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月桜  作者: 未田 尚
2/22

日常2

 今年度最後のHRが終わると同時に、すでに片付け終わっている鞄をつかみ、教室を出る。

 でも、直接玄関に向かう訳では無かった。まだ放課後になって間もないこの時間では、玄関は家路を急ぐ生徒たちで一杯になっているはずだ。そんな中に飛び込むような酔狂な趣味は、僕は持ち合わせてはいない。

 心と体とを蝕む強制収容から、一時的とはいえ解放された年若い囚人たちが、何時までも監獄の中へ留まっていたいと思う理由がない。皆、時間と行動への制限付きの自由へと、最短距離で駆け出していく。その騒ぎが治まり、暫くは周辺に止まろうと思うような奇特な奴等も一掃される時間帯になるまで、じっと機会をうかがうのだ。

 わざわざ遠回りして、校舎奥の人気の無いほうの階段へ向かう。他人に見付からないルートを辿り、他人に見付からない場所へと退避する。もう一年近く繰り返している、ほとんど日課。

 やがて、階段の先が突き当たる。

 目の前にあるのは、扉。重い鉄製の、塗装の禿げ掛けた扉。

 もう幾年も昔から、この扉は使われる事が無かった。開かなくなっているらしい。

 本当かどうかは知らないが、何年か前にここの屋上から飛び降りがあったという。

 それ以来、屋上は心霊スポットとしてその筋では有名になったらしいのだが、ある時不意に扉が開かなくなり、どうやっても開くことはなく、そのまま放置されることになったと言う事だ。

 静かに放っておいてほしいその生徒の呪いで開かなくなった、などと、教室の隅の僕にまで聞こえるような声で話は盛り上がっていたけれど、この話はかなりうさん臭い。学校の校舎で飛び降りと言う事になれば、同じ町内で耳に入らない訳がないのに、僕はそういった話を聞いたことがない。

 おそらく、もともとちゃんと合っていなかった扉が、怖いもの見たさの生徒たちの過度の開閉で限界に達した、というのが本当だろう。実際、教師たちは飛び下りの噂にひかれて殺到してくる生徒たちに手を焼いてもいたらしい。

 構造の都合なのだろう、もうひとつ在るほうの階段には屋上へ繋がる扉はなく、だからこの扉が屋上へと繋がる唯一の扉という事になる。

 それが開かなくなったことは、教師たちにとってはかえって好都合だったのだろう。鍵を掛けておくにしても、閉めたままにすることの決まっている物をわざわざ開くように修理する必要は無い。それに、鍵があれば開いてしまう危険もあるけれど、扉自体が開かないと言うのならば、生徒が屋上に出てしまう事もない。だから放って置くという事になったのだろう。

 そう。物事の真相なんて所詮そんな物なのだ。どきどきしたり、わくわくしたりなんて、ただ心臓の労力の無駄使いにすぎない。一生の内での心臓の鼓動の回数限界は決まっているという。ならば、そうやって鼓動を早めるなんて言うのは自殺行為でしかない。

 でも、そうやって寿命を延ばしてまで生きる理由なんて、どこにもないのだけれど。

 ノブに手を掛ける。回る気配さえしない。少しだけ、向こう側へ押し込む。押しても扉自体は動きなどはしないけれど、ノブだけなら、回転させるための遊びの分程度は動く。その遊びが無くなる寸前まで押し込み、・・・微妙なところで止める。それから、ゆっくりと捻る。多少がりがりとどこかが引っ掛かる感触をさせながら、ノブがぎりぎりと回転する。下を向いていた掌が上を向くくらい回したところで、いったん手を止める。それから少し引き、感触が変わったのを確かめてから、ノブの角度を少しだけ修正する。それを幾度か繰り返すと、くっ、という感触に変わる。今度は真っ直ぐではなく、心持ち上に向かって一気に引き上げる。一瞬、扉ははかなく抵抗するけれど、やがてがくんと力なく抗う事を諦めた。

 僕がここを見付けたのはずいぶん前だった。というより、他人を避けている僕が学校にある数少ない避難場所である、階段の一番上・・・開かない扉の前に行き着くのは、ある意味時間の問題でもあった。ならば、誰も来ないとはいえ、外界とを隔てるものの何もない場所よりも、こことは別の世界である扉の向こうを夢見るようになるのも当然なのかも知れない。

 こうして、僕は苦労の末に、本当に誰にも邪魔されない空間を手にいれることになったんだ。

 もう三月の終り、春だというのに、風はまだまだ冷たい。屋内の少しだけ暖まった空気を振り払うようにして、一歩踏み出す。扉を潜る。

 閉めるにも、開けた時と同じくらいの苦労が必要になる。苦労して扉を閉め・・・一瞬、不安になる。もしかしたら、この扉はもう開かなくなってしまうのではないだろうか。

 それも、いいかもしれない。ここに一人でいる。扉は開かないと思われているのだ。ここを探そうなんて思う人はいないだろう。いや、本当に探すかどうかすら怪しい。僕がいなくなった事になんて、もしかしたら誰も気付かないかも知れない。そうして世間からはすっかりと忘れ去られ、いつかこの校舎が取り壊される時になって、ようやく発見されるのだ。

 何もない空間。屋上の上には、朽ち掛けてすっかりその役目を放棄したフェンス以外には何もない。もしかしたら、以前は何か在ったのかもしれないが、今はもう何も無い。出入りすらしない空間に、ごみ以外の物を置くような奴はいないだろうし、もしいたか、ごみなどが在ったとしても、もうすっかりと朽ち果て、吹き荒ぶ風に削られて、土に返ってしまったのだろう。

 見上げると、空はどんよりと曇っていた。空一面をドームのように包み込む、暗い雲。所々白い部分も残ってはいるが、それとて純粋な白ではなく、黒く濁り、雲の暗さを一層際立たせる役にしか立っていなかった。

 いっそ、降り出してくれればいいのに。

 空を見ながら、思う。いっそのこと、雨が降って、世界の全てを湿った黒に染め上げてくれればいいのに。

 出てきたばかりの扉の隣に古ぼけた鉄製の梯子がある。手をかける。

 ざり、という、手の中で鉄錆の崩れる感触。ここにはもう何度も登っているけれど、錆が落ち切る気配はない。それ程長い間、忘れ去られていたのだ。錆が崩れたせいで、少しだけ手が滑る。構わずに一番下の段に左足を掛ける。靴底が錆を削ぎ落とす音がする。体を引上げ、左足の掛かったひとつ上の段に右足を掛ける。

 それを三度も繰り返せば上り切ってしまう程度の短い梯子。それでも、確かに登った分だけの高さは増している。

 屋上の上よりも、少しだけ高い場所。この学校で一番高い場所。他の奴等が来られない、一番高い場所。

 ここからなら、町の全てが目に入る。見渡す限り、家、ビル、その他、建物。その中に詰め込めるだけ詰め込んで、まだ足りなくて、人間が通りにまで溢れ出している。その一人一人が、辺りに充満した汚れた空気を吸って、さらに汚れた空気を吐き出す。それをまた誰かが吸って、またさらに汚れた空気を吐き出す。繰り返し。

 ごみごみした町だ。人間が多すぎる。物が多すぎる。なのに、何もない。

 ここは人間が住めるような所ではない。だから、皆がみんな、少しでも自分が長く生き残るために、他人を蹴落とそうとしている。他人を蹴落として、相手から何かを奪いとって、それでようやくその日その日を生きていく事ができるのだから。

 町並みから目を背ける。水垢のせいだろう、コンクリートは染みだらけだった。その上に仰向けに寝転ぶ。こうすると、雲以外には何も目に入らない。

 黒い雲。湿った雲。それを押し流していく、冷たい風。

 雨、降らないかな。

 雨に打たれて、全身ずぶ濡れになって、自分自身も濡れた黒に染め上げてほしい。そんな気分だった。

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