七日目1
「でさ、あんちゃん、これからどーする?」
ペプシを片手に緑が聞いてくる。
すっかり二人の待ち合わせ場所になっている、中央通りのちょうど真ん中辺りにある、ガードレール。そこに腰掛けて、二人で缶ジュースを啜っていた。
約束通り、緑はここで待ってくれていた。緑の存在が、今はとても心強い。誰かが側にいてくれることがこんなにありがたい事だったなんて、今まで知らなかった。もしいてくれたとしても、今までならば邪魔だとしか思えなかっただろう。
でも、彼女を探し続けることだけは決まっていたけれど、だからといって実際にどうしていいかなんて分からない。彼女の名前も住所も分からない、写真の一枚もあるじゃない。たよりになるのは唯一緑だけだけれど、その緑もどうしたらいいのか困っている状態だ。そして、帰らなければいけない時間は刻一刻と迫っている。もう時間もない。打つ手はひとつもない。
いや、ひとつだけ、方法がある。彼女が確実に訪れていて、確実にその足跡を残している場所。今まで、あえて目をつぶってきた。気付かないふりをしてきた。でも、もうそこ以外に頼れる場所はない。
「僕は、聖蘭学園へ行こうと思う」
短く、それだけ言った。でも、全ての決意を込めて。
「あんちゃん、本気か?」
めずらしく真顔になって、緑が聞いてきた。それ程危ない事なのだと分かっていた。今までにいろいろな噂を緑から聞いていた。実際に、聖蘭の門の前にまで行ってみもした。
「何度も繰り返すけどさ、聖蘭っていやあ良いとこのお嬢さまばっか集まってる分、男に対する警戒は万全。しかも親は大会社の社長とか政治家とか、尋常じゃない奴等ばっか集まってる所為で、掴まった後の恐ろしさは、普通の女子校の比じゃないって。校門から一歩入っただけの奴が、上からの圧力で仕事を馘になって、どこにも再就職できなかったとか、ブルマ一枚盗んだだけの変態が、豚箱に十年くらっただとか、どうしようもない噂なら腐るほどあるんだぜ。見付かったが最後、一生を棒にふる事になりかねない。そんだけの覚悟、あんの?」
緑が、僕の目をじっと見詰める。真剣な表情。本気で、僕の事を心配してくれているのが分かる。だから、嘘はつけなかった。
「そんな覚悟なんて、できる訳ない。彼女の為だけに、それもそうしたからって彼女の事が分かるかどうかもわからないのに、覚悟なんてできない。でも、そうしなくちゃいけないって、分かってるんだ。見付かったら後悔するさ。掴まったら、やらなければ良かったって思うさ。でも、しなくちゃいけない。やらなくちゃいけないんだ」
鼓動が早くなっているのがわかる。身体の震えが止まらないのがわかる。怖くて仕方が無かった。でも、やらなくちゃいけない。それだけが、今の僕を突き動かしていた。それに、彼女を追い求め続けると決心したとき、大概の覚悟は済ませていた。人間を止めることに比べれば、警察沙汰くらいはなんて事はない。
実際には、決意の堅さに反して、僕の足は笑ってしまっていたけれど。
緑はそんな僕をじっと見詰めていたが、やがて小さく息をついた。
「分かった。もう止めないよ。あんちゃんの人生だ。どう使おうと、あんちゃんの勝手だ。あんちゃんが、自分で何をしようとしているのか知った上で、そうしたいと思ってるなら、俺には何も言えないさ」
あきらめたような表情。でも、そこには幾らかの賞賛があるようにも見えた。緑も応援してくれている。僕のしようとしている事が馬鹿みたいな事だと分かった上で、凄いと思ってくれている。嬉しかった。そうだ。ひとりだけでも応援してくれている。それだけで、十分だった。
「でもさ、あんちゃん変わったよな。最初に会った時はさ、なんか頼り無くってさ。このままほっといたら、次の日には冷たくなっていそうだったのに」
思わず苦笑。でも、言い得て妙かも知れない。確かに、その頃の僕は死んでいたのだと思う。かろうじて息をしているだけのただの屍。でも、今は自分でも分かるくらいに生き生きしている。多分それは、
終りが近い事に気付いているから。
どんな結果になるにしても、少なくとも今現在ここにいる、僕という存在は終りになるだろう。だからこそ、いずれ触れることのできなくなるだろうこの世界が愛しい。もうすぐ失ってしまうのだから。もう二度と手にすることはなくなってしまうのだろうから。
少なくとも、今と同じ気持ちでは見られないことだけは間違いないだろう。
聖蘭学園正門前まで来る。異様に大きいその門構えの正面に、『巴里の灯』という名の喫茶店があった。『名物・ばけつぱふえ』とかかれた看板を横目に、店内に入る。看板の下の方に、『20分で食べ切ったら1万円』という文字に消し込みがされている。名の知れたお嬢様学校の前でもこういうのが在るんだな、などと変なところに感心してしまった。
とりあえず、聖蘭学園正門が見える場所に席を取る。
「・・・ひとり、聖蘭に詳しい奴を知ってる。あんまり頼りたくないんだけどさ。背に腹は代えられないってーし。ちっと電話してくるから」
注文を済ませると、そう言って緑は店の隅に備え付けられた公衆電話に向かっていった。
途端に、心細くなる。公衆電話はここからでも見えるすぐの所にある。離れているという程の距離でもない。大きな声を出しただけで分かる程度。でも、確実に離れた場所にいる。ただそれだけで、こんな心細い気分になってしまう。ここからはひとりで行かなければならないのだという思いがそう感じさせているのだろう。同時に、他人にこんなに頼り切ってしまう自分の変わり様に、少し驚きもする。
いや、多分違う。変わったのではない。きっと今までもずっと、誰かに頼りたかったのだ。
でも、頼るような相手などいない。頼るどころかかえって傷付くだけだと思っていた。だから、必要最低限でさえ、誰かと関わろうとはしなかったんだ。誰も頼りにできなくても、誰からも傷付けられ無ければ、何も変わることはない。良くもならない変わりに、悪くなることだってない。下手な事をして悪くなってしまうよりはずっといい。そう思っていたんだ。そのこと自体が自分を傷付けているのだという事に、気付かないふりをしながら。
「駄目だ、つかまんねーよ」
緑が戻ってきた。どうやら目的は達成できなかったらしい。機嫌が悪そうな表情をしている。
「碧のやつ、携帯の電源切ってやがる。臨時回線の方は知らねーしな」
その碧というのが緑の言う、聖蘭にくわしい奴、らしい。連絡が取れないのなら、意味はないのだけれど。
「でー。どうする? 連絡取れるの待ってたらいつになるかわかんないけど、案内もなしじゃ危なすぎるぜ。暫く待った方がいいと思うけど」
緑が僕の表情を伺いながら言う。僕が何と答えるか、大体わかっている表情。
「時間がないんだ。何時になるか分からないことを待ってる訳にはいかない。このまま行こうと思う」
案の定、やっぱりね、やれやれという表情。それでも見切りをつけようなんて考えは無いらしい。とことんのお人好しに、緑の行き先が不安になってしまう。
「・・・ま、そう言うだろうとは思ってたけどさ。仕方ねーな。あんちゃんひとりだと心配だから、おれもついていってやるよ」
正直いって、その緑の申出は有り難かった。「緑は中に入った事は?」
「いや、それはないけど」
「だったら、ひとりで行った方が良い。中の事が分かる訳でもないんだったら、下手に人数が増えると、見付かりやすくなるだけだ」
だからこそ。受けられなかった。緑を巻き込む訳にはいかなかったから。
「それは、確かにそうかもしれないけど・・・」
「緑。これは、僕自身の問題だ。僕のために、それも必要無いのに君を危ない目に合せる訳にはいかない。そんな事になったら、自分自身で決めたことも後悔することになる。僕が、自分の力でやらなくちゃならないんだ」
じっと、緑の瞳を見詰める。緑は怒ったような、困ったような表情をしていたが、やがて呆れたように大きく息をついた。
「まー、ね。あんちゃんがそうしたいってんなら、おれにゃ止められないけどさ。・・・言わなくてもわかってるなんて百も承知だけどさ。でも、気をつけて」