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月桜  作者: 未田 尚
22/22

非日常

 心地好い駅の日陰から出てみると、初春の早朝の陽射しは思っていたよりもずっときびしかった。慣れない夜行で寝不足なせいもあるだろう。太陽が目に染みて、陽光が肌をじりじりとやいていく。熱が体に溜まっていく感じがする。

 とりあえず駅前のコンビニでペットボトルの水を買って、ちびちびと飲みながら歩き出す。今まで幾度と無く歩き慣れていた筈のこの道も、今はなんだか馴染みのない、知らない道のような気がする。

 口に含んで舌の上で転がしてから飲み込むと、火照った体に冷たい水が染み込んでいく。熱に浮かされてふわふわする体を水でなんとか保ちながら、別の世界のような見慣れた街並みを彷徨っていく。

 川筋の道まで出ると、土手の上に桜の並木が続いていた。川からの湿った風が、火照った頬を冷ましていく。向こうにいたときには満開だった桜が、ここではまだ八分咲き程度でしかない。狂おしいほどに咲き乱れるまでには、まだ数日はかかるだろう。

 北風混じりの微風に前髪を揺らしながら歩いていくと、左手に学校が見えてきた。

 少し離れたこの位置からだと、屋上の上の朽ちかけたフェンスまで視界に入る。

 そのフェンスに凭れ掛かるようにして、昏い瞳の少年がこちらを見ていたような気がした。もちろん、この距離で見えるほど僕は目が良いわけではないし、誰かがいるように見えるのも、多分後ろの壁の染みか汚れのせいだろう。まして、あの屋上に上がれるのは僕だけなのだから、他の誰かがあそこにいる訳がない。

 でも。

 そこで、僕は足を止める。他の誰かがいる訳がないのならば、あそこにいるのは僕なのだ。

 じっと、その澱んだ壁の染みに見える少年を見詰め返す。お互いの視線がからんだのが、確かに・・・あるいはただの勘違いかもしれないけれど、わかった。

 無表情な、すべてを諦め切ったような瞳。返す僕のそれがどうなのかは自分では分からなかったけれど、ただ、相手のそれとは少しだけ違っていると、なんとなく感じていた。

 やがて振り返り、歩き出す。視線がまだこちらに向いているのを感じていたけれど、気にはならなかった。あれは、ただの汚れにすぎないのだから。

 踏み出した足が、さっきまでよりも少しだけ地に付いた感じがする。

 川筋を離れ、入り組んだ道に入る。柔らかくて冷たい川風を感じられなくなるのが少し惜しい気もしたけれど、立ち並ぶ家の日陰に入って少し火照りがおさまる。

 家までは、もうあまり距離がない。いままでなら重くなっていたはずの足取りが、今はまったく変わっていない。

 やがて、一軒の家の前で立ち止まる。無意味に小綺麗な家。誰かが住んでいるようには見えない、生活の感じられない家。

 その門の鉄柵を開け、中に入る。この場所では珍しいくらいの広い庭。金と見栄とで整えられた、手入れの行き届いたガーデニング。石や煉瓦や椅子やテーブルだけでなく、木や草や花まで型に押し込んだような、ゆとりのある窮屈な空間。玄関の扉を開ける。しばらくぶりに自宅に帰ってきたというのに、何の感慨も浮かんでは来ない。まるで、初めて訪れた、他人の家のようだった。

 そう。僕にはこの家を故郷だなんて思ったことは、一度もなかった。ましてや、この一週間の間、僕の故郷はあの公園だったのだから。

 靴を脱いでいると、スリッパの足音がした。いつもの笑顔を浮かべながらやってくる『母さん』。表面に張り付いただけの笑顔。本当の笑顔を幾つも見てきた僕には、殊更嘘臭く見える。

「まあ、お帰りなさい。昨日の内に帰れないって連絡があったときは心配したけれど、良かったわ、無事に戻ってきて。何かあったら大変ですもの」

 大変なのは、誰にとってなんでしょうね。

 以前は胸に澱んでいた思いが、同じ内容でも、今はなんだか可笑しさを伴っている。

「とりあえず荷物を置いて、着替えていらっしゃいな。急がないと遅刻する時間でしょう?」

 とりあえず、部屋に戻る。着替えと勉強道具しか入っていないバッグを机の上に放ると、クロゼットから取り出した制服に着替え始めた。以前は囚人服にしか思えなかったこれも、こうしてみれば、ただの布切れにすぎない。どうしても着てほしいと言うのなら、着てやったとしても別段かまいやしない。

 リビングに行くと父親はすでにテーブルについていた。いつものように無表情。

 でも、本当の感情の無い表情を見た後では、ただ強欲に溺れた顔でしか無かった。

 いつもの自分の席に何か置いてある。でも、どうでもいいのでとりあえず無視する。僕に続いて、母親も自分の席についていた。

「どうして昨日のうちに帰ってこなかった? なぜ電話の時に話さなかった?」

 座るなり、予想通りの言葉。分かりやすくて楽しい。別に何時帰ってこいと言われた訳では無かったけれど、自分の予想通りの行動でなかったのが気に食わないだけだろう。傲慢さだけが滲み出る顔が、なんだか可笑しかった。

「しなくてはいけない事があったものですから。話は、帰って来てからで良いですか? 余り時間がありませんから」

 少し戸惑った顔をする。僕が話を聞く以外の事をするのに驚いたのだろう。

「まあ、それはいい。おまえのいない間に、それを取り寄せておいた。お前の受ける大学の、今年の分の資料だ」

 いつもの、決め付ける口調。

 別に、あなたのこと、嫌いじゃないですよ。他人を自分の思う通りに動かすことでしか、自分の存在を確認することができないだけなのだから。そうしていなければ、貴方は自分を保てないだけなのだから。他人を思いやる余裕がないだけなのだから。

 でも。

「残念ですが、これは必要ありません。・・・僕は、獄楽大学に行きますから」

 二人のびっくりした表情。ショーウィンドウに並んでいたマネキンが急に動き出しでもしたかのような。

 僕が自分の意見を言うなんて、それも自分達に反抗するなんて、思いもしなかったのでしょう。しかも、獄楽大学と言えば、貴方たちが決めていた大学よりもずっと程度の低い、貴方たちにとっては周囲の人間に知られたくないような学校の筈ですから。

「僕の人生は自分のために使います。他人の見栄のために使う気なんてありません。自分のことは自分で決めます」

 何が起こったのかすらわかっていない表情。二人とも、それ以外したことのない表情から、今だけは唖然と言う表情に変わってしまっている。

 物心着いた頃から、したくて、でもずっと出来ないでいたこと。

 自分の意見を言う事。自分の意思で何かを決めること。親の言いなりでは無くなること。今までずっと出来ないでいた事が、こんなに簡単な事だったなんて。

 その余りの呆気なさに、そしてそれ以上に大きい達成感に、僕は知らず知らずのうちに微笑んでいた。

 長く伸びた牙を晒しながら。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


HPもよろしくお願いします。

キリ番でリクを受け付けて短編を書いたりしています。

それから『桜木月夜』の目線での物語『月夜』とかあります。

万が一、月桜が好きだという人がいたら、イメージが壊れるので読まない方がいいかも。


「にゃにゃ屋」

http://ktmhp.com/hp/nyanyaya/top/

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