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月桜  作者: 未田 尚
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日常4

 家に着いたとき、玄関の時計は6時を少し過ぎたくらいだった。ただいま、と口の中でだけ言い捨ててから、自分の部屋に駆け込む。手荒くドアを閉じ、背中の堅い扉の感触で外界との断絶を確かに確認してから、ようやく息を着いた。今日もなんとか無事学校での時間をやり過ごした。

 そう、何事もなく。

 ベッドの上に仰向けに転がり、天井を見詰める。何をするでもなく、何を考えるでもなく、ただ、ぼーっと時が移ろうのだけを待っている。無駄な時間。何の意味もない時間。でも、こうしている時は誰かと話さなくてすむ。誰かと関わらなくてすむ。まるで時が止まってしまったかのように何の変化も起こらない部屋の中で、ただ時計の音だけが、確かな時の経過を周囲に知らしめていた。

 かち、こち。かち、こち。

 ただ、天井だけを見詰め続ける。

 何も、起こらない。

 ちりりん、という音が部屋の均衡を破った。小さな目覚し時計の音。

 時間だ。気怠げに手を伸ばし、目覚ましを止めると、ゆっくりと立ち上がる。毎日同じ時間に拷問を受ける囚人というのは、こんな気分なのかも知れない。とっくに慣れたと思っていたのだが、やはり気が重かった。ちらり、と手にした目覚ましを確認する。もちろん、違っている訳は無い。無いのだが、違っていてほしい、という思いがそうさせるのかも知れない。

 やはり、時計は狂ってはいない。いつも通り、正確に7時ちょうどをさしていた。それをじっと眺め、やがてベッドのうえに投げ出した。中でベルがどこかに触れたのだろう、ちん、と微かな音がする。それを無視して、僕はダイニングへと向かった。

 そこには、もうすでに夕食が並んでいた。確かにおいしそうではあるけれど、余りにも手の込み過ぎた料理。家庭でというよりは、れっきとしたレストランで食べるべき料理。・・・少なくとも、母親の手作りで毎日食べたいと思うような物ではない。

 自分の母親としての完璧さを示そうという自己満足の結晶でしかない、夕食。誰もがおいしいと言うだろうが、誰も好きだとは言わないだろう料理。食べる人間への愛情などかけらもない家庭料理。

 食卓の上にナイフとフォークを・・・箸ではなく、ナイフとフォークを置きながら、僕を産んだと言う事になっている女が言った。

「夕食、出来てるわよ」

 いつものように、にこにこと微笑んでいる。彼女はそれ以外の表情をしない。にっこりと微笑んだまま、その表情は揺らぐ事をしない。

 理由は簡単だ。それ以外の表情をしては、自分がそういう人間だと思われてしまうから。いつも微笑んでいる、温和で優しい母親だと、他人に思われていなくてはいけないからだ。

 母に僕を産ませたという、父親らしい人物は、いつもどおりにいつもの席に座っていた。肩を怒らせて腕を組み、何か考え込んでいるらしい。どうせまた仕事の事か、金の事だろう。医者なんて黙っていても儲かる物なのに、この上まだ足りないと思っているらしい。

 僕が父親の前の席に腰を下ろして直ぐに、母親が自分の席に腰を下ろした。

「いただきます」

 母親が変わらない笑顔のままそういうと、父親は腕を組んだまま、大仰にうなづいた。僕はいただきます、と口の中だけで言うと、ナイフとフォークを手にした。

 正直言って、食欲など無い。もっとも、それはいつもの事だったけれど。でも、残しでもして、それを理由に話しかけられるのが嫌だった。食べ物を残すのは親に育ててもらった恩を感じていないからだ、などと騒がれ始めたら後が長い。説教ですらない愚痴をえんえんと聞かされるのは堪らなかった。

 音を立てないように慎重にナイフを使い、食べたくないと拒絶する口に、半分無理に押し込む。戻しそうになるのを堪えて、ざりざりと喉に突っ掛かる石の固まりを、ようやく喉の奥に流し込む。

「でも、家は二人とも好き嫌いがなくて、本当に助かるわ」

 そうだね。食べたくないのと好き嫌いとは関係ないものね。

 確かに僕には好き嫌いが無い。嫌いなものも無い変わりに、好きな物もない。

 だって、・・・何を食べても同じ味しかしないもの。

 砂の味のする、手が加わる前は食べ物だった筈の物を無理やり口に放り込む作業が終り、ようやくこの責苦から逃れられると思った時だった。

「実は、近いうちに、遠縁の親戚の家で法事がある。だが、父さんも母さんも、忙しくてそんな時間は取れない。だから、代わりにお前が行くんだ」

 命令型ですらなく、決定型なんですね。父さん、あなたはいつもそうなんですね。なんでも自分の思い通りになると思って、僕に自分の意思があるなんて、可能性に気が付きもしないんだ。

 でも、僕にはここで他の言葉は見付からなかった。もし見付かっても、喉の奥より前に出てくる事は無いのだろうけど。

「・・・はい」

 それだけ言うのがやっとだった。それ以上は、反抗の言葉も、服従の言葉も口に出来はしなかった。

「ちゃんと素直に言う事は聞いてくれるし、勉強も出来るし、本当にいい子で、母さんも嬉しいわ」

 母親のいつもの口癖。親に絶対服従で、勉強が出来る。あなたは、いつも同じ事しかいわないんですね。あなたの『いい子』の基準はそれだけなんですか、母さん。

 そう考えて、気付く。自分は『いい子』なのだ。母親の基準でいう『いい子』。親の言う事には逆らえなくて、親の満足できるような大学に心配なく入れる程度の学力もある。それだけの事ができる。それだけの事しかできない。それ以上でもそれ以下でもない。そんな人間が、こんな人間が禄な人間ではない事なんて、真っ当な判断力のある人間なら考えるまでもなくわかる筈なのに。自分がどんな人間なのか、分かっているはずなのに。

 そう。自分がそんな人間だと分かっていて、あえて受け入れている自分だって、この人達とどれ程違うというのだろう。

 いつもの話が始まる。あそこの家の子は駄目だ、誰々はこうだ。いつもと同じ話。聞くに絶えない他者攻撃の言葉。そうして自分はどれだけ幸せか、どれだけ良い家庭を持っているのか、そして、言葉の裏でそれを造り上げた自分がどれだけ凄いのかを言い募って、自己満足に浸るのだ。聞くにたえないその言葉を出来るだけ聞かないようにしながら、耳を塞いでしまいたい、ここから走って逃げ出したいという衝動を、必死で押さえ付けていた。

 でもそれは、延々と、いつも果てしのないと思えるほどに続くんだ。

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