日常3
辺りは、段々と暗さを増していた。
もうそろそろ、用事のある者以外はいなくなった頃だ。この世界のどこよりも安全な屋上を出て、家へと向かう。
本当は家になど帰りたくは無かった。でも、帰らない訳にはいかない。
昇降口へと急ぐ。ぐずぐずしていては、誰かに声を掛けられてしまうかも知れない。ただの自意識過剰で、誰も僕なんかに声を掛けようと思ったりしない、そんな事はないと分かってはいたが、でも万が一と言う事もある。少し小走りぎみになって、階段の一番上の段に足を下ろした。
声がする。下、というよりは横。踊り場で折れた階段の、下の階の方から。思わず、しゃがみこんで身を隠した。そうしてしまってから、誰かが通り掛かりでもしたらそちらのほうがかえって目立つ事に気付くが、もうどうしようもない。今から出ていっては、もっと怪しい状況になってしまうだろうから。
「明日終業式が終わったら、もう次に学校に来るときは、三年生なんだね」
聞き覚えのある、女の子の声。さっきも聞いたばかりだ。僕のクラスの学級委員長の声。話に夢中になっているらしい。ゆっくり歩きながら、というよりはほとんど立ち止まって話し込んでいるようだった。
「あーあ。三年になったら、すぐに受験だもんね。遊んでいられるのもあと僅かかぁ」
もうひとりも、同じクラスの女の子らしい。いつも委員長と一緒にいた女の子が、こんな声だったような気がする。
「何言ってるの。どうせ真面目にやる気なんて無いくせに。そもそも、本気でやるつもりの人は、もうとっくに始めてるんだから」
「・・・でも、三年になったらクラス別々だね」
そこで、もともとゆっくりだった一人の足音が止まる。それに釣られるようにして、もう一人の足音も止まった。
「だから、一緒に頑張ってAクラスになろう、って誘ったのに」
「駄目駄目。私じゃぁいくら頑張ったって、私立の二流がいいところだもん。もしAクラスになったって、一年もついて行ける訳無いよ」
「ま、あなたのいいところは、お勉強じゃないもんね」
くすくす、と笑う声が聞こえてくる。
なんとなく、自分が嘲笑われた気になる。そんな事はない、自意識過剰だと、わかってはいたけれど。でもこんなところで、結果的にでも会話を盗み聞きしてしまっているなんて、確かに嘲笑われるような事だ。
話は暫く終わりそうになかった。ここで二人がいなくなるのを待っていても、時間の無駄だろう。それに、こんな所を人に見られでもしたら、本当に目立つだけではすまない。何気ない顔をして、今通り掛かったという顔をして行けばいい。誰も、僕の事に注目してなんていないのだから。
「でも、クラス変わっても、悪いことばっかりじゃないかも」
「例えば?」
「えーと・・・同じクラスに異様に暗い奴、いるでしょ? 名前、なんていったっけ? 休み時間になっても、友達と話もしないで、ずーっと教科書ばっかり見てる奴」
階段の半ばくらいまできていた足が、止まった。
同じクラスの暗い奴。それが誰か、考えるまでもなかった。
「あ、そっか。あの人と違うクラスになれるんだったら、クラス替えもいいかも知れない」
「でしょ、そう思うでしょ。あいつってさ、何考えてるかわかんないでしょ。不気味でさ、なんかやばい事件とか、起こしそうだよね」
足が、動かなくなっていた。下にいる二人から見付かりかねない位置だというのに、体が動かなかった。
「でもさ。あんたってさ、けっこうあいつの事かばってやったりしてるけど、もしかして、ああいうのが好みだったりして」
「冗談にしてもきつすぎるよ、それ。どこをどうしたらそういう発想がでてくるの。・・・ほら、考えてもみてよ。みんながあんまり追い詰めて、事件でも起こされたりしたら、大変じゃない」
「あーそっかぁ。そうしたら、テレビなんかもきて、インタビューとかされるんだよね」
「そう。この時期にマスコミなんか来て大騒ぎにでもなったりしたら、クラスだけじゃ無くって、学校全体の進学率にも関わりかねないもの」
「いーなー。あたし、テレビに出てみたいなー。なんか事件おこしてくんないかな」
「とんでもない事言わないでよ。噂をすれば影、って言うでしょ。・・・あーあ、変なののいるクラスの委員長になんかなっちゃうと、気苦労が多くって、大変なんだから」
「でもさ、あんまり気にかけ過ぎると、気に入られて、ストーカーされちゃうかもよ。あいつって、そんなタイプでしょ」
「だから、直接話しかけたりとかしないように気をつけてるのよ。あたしだってそんなのごめんだし、それにやっぱり直接話したりするの、嫌だもの。でも、明日一日だけ我慢すればもう終りだし、もう少しの辛抱ね」
「でもさ、もしかしたら来年も同じクラスだったりして」
「ちょっと、嫌な事言わないでよ。もう一年一緒のクラスだなんて、冗談じゃないわよ」
その、本当に嫌そうな響きのする声が終わらないうちに、僕は降りかけていた階段を駆け昇っていた。どうこうしようなんて考えていた訳ではない。ただ、勝手に体が走り出していた。この二人の反対側へ。できるだけ遠くへ。頭の中は、ただ真っ白になってしまっていた。
気が付くと、僕は壁に背をつけて、肩で息をしていた。
いつ立ち止まったのかすらわからない。そのまま、息を整える。
どうやらここは、購買部の前のようだった。もたれかかっているのも、壁ではなく、自動販売機らしい。
ほとんど反射的にポケットから百円硬貨を取り出してから、いつのまにか喉が乾いていたことに気付く。
当然かも知れない。息が切れるくらい、全力で走っていたのだから。
握り締めた硬貨を投入口に入れる。硬貨の端が引っ掛かる。がり、と嫌な手応えがして、硬貨が自動販売機の中へと落ちていった。微かにちゃりん、という音がしたような気がして、ボタンのところに列をなして光が点る。
ひとつだけ、『売り切れ』になっている所があった。別に人気があるからという訳ではなく、ただ単に、そこには何も入っていないだけだ。多分、壊れてでもいるのだろう。
商品を入れる事もできず、なんの期待もされず、ただどうにかするよりも簡単だからというだけの理由で、排除もされずに放って置かれている場所。他は一列に整然と並んでいるのに、そのひとつぶんだけがずれている、歪な光の列。
別に、何か期待していた訳ではない。委員長が他の人間たちと同じだということは、ずっと前からわかっていた。その行動が、別に親切心からのものでないと、ずっとそう思っていた。それが、本当だったとわかっただけだ。自分の判断は、やはり正しかったのだとわかっただけだ。
アイスコーヒーのボタンを押す。がこん、という音がして、取り出し口にコーヒーが堕ちてきたのを知らせる。四角いパックの端が、衝撃で歪んだ音まで聞こえたような気がした。
コーヒーよりもミルクと砂糖の方が多いくらいのそのコーヒーは、でも僕の記憶の中にある味よりも、何故かずいぶんと苦かった。