八日目 月桜
ぷるるるる・・・ぷるるるる・・・
受話器から流れて来る音を聞きながら、ディスプレイに表示された、入力したばかりの番号を確認する。・・・どうやら、間違ってはいないようだ。
知人とさえほとんど接していなかった僕にとって、見知らぬ他人の家に電話するなど、緊張するなどというものではない。でも、何度も繰り返しているうちに、やはりいくらかは馴れてもきていた。
昨日、緑と別れてしまったから、はたと気付いた。名前がわかったからって、その後どうやって探せばいいんだろう。緑は、例の『聖蘭詳しい奴』と連絡が取れれば直ぐにわかると言っていたけれど、ただ連絡を待つだけというのも落ち着かない。でも、誰かを捜すなんて事、考えたことすらない僕にとっては、どうするかなんてわかる訳がない。
考えに考えた結果、ようやく電話帳を使うことに考えが至っていた。とは言っても電話の前に陣取って緑からの連絡を待っていた時に、たまたま目に入っただけなのだけれど。
それから朝を待って電話帳を探して本屋に駆け込んだのだけれど、そこではたと困った。本屋に電話帳はあるのだろうか。しかも、よくよく考えれば、彼女がどこに住んでいるのかも分からない。
確実に言えるのは、聖蘭に通っていると言う事だけ。あの公園で出会ったからと言って、この街に住んでいるのだとは限らない。となれば他の街のものも必要になるだろうし、この街の位置から考えて、電車や自動車を使えば隣の県からでも通うことは不可能ではない。
だから、電話をかけはじめることができたのは、午後もかなり遅くなってからだった。お陰で、窓の外はもう相当な暗さになってしまっている。と言うより、もはや夜の範疇だった。
勇気がなくて始めるのに躊躇していたというのも、原因のかなりの部分を占めているのだけれど。
がちゃ、という受話器の上がる音。
思わず緊張が走る。
「はぁい、桜木でぇす」
脳天気に明るい声。彼女と同じくらいの年齢のようだけれど、あの時の彼女の声とは、余りに違い過ぎていた。違った、と思いつつも、まだ可能性が残っていない訳でもないと、口を開く。
「・・・あ、あの、そちらに月夜さんは、いらっしゃいますか・・・?」
「・・・はい?」
不審そうな声。何の用かとか、あんた誰だとかいうニュアンスではなく、聞いたことのない名前だと言う返事。
「あ、いえ・・・いらっしゃらないなら、結構です。・・・すみませんでした」
言うだけ言って、慌てて受話器を置く。それからひとつ溜め息。
今のが最後の家だった。後は、留守だった家に掛け直し、それでもいなかった時には、最初からやり直すしかない。でも。
時計を見る。もうすでに、電話をかけるのは失礼になってしまう時間になる。何件もかけることはできそうにない。
そもそも、聖蘭には寮がある。そこにいるというだけでもうどうしようもない。唯一の頼みの綱の緑からも、何の連絡もない。
今夜の夜行に乗らなければ、明日の始業式には間に合わない。そんなものはどうでも良かったのだけれど、それでもひとつの区切りではある。出来ることなら、それまでに彼女を探しだし、始業式をひとつの節目にしておきたかった。
もうひとつ溜め息をつきながら電話帳を捲る。桜木という姓は、思っていたよりもずっと多い。わりと珍しい名前だと思っていたのだが、僕の勘違いだったのだろうか。それともこのあたりにはとくに多いのだろうか。留守だった家だけでもかなりの量になる。そのあまりの多さにもうひとつ溜め息。
まるでそれを聞き咎めでもしたかのようにベルが鳴る。
この時間だ。十中八九間違いない。慌てて、受話器を取る。焦るあまり、受話器を取り落としそうになって冷や汗。
「もしもし・・・」
はやる気持ちを押さえて、できるだけ落ち着いた声を出そうとする。失敗。自分で聞いてもうわずっている。
「あんちゃん、分かったよ彼女の住所!」
名乗る間も惜しいらしい。身構える間もなく、緑の怒鳴り声が鼓膜を震わせる。でも、時間が惜しいのはこっちも同じだった。痛む耳には構いもせず、僕は緑に先を促していた。
「やっぱりあそこだよ、あの公園。あそこからそう遠くない所に住んでるんだよ」
電話する範囲を調べるために、用意してあった地図を広げる。確かに緑の言った住所からは、あの公園は目と鼻の先といっていい距離だった。
「あんちゃん、今から行くんだろ? 俺も行くから、待っててくれよ。あの公園で待ち合わせよう、いいか、ひとりで突っ走ったりすんなよ」
緑が相変わらず怒鳴っていたが、その声は僕にとってはただの雑音に過ぎない。慌てて受話器を置くと、なにをどうしようという考えすらなく、玄関に向かって駆け出していた。
玄関先で靴を突っ掛け、転びそうになりながら走る。彼女に会える。そこに行きさえすれば彼女がいる。彼女に会える。あの引き込まれるような瞳をもう一度間近で見られる。
幾度か転び掛けて、あるいは実際に転んで、それでも駆ける。体育の授業すら真面目にやらなかった僕には、生まれてから経験したことがないくらいの激しい運動だった。
それでも、速度がどんなに鈍っても、僕は足を止めなかった。自分では自覚していなかったけれど、少しでも遅れれば彼女が消えてなくなってしまうという恐怖を、まだ引きずっていたのだろう。
やがて、公園の入り口が見えて来た。そこの車止めに手をついて、僕は息を整える。全身にうっすらと汗をかいていた。
この公園に来るだけで、なんとなく落ち着いて来る。やはり、この公園が僕の原点なのだ。息苦しくない程度に息を整え、僕は公園に足を踏み入れた。緑のことなんてすっかり忘れてしまっていたけれど、ここを通るのが一番の近道だったし、なんとなく公園の中を歩いてみたい気分でもあった。
空を見上げると、見事に輝く月が登っていた。清々とした碧い光が、柔らかく辺りを包んでいる。あの時のような禍々しい光でこそないけれど、だからこそ、あの時よりも余程非現実感を増していた。
でも、それが今は近しい物に感じる。もうずっと前からこうしているのが当然だったかのような感じ。その光の中、僕は全身を碧く染めて、公園を歩いていった。そして、辿り着く。
公園の隅には、桜が立っていた。始めて見た時とは違う、満開の桜。ちらほらと舞い散る花びらを照らす様に、少し欠けた月が碧白い光を放っている。桜の花びらがひとつ、またひとつと散るたびに、月の光を照り返し、星のように僅かに瞬きながら、地面に絨毯を作っていく。
その桜の花びらと月光の照明を浴びながら、少女がひとり、佇んでいた。
月の碧い光りに、その肌は異様とも言える程に碧白く見えた。そう、病的な白さ。通常ではない白さ。それが碧く染まっている。碧白く輝く肌。辺りを照らす光よりも、月よりも碧い瞳。
その瞳は、こちらを見ていた。じっと、こちらだけを。
その姿を見ても、僕は別段驚きはしなかった。
まるで、そうなるのが当たり前のような気さえしていた。ここで、この桜の木の下で、彼女ともう一度出会うことが。
でも。しばし躊躇する。怖かったのだ。月の光りに照らされて、彼女は今にも消え失せてしまいそうだった。近付こうと踏み出した足の振動だけで崩れ落ちてしまいそうだった。距離を詰めれば、その存在が幻だったのだと分かってしまいそうだった。
しかし、だからと言ってこのままではいられなかった。いつまでも見詰めている訳にはいかない。そのまま時間が経てば、本当に、月の光りに淡く融けてしまいそうだった。そうなってしまう前に、もっと彼女のことが知りたかった。もっと彼女の心に近付いておきたかった。
意を決して彼女の方へと歩み寄って行く。一歩、また一歩と、距離が段々詰まっていく。その存在が掻き消えてしまうのではないかという恐怖に反して、彼女はじっと、変わらずにそこに在り続けてくれていた。距離が無くなっていくに連れて、その存在をはっきりとさせすらしていた。
そう、近付こうとすれば、そしてそのための行動を取りさえすれば、その距離は短く詰まっていくものなのだ。例え相手が現実の存在ではないとしても。
例え相手が人間では無かったとしても。
今まで、ただ呆然と開いていくのを見守るしかなかった距離が、今、確実に狭められていく。拍子抜けするくらい簡単に。
そう、この距離は今までの自分と彼女との距離だったのだ。詰めようとすれば詰まる、しかし怖くて詰める事の出来なかった距離。それは本当に拍子抜けするくらい簡単に詰める事の出来るものだったのに、ほんの少しの勇気がなかったばかりに、そのままになってしまっていたもの。でも、ずっとそのままではいけないのだ。そのままにしてしまっては、いずれ、後悔する時がくる。
分かっていた。
だから、今、歩かなければばならない。例えどんなに怖くても。例えどんなに後悔する事になるとしても。例え彼女が消え去ってしまう事になったとしても。
彼女の前で立ち止まる。手を伸ばせば触れられる距離。
そこまで来て、彼女の視線がこちらに向いていないことに気付く。彼女は視点を結んでいなかった。彼女は何処も見てはいない。
空で淡く光を放っている月のように、碧く染まった瞳。空で淡く光を放っている月よりも、ずっと碧く染まった瞳。
彼女の身体を、月に照らされて舞う桜の花びらが覆っている。ひら、ひらと舞う花びらが、まるで彼女を覆い尽くそうとしているかのように、その身体を包み込んでいる。
随分そうしていたのだろう。彼女の頭の上には桜の花びらが数枚、月の光りを跳ね返しながら、まるで彼女の髪を飾り立てているのだという様な顔をして乗っていた。
手を伸ばし、それを拾い上げようとする。すっ、とその手が彼女の前を通った時、不意に彼女の視線がこちらを向いた。
初めてこちらに気付いたという風に。多分、その通りなのだろう。視点の合っていなかった彼女の瞳は、今まで何も写してはいなかったのだ。
少なくとも、現実のものは。彼女の瞳には、何が写っているのだろう。人間には見えないものだろうか。それを見てみたい、と思った。例え、それが今までの生活全てを捨て去る事を意味していたとしても。
「あ・・・」
彼女の口から僅かに声がもれる。彼女の瞳は、今度こそ間違いなくこちらに向けられている。
僕の首筋に。
その口が、物欲しげに開かれる。その端から覗く、牙。鋭く尖り、その先端が柔らかい肉に埋められる瞬間を今か今かと期待に待ち侘びる、美しい牙。
彼女の手が伸ばされる。僕の腕よりも丈の短い彼女のそれが届く様に、一歩を踏み出そうとする彼女。
「あ・・・」
僕に触れようとしていた彼女の腕が、止まる。踏み出そうとしていた足が、止まる。
僕の方に不安定に向けられたまま、動きを止めた彼女の腕。そのままわなわなと震えていたが、それは急に自分自身をかき抱いた。
「だ・・・め・・・。わた・・・血・・・を・・・」
ふらふらと、一歩後退る。自らの中の欲求と必死で戦う様子。自ら押さえ得ぬ欲望を押さえようとする様子。
「・・・わた・・・この、まま・・・血・・吸っ・・・」
もう、まともに喋る事も出来ないほど、彼女の欲求は激しいのだろう。押さえられないものを、自らの身体を抱え込むことによって、なんとか押さえようとしているのだ。
ますます自分の身体をきつく抱き締める彼女。そうして拘束していなければ、自らの身体が勝手に血を求めて動き出してしまうかの様に。
いや、恐らく本当にその通りなのだろう。彼女の体は彼女の意思に反して、血を求めている。ほとんど耐え得ない程の強さで。それを、必死で耐えているのだ。
その彼女を前に、僕は自分の胸のボタンに手を掛ける。彼女の方に踏み出しながら、自らの手でボタンを外していく。
「もう、我慢しなくていいから」
彼女になら、血を吸われても構わない。いや、吸ってほしい。彼女がそれを求めているのだとしたら。それが彼女との距離を埋める一番の方法なのだとしたら。
「僕なら、構わないから。だから、・・・僕の血を、吸って」
自分の首筋をさらけ出してから、そっ、と彼女を抱き締める。彼女は抵抗しない。出来ない。自らの欲求に抗うだけで精一杯で、僕の腕に抗うだけの余裕は無いようだった。
今、腕の中に彼女がいた。ずっと自分からは触れられずにいた、近付けずにいた彼女が、今、腕の中でただ静かに震えていた。
そう、今から、彼女との距離の、最後の一歩を詰めるのだ。現実の距離をこうして自分から詰めたのと同じ様に、心の距離を詰めるために、こうして最後の一歩を詰めるのだ。そうしてから、やっと彼女の心をも、こういう風にしっかりと抱き締める事ができるのだと思うから。
「わた・・・駄目・・・も・・・我慢・・出来・・・」
自らの身体を抱いていた彼女の腕が、ぶるぶると震えながら、僕の背中に回される。流石にその瞬間を直視していられるほど、僕は強くなかった。彼女の背中に回した腕に力を込めて、しっかりと彼女をかき抱き、彼女に首筋を差し出す様にして、空を見上げる。
月。
満開の桜の隙間から、少しだけ満月から欠けた月が覗いている。碧い光。清々とした光が、まるでスポットライトのように、二人を包み込んでいた。まるで月のかけらの様に、桜の花びらが舞っている。二人のまわりをひらひら、ひらひら。月の光を反射して、優雅に舞っていた。
やがて、首筋に感触。何か、尖ったものが肌を押し・・・。
つぷり、と肌の表膜が弾ける感触。牙が突き刺さる感触。ずぶずぶと、深く突き刺さってくる感触。肉をかきわけ、さらに深く。やがて、何か湿ったものが触れる感触と共に、牙の侵入が止まった。
彼女の唇。彼女の唇が、僕の肌に触れていた。柔らかい。温かい。その感触だけで、もう痛みなどは感じなかった。もしかしたら、痛みすら心地好く感じていたのかも知れない。それ程、僕は高揚していた。やがて、血の吸い出される感触。普通、血を抜くときには、ある意味喪失感があるものだが、これは違った。吸われれば吸われるほど、充足感が満ちてくる。自分の血、文字通り自らの命を削って相手に与える感じ。わが子に母乳を与える時の母親の気持ちに近いのかも知れない。
そんな、奇妙な充足感を感じながら、僕は空を見上げていた。
碧い光り。月の光り。彼女を照らしていた光の中に、今自分もいる。この世というよりはあの世に近いとしか思えなかった、あの月の光の中にいる。今でもその非現実感は変わらないけれど、ただ、今はその外側ではなく、こちら側にいる。
今までと同じではいられない。代わりばえのない、しかし平和な生活は、もう帰らないかもしれない。これから、どんな事が起こるかなんて分からない。
満ちた月は、後は欠けるだけ。満開の桜は、後は散るだけ。
いずれ、今のこの高揚感を忘れてしまう日がきっと来る。あるいは、今日の選択を後悔する日も来るのかもしれない。
しかし、ひと月すれば月はまた満ちる。
一年すれば桜もまた咲く。
後悔は無かった。
彼女の側にいられるのなら、どんな事があっても耐えられる。
そう、僕はこの瞬間のために、彼女と出会うために生まれてきたのだから。