五日目4
ドアが締まると、途端に空気が重苦しくなる。尤も、それを感じているのは僕だけだろうが。さっきまで緑のせいで和んでいたのに、まるで気温が十度くらいは下がってしまった気がする。でも、だからといって惑ってはいられない。その為にここにきたのだから。その為にここに来る決心をしたのだから。
「あ・・・あなたに、聞きたいことが・・・聞かなければならないことがあります」
さっきと内容がほとんど変わっていない。言ってしまってから、ちょっとだけ恥ずかしい思いに囚われていた。でも、形代さんはただ、視線で話の続きを促しただけだった。
「人間と、人間以外が結ばれるなんて事、・・・あると思いますか・・・?」
形代さんは少しだけ目を細めて、それからティーカップを口に運ぶと、僅かに喉を鳴らした。喉仏の無骨な膨らみなどまったく見えない。だからといって男でないと決まった訳でもないけれど。
「その、人間以外という定義の内容によるな」
言葉と共に、今までの無表情からは想像できない激しい表情が浮かぶ。僕を真っ直ぐに見詰める視線。射抜かれるようなその鋭さに、体が戦慄する。
明確な殺意。僕を、殺そうと言う意思の込められた視線。僕の意識によるものではない、本人がそうしようとしての視線。身に危険が及んでいるのを、本能が察知していた。
殺される。間違いない。野生の虎に喉笛を喰い千切られて生きていられるかというレベルで。
戦うなんてのは問題外だ。蟻が一匹で象に噛み付くようなものだ。皮膚の痛覚まで牙が通りすらしないだろう。全身に震えがくる。逃げることすら不可能だ。僕が立ち上がって後ろを振り返る前に、全ては終わっているだろう。
確実な死の予感に、全身の筋肉が緊張し、防御する事でほんの僅かでも生き延びる事のできる確率を高くしようとしている。・・・無駄なことだとわかってはいても。
不意に、その僕を縛っていた視線がとぎれる。さっきの殺意など微塵も感じさせない笑顔で。始めて会った時のあの作られた笑顔で。
分かっていた。先程のは警告なのだと。これ以上同じ話をするのなら、命をかける必要があるのだと。
それでも、僕は。
「・・・化け物とか、妖怪とか、まっとうな生き物ではないものの事です」
多分、昨日の彼女に会っていなければ、僕はここで逃げ帰っていただろう。余りの恐怖に、死という名の喪失に耐えられなくなって。
でも、昨日の恐怖に比べれば、そんなものは大した物では無い。死よりも恐ろしいものがあるという事を、知ってしまった今となっては。
それでも、恐怖自体は拭えていないのだけれど。
でも、今度は形代さんの視線は変わっていなかった。表情を現さない顔のまま、口を開く。
「人間と、異形と呼ばれた物の化たちとの婚姻は、普通思われているよりも頻繁に行われている。異形・・・と言っても人型のものも含まれる以上、異形というよりはここでは人以外のもの、人外と言おう。人外に女がさらわれたと言う話しなどは枚挙に暇がない。酒呑童子しかり。だが・・・おまえが聞きたいのは、そんな強制で結ばれた関係ではなく、恋情が発生され得るのか、だろう?」
変わらない、表情を表さない瞳。それに気押されて、僕はただうなずいた。下手に動いたら、今のこの・・・何故か大切なのだとわかっている場がなくなってしまいそうだったから。
「人外も人間相手に恋に落ちることがある。鶴女房、雪女くらいなら知っているだろう。。はっきり言おう。人間と人外の間でも、恋情は起こる」
僕を真っ直ぐに見詰める瞳。僕の心の動きを見切ろうとしているような。恋愛感情は起こり得る。結ばれることもある。人間ではない相手でも。
「だが、いずれは終局が訪れる。大概は、人間の側から。見るなと言う約束を破られ、鶴はそこにはいられなくなった。人に言うなという言葉を破られ、雪女は男の元を去った。約束を違えられさえしなければ、暫くの間だけでも、共にいられただろうに」
相変わらず、その瞳には何の感情も込められてはいない。なのに、僕は何故かその様子が寂しそうに、見えた。
「で・・・でも、確かに約束を破ったのは悪かったと思います。でも、だからといって愛情が薄れたとか、そういう事じゃないでしょう。人間じゃないからって・・・」
「違うな」
形代さんが僕の言葉を遮る。何もわかっていないな、という仕種。
「鶴が去ったのは、人ではないと言うことを悟られたからだ。人でなくては愛されないと言う事がわかっていたからだ」
「でも、夕鶴では、去ったおつうをずっと求め続けていたじゃないですか」
食い下がる。僕の柄ではないと分かっていたが、何故かそうしてしまっていた。
「夕鶴が書かれたのは何時だと思う? もはや街からは夜の闇も払われ、隣り合わせで存在していた人外たちが、その存在を忘れられていた時代だ。当然、恐怖などはすでに忘れ去られ、人外も人間と大差ないものとしての認識しかない。物語としての美しさだけが求められ、実際の人外に対する感情など二の次で、内容から読み取るのもまず無理だ。そんな時に書かれたものが、どれだけ判断の基準になる? それに、だ。おつうのことをいつまでも思い続けていることができたのは、それを失ったからだ。人外は、人間にとって所詮恐怖の対象にしかならない。だから、正体に気付かれたら、相手が恐怖を覚える前に、相手の前から姿を消す。自分を見て恐怖におののく相手をなど、見たいはずはない。人は嫌な事を良い思い出に、恐怖を美しい思い出に変える事ができる。人間には忘れると言う能力があるからだ。嫌な事を忘れ、良い部分のみを思い出にし、恐怖を忘れてその美しさのみを記憶に残すことができる。そうしなければ、人は生きて行けないからだ。しかし、常に相手が側に居ればそれもできない。最初のうちは良くても、顔を会わせる度に恐怖は塗り替えられ、相手が人ではないという嫌悪感は追加されていく。いつか必ず臨界点がくる。それが分かっていたから、どんなに呼ばれても、恋しくても、戻らなかった。嫌悪され、恐れられるよりは、例え会えなくとも、思い出の中で美しいままで居たい。だから、会いたいという想いに耐えた。別れたからこそ、お互い美しい思い出として、想いあっていられるからだ」
確かに、その通りかもしれない。僕が今ここにこうしているのだって、昨日のことが、すでに過ぎ去った過去のことだから。言ってしまえば、喉元を過ぎているから、ここにこうしていられるのだとも言えると思う。
でも。それでも、例外がまったく無かったなんて言えないと思う。恐怖よりも、愛情が勝ることだって、ある筈だ。
僕のその不満そうな表情に気付いたのだろう。形代さんが口を開いた。
「雪女が男の元を去ったのは、雪女に会ったと言う事を人に話さない、という約束を破ったと言うだけで、しかも相手はその当の雪女だ。自分の女房が雪女だなどと正体に気付いてすらいなかった。いや、似ている事には気付いていたのだから、あるいは鎌掛けだったのかも知れないが。だが、少なくとも、確信は無かっただろう。なのに、何故雪女はわざわざ正体をさらして去っていったと思う? 人外が人間に恋をし、結ばれたいと思った。もちろん、本来なら結ばれる事のない間だ。それが結ばれるために、何が必要だと思う? 正体を晒すことで相手を失ってしまうかもしれない。だから相手には話せない。騙していたのだと、詰られるかもしれない。だから打ち明けられない。一方的で自分勝手なようだが、だからこそ、相手に頼ることができない。自分の中だけで形をつけるしかない。ならば、何ができる? どうしたらいい? できることは唯ひとつ、信じることだ」
信じる・・・事?
何を? 自分だって信じられないのに、何を信じられると言うのだろう。
「・・・もちろん、何もなしに相手を信じることは難しい。だから、約束を交わす。相手がこの約束だけでも守っていてくれる限りは、相手を信じられる。約束を守っていてくれさえすれば、相手が人間ではない自分でも、愛してくれるかもしれないと思う事ができる。確かに、人間の側は約束を破ることによって何を失うかなど分かってはいなかった。でも、だからこそ約束を違えない事に価値があった。だから信じることができた」
でも、なんとかなったかもしれない。努力すれば、きっと。・・・恐らく。・・・多分・・・。
僕の多分頼り無くなっているだろう表情を眺めながら、形代さんは少し冷めてしまった紅茶で喉を潤した。
緊張のせいで僕も喉が乾いていた。ティーカップを口まで持ってくると、まだ充分香りが鼻孔をくすぐる。香りと一緒に紅茶を口に含む。ずっと緊張し通しだった体がリラックスする。カップを戻そうとして、ずっと置きっぱなしになっていたクッキーの小皿に目がいった。なんとなく手にとり、形代さんの方を見る。すぐに話を再開するつもりは無いらしい。ひとつ口に運ぶ。舌の上で融け崩れる。・・・おいしい。
「・・・さっきも言ったが、人間にとって人外などと言うものは、所詮恐怖の対象にしかならない。そもそも、人間と言うものは自分と違うものを許容できない生き物だ。種族が違う、と言うのならまだしも、ふたつに分けられただけで、元は同じ国だった同士で平気で殺し合いができる。ましてや人間ですらないものを受け入れられる訳がないだろう」
・・・確かに、人間なんてものは親だろうが子供だろうが、自分にとって邪魔になれば、殺してしまうような生き物だ。自分は違うなどと言い切れるだろうか。何よりも自分自身を一番信じていない僕に。
「自分とは違うと言う事は、自分とは違う考え方をすると言う事だ。何を考え、何をしようとしているのかなど、予想すらできない。友好的な顔をしていたとしても、その裏で何を企んでいるのかなど、わかりはしない。ましてや、人外のほとんどは人とは比べられない力を持っている。もし本当に友好的だったとしても、何かの拍子に怒り出しでもしたら、それだけで何十単位での死人が出かねない。もし害意が無かったとしてもだ。力の加減を少し間違えただけで、大変なことになる。例えば、人に慣れた虎が町中をうろついていたとする。じゃれつこうとして前足を払っただけで、人間の首などは平気でふっとぶ。まあ、ちゃんとした環境で育っていれば、そうならない力加減を分かっているものだが、それはこの際関係ない。問題なのは、人間を殺せるだけの虎がいるということだけだ。その虎をどうする? そのまま街を徘徊させておくか? そんな事はできないな。死人も怪我人も出ないかもしれない。しかし、もしかしたら人間が死ぬかもしれない。人間が死ぬ可能性が僅かでもあるのならば、それよりは虎が一匹確実に死ぬほうが良い。人間にとっては、虎よりも同じ人間の方が大事に決まっている。そうでないと言うのなら、その方が余程問題だな。要するに、人外は人間にとって、駆除すべき対象以外の役割はあたえられない」
それは違う。違うと思う。もしそうなのだとしたら、僕の今抱いているこの気持ちは何なのだろう。昨日は確かに恐怖をしか感じなかった。でも、今ではそれよりもずっと強い感情で彼女を求めている。彼女の事が外敵だとしか認識できないのだとすれば、こんな感情を抱いてなどいやしないはずだ。
「結論としてはだ。私の意見が聞きたいと言うのなら、止めろと言っておこう。人間が相手を愛し、人外もその相手を愛したとしても、いずれは破綻する。不幸な結末がやってくる。そうでなくても、周囲の不理解が、迫害となってのしかかってくるだろう。人外は一生正体を、身を隠して生きていかなくてはならない。だが、限界がある。人ではないが故に、人ではない行動が必ずあるからだ。それを一生隠し通さねばならない。どうする? 一緒になって隠し通すか? 一年三百六十五日、一日二十四時間、気の休まる間もなく、息をつく暇も無い。体の疲れは心を疲弊させ、やがて苛立ちの対象は、その苦労の元へと向かう。当然の結果だ。そうなってしまった人間のせいではない。何かが悪かったのだとすれば、それを乗り越えられるという甘い判断だろう。だから、人間はあくまで同じ人間と交わるべきだ。人外を相手に恋情を覚えるのは、ある意味仕方のない事かもしれない。だが、それはただの思い出にしておくべきだ。でなければ、やがては身を滅ぼすことになる」
言う事いちいちが、尤もだと思う。国際結婚というだけで、充分な苦労を強いられるのだ。ましてや相手が人間ではないなどと。苦労だけでは済まないことになるなんて、考えなくても分かる。
「でも・・・」
でも。自分でも気付かないうちに口を開いていた。しかし、それだけ言って、口を閉じる。その後何と言おうとしていたのか、自分でも分からなかったから。
でも。その言葉だけが胸の中を木霊する。短いけれど、とても大事な言葉。
「でも・・・」
僕の言葉の後を継ぐように、形代さんが繰り返した。
そして、薄く笑った。目を細めただけの、笑いとは言えない程度の笑い。でも何故だか、それが今までに見せたどんな表情よりも、優しげに、見えた。
「私の意見は、あくまで私の意見だ。それを聞いた上で何を考え、いかな判断をし、どう行動を起こすかは、本人の自由だ。人外相手の恋情を通そうなど、通常の人間の判断から見れば狂気の沙汰と言えるだろう。だが、その上でまだ自分の想いを通すと言うのなら・・・」
ああ、そうなんだ。確かに、金属には体温がない。それは、人間にとっては冷たいものに感じる。でも、体温がないからと言って、暖かみがないというわけではない。気温と同じだから、気付かないだけなのだ。
「・・・それは、凄いことなのだと思うよ