸が痛んだ。僕は何かをこんなに大事にした事があっただろうか。もしあったら、今、ここでこんなに辛い気持ちにならないですんだのだろうか。

 恐らく何ともなかったのだろう。しばらくそうしていてから、彼女は明らかにほっとした表情になって、その本を大切そうに両手で抱きしめた。

「本当に、すみませんでした・・・」

 ぺこりと頭を下げて、一言それでは、と継ぎ足して、少女は脇を擦り抜けて歩いていった。

 行ってしまう。彼女が行ってしまう。

 引き止めようと伸ばしかけた手が空を切る。声を掛けようとして、何を言えばいいのかわからなくて、声になる前に口の内で言葉が消える。当然だ。ここで声を掛けられるようなら、もっと前に、もっと気の利いた言葉をかけている。こんなふうにしていなくてすんだ筈だった。

 呆然と、彼女の後ろ姿を見送る。まるで僕の勇気の無さを笑っているかのように、背後で桜が風に吹かれてざわざわと音を立てていた。

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