六日目
やはり、僕の来るべきところはここしかないんだな。
意識した訳でもないのに、何時の間にかここへ来てしまう自分に苦笑いする。
あの桜の木。
いつも通りの公園。開き具合こそ違うけれど、いつも通りの桜。それは、まるで一週間前のあの日から、何も変わっていないように思えた。
そう、僕自身の変わり具合と比べてみれば。
桜の花びらが舞う。ほとんど満開に近くなっている桜。明日か明後日あたりが一番の見頃だろう。
昨日は、形代さんの家を出た時点で緑と別れていた。そうなることを、ある程度くらいは予想していたのだろう。緑は別段驚いた風もなく同意してくれた。明日も同じ場所で待ってる、とだけ言って。
待っていただろうか。多分、待っていただろう。昨日のように、また女の子に声でも掛けながら。声くらいはかけてくるべきだっただろう。でも、なんとなく面倒だった。ひとりだけになって、じっくりと考えたかった。
桜の木の根元に腰を降ろす。空は抜けるように蒼かった。
何を考え、いかな判断をし、どう行動するか。僕が決めなくてはいけない。僕がすることなのだから、僕が決めなければいけないのだ。
人間は人間と結ばれるべきだ。形代さんの言う通りだと思う。月の夜の彼女に出会ったとき、分かった。彼女のような・・・形代さんの言う人外とは、人間はあいいれないものなのだ。今はある程度落ち着いているからいいが、一昨日の恐怖を幾度と無く再経験させられるのだと思うだけで、僕の中にわずかだけある事に最近になって気付いたなけなしの勇気も萎え萎み、その存在を消してしまう。
でも、その一方で。わかりたいと思っている自分が確かに存在している。あの時、僕は確かに形代さんとわかり合えると、わかり合えたのだと思った。ただの勘違いかも知れない。まだ分かっていない部分に、決して分かり合う事のできない部分があるのかもしれない。だけど、たとえ誤解でも、わかりあえたのだと、そう思う事だけはできたのだ。
空には雲がひとつだけ、ぽかんと浮かんでいた。ゆったりとたゆたうその雲を眺めながら、僕は考えると言うより、ただぼーっとしていた。時間はない。でも、焦りもない。今までのように、どうでもいいと諦めている訳でもない。どうしていいのか分からないのに、心は何故かこの空のように澄んでいた。生まれて、多分初めて。
「くすくす・・・」
聞いたことのある笑い声。たった一度だけ、ほんの幾日か前に聞いたばかりなのに、なぜか懐かしい気がした。
ほんのわずかな距離を開けて、あの女性がいた。この間と同じ着物姿で、こんな距離に他人が腰を降ろしたら、気付かずにはいられない程度の距離に。なのに、何故か僕はまるで驚いてはいなかった。始めて会った時もそうだったし、ましてや一昨日、昨日のような事を経験した後では、大概の事は大した事ではないのだから。
でも、それ以上に。
ああ、と僕は納得していた。そうか、僕は知っていたんだ。この人と、もう一度出会うのだと言う事に。そして何よりも、何故この人と僕が出会ったのかを。
「どう? 彼女は。見付かった?」
変わらない笑顔。自分のした質問の答えは、多分わかっているのだろう。ただ、僕の言葉を促すためだけの台詞。だから、質問に対しては、僕はただ軽く首を横に振っただけだった。
「待つこと・・・って、どんな事でしょうか・・・」
本当ならば唐突に過ぎる筈の僕の質問に、しかしその女性は驚かなかった。うーん、といつも通りの他人に見せるためのしぐさで悩んで見せながら、空を見上げる素振りをしてみせた。
「そんな難しいこと、私にはよくわからないけど・・・」
この間と同じ。全部分かっている、というような微笑み。でもあの時のようには、今は苛立たしくはなかった。それどころか、なんとなく安心しさえする。変われば変わるものだ、と自分の事ながら意外な感じ。多分、あるものをないとつっぱねる事ができるだけの余裕がなくなっているだけなのだろうと思うけれど。
「私の知っている、好きな人を待ち続けている女の子の話しをしてあげる。何かのヒントになるかもしれないし」
僕はただうなづいた。なんとなく腰の座りが悪い気がして座り直す。
「むかしむかし、ある所にひとりの娘がいました。その娘はね、活動的で、新しいもの好きで、その当時理想とされていた女性像からは激しく逸脱していて、周囲の大人たちからは眉をしかめられるような娘だったの」
その様子を思い浮かべたのか、その女性はくすくすと笑う。その表情を見ながら、僕にもその様子がありありと想像できた。
「でもね、そんなでもその娘には好きな人がいたの。その人はねえ、その娘の幼馴染みで、なんていうか・・・そう、これ以上はない甲斐性無しだったの」
びっ、と僕の目の前に人差し指を突き付けて、そう言った。胸にずきんときた。甲斐性無し。
「でもね」
そんな僕の様子がおかしかったのか、またくすくす笑いながら後を続けた。
「その代わり、とっても優しくて、思いやりがあって、約束は必ず守る、根性だけはある人だった。女の子は、その人のそういう所、大好きだったの。子供の頃から、ずっとね。でも、その人には好きな相手がいて、・・・その相手は、その娘の目から見てもとっても綺麗で、上品で、お金持ちのお嬢様で、もう非の打ち様がない位、いい女だったのよ」
その相手の事を思い浮かべでもしたのだろうか。怒ったような、羨ましいような口調になった。
「その娘はね、絶対、自分なんかと一緒になるより、その相手と付き合った方が幸せになれるって思ったの。その相手も、その人の事、悪く思ってないみたいだったし。やっぱり、見てる人は見てるんだよね。失恋するんだな、っていう悲しさより、こんな綺麗な人が、自分の好きな人の事、認めてくれてるんだって誇らしい気持ちの方が強くってね。だから、その娘は自分の気持ちを隠して、ただの、仲の良い幼馴染みの役に徹していたの。好きだからこそ、その人に幸せになってほしいって、ね」
視線がこちらを向いた。その瞳に込められた、愛しさ、切なさ。まるで、『あの人』を見ているようなまなざし。自分が『あの人』になって、そのまなざしが自分に向けられているかのような感覚に、心臓がどきどきいった。
「いずれ、友達でもいられなくなっちゃう。だって、いくら友達でも、男と女があんまり仲良くし過ぎてると、恋人は不安になっちゃうでしょ? だから、あの人が幸せをつかむその日まで、少しでも長く、親しい友達としてでいいから、一緒にいたいと思ったの。長くは、続かなかったけど、ね」
自嘲するような、寂しげな微笑み。
「その頃はね、ちょうど、戦争が激しくなってきた時期だったの。情報操作だっけ? されてて、その頃は詳しいことは誰も知らなかったんだけど、日本は負けが込んで来て、戦死者も鰻登り。さすがに、不安を感じ始めてきた頃だったな。その人にね、来たの。俗にいう、赤紙。招集令状ってやつ。暫くは、呆然としてたかな。でもね、いつまでもそうしてはいられなかったの。だって、時間が無かったから。それでね、その人のところに行って、開口一番何ていったと思う? 『その相手を連れて早く逃げて』って」
その様子を想像しているのだろう。この短い期間で、すでに聞きなれたくすくす笑い。
「馬鹿だよねー。何の前振りもなく、逃げて、って言ったって、わかる訳ないのに。でもね、やっぱり幼馴染みで長い間一緒にいたせいかな。それだけでわかってくれたの。うん、それは良いんだけど、その人その後なんて言ったと思う? その相手の人とはそういうのじゃない、確かに彼女には憧れていたけど、好きだとかそういうのとは違う、だって。もう、どうしようもなく頭にきちゃって。だって、そうでしょう? 私の今までの苦労は一体何だったのー。それで大喧嘩しちゃってね」
はーあ、と溜め息。わかってはいるんだけどね、という表情で苦笑してみせる。
「でも、戦争に行くその人を見ていたら、やっぱり、駄目だった。我慢できなくなって。なんでもいいから逃げて、って言っちゃったの。そしたらね、その人言ったの。それはできない。そんな事したら、大手を振るって君と一緒になれないから。もう、目が点。あれ、言ってなかったっけ? って初耳だよー。でね、言うの。人から後ろ指さされるような事をして幸せになんてなれる訳がない。だから行かなくてはならない。でも必ず、何があっても帰って来るから、そうしたら一緒になろうって。約束をしたの。この桜の木の下で。それから暫くして、戦死の通知が届いたわ。でも、その娘は待ち続けたの。何年も、何年も。ずっと、この桜の下で。ろくに食べる物もないその時代にそんな無理を続けていたからかな。病気で死んじゃうまで、ずっと待ち続けたの。ううん、死んでからも、ずっと。その娘の想いの詰まったこの桜の下で。自分が死んでからも待っているんだもの。その人だって、死んでからも約束を守ってくれる筈だもの。だって、約束したもの。必ず帰ってくるって。だって、知っているもの。必ず帰ってくるって。そう。『信じてる』んじゃないの。『知っている』の。今じゃないけど、その人は帰ってくるの。ただ、まだそれがおこっていないだけ。ただ、余分な時間がかかっているだけ。方向音痴だから、あの人。だから、待っているの。例え、」
そこで一度言葉を切り、満面の笑顔で。
「人間じゃなくなってしまったとしても」
ああ、そうなんだ。人間のままでは約束を守れない。人間のままでは待ち続けることができない。人間には、死んでからも待ち続ける事はできないから。だから人間ではなくなる。至極当然の事だ。
「何時の間にか、すっかり日も落ちちゃったね」
言われてみると、確かに周囲は夕暮れの紅に支配されてしまっていた。いつの間にか、かなりの時間が経ってしまっていたらしい。
「ね。その娘はね、いつもはこの桜の木の下で眠っているんだけど、誰かが強い思いを持ってこの桜の木の下で誰かを待っていると、ついついその人の前に出て来ちゃうんだって。だから、その娘に会えた人は、それだけ強い想いを持っているんだよ」
言いながら、立ち上がる。その女性は夕焼けの紅の中で、着物のお尻を軽く叩きながら、いつもの笑顔を僕に見せてくれた。
「さて、と。言いたい事も言っちゃったし。私、そろそろ行かなくっちゃ」
「あの・・・」
振り向こうとしていたその女性に、僕はためらいがちに声を掛けた。このまま別れてしまうのは、なんだか心残りになってしまう気がしたから。
「何?」
優しい微笑み。それを見た瞬間、何を言えばいいのか困っていた僕の中で、何かが氷のように解けていくのが分かった。
「その二人、早く会えるといいですね」
「うん」
視線を合わせて、何となく微笑む。そうか、この程度の事で良かったんだ。誰かと会話をしたり、誰かと関わったりするなんて事は。何も悩むことなんてない。困ることなんてない。ただ心に浮かんだことを口にするだけで良いんだ。自分の心を隠さずに、隠そうとせずにしてさえいれば、それだけで。
「それじゃあ、ね。あなたもその彼女に早く会えるように、私も願っているわ」
それまでも舞っていた桜の花びらが、一瞬だけ乱れ舞う。その桜吹雪に思わず瞼を閉じ、遮られた視界が戻ったとき、その女性はもういなくなっていた。
これからも、ずっと待ち続けるのだろう。時間は幾らでもあるのだから。今までも、そうして来たのだから。
もうすぐ辺りを染める夕焼けも、夜の帳に覆い尽くされてしまうだろう。また、夜の闇がやってくる。
でも。さっきまではあれほど怖くてたまらなかった夜の闇が、今はずっと身近なものに感じた。恐怖は依然として存在している。でも、それ以上に闇を心待ちにしている自分がいる。確かに、夜は怖い。人間の支配する昼とは全く違うもの。でも、それを受け入れることはできると思う。わかり合う事ができなくても、受け入れる事はできるはずだ。そう、僕にとっては他人も人間以外のものも、一律に分からないものでしかない。でも、今なら他人を受け入れることができると思う。例え、わかりあうことがないのだとしても。だから、人間ではないものも受け入れることができると思う。
だから。早く、夜になってほしい。彼女が住んでいる、その世界に。