七日目2
『万里の灯』に緑を残し、僕は聖蘭学園へと向かった。校門は、店の中から眺めているよりも、ずっと威圧感がある。思わず竦みそうになる足を押さえて、僕は門のすぐ脇にある守衛の控え所に向かった。馬鹿正直に正門から入るつもりなんか無かったけれど、守衛の感じから、大体の警備の厳重さくらいはわかる。それに、門から中を覗いても見たかった。
守衛所の前に立ち、窓から中を覗き込む。思わず全身の力が抜けた。
寝てる。気持ち良さそうに。女子校だからだろう、女性の守衛さんがくうくうと寝息を立てながら。これで良いのだろうか。きびしい噂の幾つもある聖蘭学園の門を守る守衛が、こんな事で良いのだろうか。
でも、考えてみれば、悪名が鳴り響いているという聖蘭学園に、わざわざ乗り込もうという奴もそうはいないのだろう。サラ金が5万円取り立てるために、ヤクザに50万円払うというのと同じである。一度取り立てに失敗すれば、他にも真似をしようという奴が必ず出る。そんな事は不可能で、しようとしただけでそれ以上の報いを受けるのだと思えば、そんな事をしようという奴はいなくなる。抑制効果という奴だ。それが十分に利いていれば、少しくらいは気を抜いていても大丈夫なのだ。
だからといってこれは、抜きすぎだろうとも思うのだが。何か裏があるのだろうか。しかし、理由が思い浮かばない。抑制効果を上げるためのスケープゴートの確保という考えもありうるけれど、その場合は潜入計画を事前に察知した場合に行うものだろう。ほとんど行き当たりばったりの僕の行動が、事前に察知できたとも思えないし、狸寝入りにも見えない。そもそも、こういう場合は拘束される危険性があるため、相手の眼前で寝ているなどという作戦行動は、普通取らない。留守を装って所定の場所に配置しているものだろう。となると、本当に寝ているのだろうか。何にしたって、この状況を見逃す手はない。狸寝入りだったとしたって、今ならいくらでも言い訳が利く。
何気ない風を装って、その実かなり怪しげな動作で、僕は守衛控え所の前を横切った。後ろから声が掛かってくることは、無かった。
ふう、と息を吐く。予定外に潜入に成功して、かえって緊張する。いずれにせよ、本番はこれからなのだ。ここから、どうすれば良いのだろう。
軽く辺りを見回してみる。外を回ってみて大体の大きさは把握していたつもりだったのだが、外からと中からでは感じがまったく違う。はっきり言って、これからどうしていいのか見当もつかない。彼女がここの生徒なのならば、確かにここには必ず来ているはずだ。来ているならば足跡も残しているはず。問題なのは、それを見たとしても彼女のものだなんて判断がつかないと言う事。こうして事態に直面してみると、今まで見えていなかったものが見えてくるものだ。
などと冷静に判断している場合ではない。こんな道の真ん中で考え事をしているなんて、見付けてくれと言っているようなものだ。とりあえず、これからどうするのか、それが決まるまではどこかに隠れるなりしたほうがいい。
「隠れ場所の前に、逃げ道を探したほうが良さそうですわね」
どうやら知らない間に、考えていることを口にしてしまっていたらしい。驚いて、声のした背後を振り向く。
びっくりした。体付きだけを見れば小学生にしか見えない。でも、その顔立ちや雰囲気を見れば、僕などよりもずっと成熟した大人のようでもあった。きつい、ではない「きっつい」まなざしが、僕を突き刺している。
まずい。この子を振り切って逃げること自体は大して難しい事ではないと思う。相手は女の子だし、運動など縁のない僕でも、この子よりは幾分ましなくらいな気がする。それに、何と言ってもコンパスが違う。僕の身長が幾ら足りないとしても、小学生のしかも女の子の身長とは幾らなんでもくらべものにはならない。
問題なのはその後だ。侵入者がいたとなれば、警備はそれに相応しいものになるだろうし、そうなってしまえば校内ではこれ以上の行動は不可能だろう。出て来るだろう守衛を振り切って外に出られたとしても、もうここに入ることなんて、二度とできなくなる。そうなってしまえば、もう彼女を探すことはできなくなってしまう。
そういう事態にだけは、何としてもする訳にはいかない。かといって、この状況がどうにかなるとも思えない。この「きっつい」まなざしをした相手を言いくるめられるような言い訳なんて思い付かないし、何より説明どころか、まともに喋れるかどうかすらかなり怪しい。
それでもなんとかしどろもどろ口を開いて、でも言葉が出ないでいると、僕に向けてその子は微笑を浮かべた。微笑みというよりは、嘲笑という類いの笑顔。
「泣けたら、見逃してさしあげますわ」
一瞬、相手の言葉の意味が分からなくて硬直する。見逃すはともかくとして、泣けたら? いやそれ以前に唐突すぎる。
訳がわからなくて戸惑う僕の様子に、多分それを予想していたのだろう、その子は楽しそうに笑ってみせた。さっきよりもずいぶんと自然な笑顔。ただ、何か裏がありそうなのは変わらないけれど。
「ここにいると言う事が、どういう事か知らない訳ではないのでしょう? ならば、それを押してここにいるだけの訳がある筈ですわ。それを聞いて、泣ける内容でしたら、見逃して差し上げます」
なるほど、話は見えた。でも。
まじまじとその子を見詰める。とりあえず、この子が普通の思考形態をしていない事だけは確かだった。すぐに騒ぎ立てられないのは有り難かったが、事態が変わったとは、余り思えない。
泣けるような話なんてないし、あったとしても、相手を泣かせることができるような話術なんて、僕にある訳がない。相手をいらいらさせて、かえって怒らせるのが精々だ。それに、相手が約束を守るかどうかすら定かではない。それでも、僕には選択枝は無かった。
「とりあえず、目立たない所に場所を移しましょう」
そう言ってその子はいたずらっぽく笑った。その笑顔が僕にはバッタの足をもぐ子供のそれに見えた。それも、自分のしようとしている事の意味を十分知っている子供の。