五日目3
程無く、再び扉が開いた。
「ご主人様が、・・・お会いに、なられるそうです。・・・どうぞ、こちらへ・・・」
おどおどした表情は変わらなかったけれど、丁重な態度で屋敷の中へと迎え入れてくれた。こんな態度で迎えられた事がなかったのと、こんな立派な屋敷に入ったことが無かったのとで、かなり緊張していた。緑は、いつものままだったけれど。慣れていたからだけなのか、地が変わらないからなのか分からないけれど。
玄関の中に踏み込んで、真っ先に目に着いたのは、夥しい数の人形だった。その幾つあるかも分からない数の瞳が、一度にこちらを向いた気がした。
人形がこちらを向くなんて有り得ない。そんな事は分かっていた。でも、この家なら、あの人の住む家でなら、何があってもおかしくない気がしていた。その視線の中を、メイドさんに連れられて横切っていく。量産品でも一体一万円くらいはするだろう。ましてやこれだけの表情と存在感のある人形だ。全部合わせれば、一体幾らになるのだろうか。
玄関のすぐ脇にドアがある。メイドさんはそこで止まると、ドアを開いた。
「こちらに・・・なります」
そのまま、ドアを押さえて待っている。多分、先に入れと言う事なのだろうが、なんとなく戸惑ってしまう。金儲けしか考えていない父親のせいで、それなりに裕福な生活をしてきたという自覚はあったけれど、それでもあくまで一般家庭のレベルでだ。メイドさんにドアを開けてもらうなんて経験は、さすがにしたことがない。
躊躇している僕の前を、当然なような顔で緑が横切っていった。こういう時、こいつの図太さは助かる。内心ほっとしながら、緑の後について部屋に入った。
部屋の中は、アンティークな応接セットがその中央を占拠していた。こういうものの価値なんて僕にはさっぱり分からないけれど、古さと状態の良さだけはなんとなく見当がつく。そして、この部屋にも夥しい数の人形が飾られていた。その視線に居心地が悪い。でも、やはり緑はそんな事は気に留めすらしない。ここでもまるで当然のように、どっかりとソファに腰を降ろしていた。
「こちらで、・・・少々、お待ちください・・・」
僕たちに向かって頭を下げると、メイドさんはドアを閉じた。何となく、僕は息をついた。
「な、な、さやねぇちゃん、可愛かったろ」
確かに、この街に着てからかわいい娘は結構見掛けたけれど、その中でもかなり上位に入るだろう。僕にとってはいらつかされるだけのおどおどした表情や態度も、見るものが見ればかえって良いという事になるのかも知れない。殊に緑はそういうタイプだろう。
「うん、そうだね」
あながち、相手に合わせただけという訳でもない返事。緑はふふん、と、まるで自分が褒められたかのような、自慢げな笑みを浮かべていた。
「そうだろうそうだろう。ま、可愛いものに対する感想は万人に共通と言う事で」
何がそんなに嬉しいのだか分からないが、やけにはしゃぐ。まあいつもの事なのだが、いつもと比べても今は妙にテンションが高い。
と、不意に不安そうな顔になって。
「あー・・・でもさ、あんちゃんには、好きな彼女がいるんだよな?」
ああ、なるほど。そういう訳か。苦笑いする。別に、緑と恋の鞘当てしようなんて思っていやしない。
こんこん、とドアがノックされる。
「・・・失礼、します・・・」
がちゃり、とドアが開かれた。
ドアを開けたメイドさんが脇に退く。その後から現れる。あの時のあの人。間違いない。当然ではあるけれど。
あのときと同じ、なんの体温も感じさせない無表情のまま、形代さんは部屋に入ってきた。全身が硬直する。覚悟と心の準備とができていたので、始めて会った時ほどではない。動けない程でも、逃げ出してしまうほどでもなかったけれど、やはり全身を支配する恐怖。
「お手間を取らせてしまいまして・・・申し訳ありません」
なんとか言葉を絞り出す。これから、この人と面と向かって言葉を交わさなくてはならないのだ。いつもならうっとおしいだけの決まり切った挨拶の言葉が、練習替わりになって、今は有り難い。
形代さんは、仕種で僕に緑の隣の席を勧めると、その正面に腰を降ろした。
こういう屋敷に住んでいるような人間は、横柄で自分が他人とは違うなどと勘違いした奴ばかりだと思っていたが、この人はそんな風ではなかった。ソファに腰掛ける姿も優雅で、踏ん反り返って人を見下す様子など微塵もない。尤も、他人を見下すような感情など、あるのかどうかもかなり怪しいものだけれど。
何かを待っている様子。気付いて、慌てて腰を降ろした。
「それで?」
短くただひと言、それだけを言う。促されて、でも少し躊躇して、僕はようやく口を開いた。
「貴方に、聞かなくては・・・話を聞かなくてはならない事があるんです」
見詰める。威圧感はあるけれど、けして押し潰されてしまうほどではない。そもそも、この人が威圧感を発している訳ではない。この人を前にして感じる恐怖から、僕が勝手に威圧されているだけなのだ。
「聞こう」
なんの感情も感じられない声で、それだけを言う。迷惑に思っているのか、少しくらいは興味でも感じているのか。それすらも分からない、感じさせない声で。
ここに来るまで、ずっと頭の中で組み立てていた言葉が、すっかりと抜け落ちてしまっていた。何を話していいのか、分からない。幾度か声を出そうと口を開いて、でもやはり黙り込んでしまう。気は焦るけれど、何にもならない。そんな僕の様子を、形代さんは焦れるでもなく、促すでもなく、ただじっと見詰めていた。
こんこん、とドアがノックされる。焦燥の堂々巡りから、はっと我に返った。
「失礼・・・します」
「どぞぉ」
脳天気な緑の声が響く。すっかり忘れていた。ずっと黙ったままだったので、まだいたことに気付かなかったのだ。誰も喋らなければ、ひとりで騒ぎ立てているような奴なのに。
「お茶を・・・お持ち、しました・・・」
ティーセットの乗ったキャスターを押して、先程のメイドさんが入ってくる。
僕は随分と意識されているらしい。良い意味ではないようだけれど。テーブルの脇で立ち止まり、手元で紅茶をティーカップに注ぐと、わざわざ後ろに回り込んでから、邪魔にならないような位置からテーブルに置く。その脇に、一人分に取り分けたクッキーの小皿。クッキーは、既製品のような、皆同じ形の物ではない。客から配り始め、最後に屋敷の主人である形代さんに配り終わると、キャスターを脇に自分の主の斜め後ろに控える。
立ち上る紅茶の香気に、僕は喉が乾いている事に気付いた。この人を正面に見据えているのだ。当然と言えば当然だろう。
「いただきます・・・」
少し居心地の悪い思いをしながら、ティーカップを口に運ぶ。微かな渋み。舌にきついほどでもなく、物足りないほどでもない。家で良く飲まされているのと同じ葉だと思う。でも、味が全然違う。
喉が潤ったのと、一息ついたおかげだろう。ティーカップを戻す頃には、僕は会話を始めることができるだろう程度には落ち着いていた。
ふうっ、ひとつ息をつき、口を開こうとして、ふと周りが気になった。緑は形代さんの座ったソファの空いた側の背に腰掛けて、一生懸命メイドさんに話しかけている。
これから僕は、言うなれば自分は人間ではないと認めてください、とお願いする事になるのだ。そういう話を、部外者である緑と、この気の弱そうなメイドさんの前でしてしまってもいいものなのだろうか。
「あの・・・」
僕の視線の意味に気付いたのだろう。
「さや」
「は、はい」
形代さんに急に声を掛けられて、メイドさんは戸惑った声をあげた。いいところを邪魔されて緑がふくれる。
「席を外してくれ」
「あ・・・」
一瞬、迷った様子を見せたが、直ぐに、
「・・・はい、かしこまりました・・・」
承諾の返事をする。でも、やはり立ち去りがたい様子で、暫くたたずむ。その視線は、ただ義務を果たそうとしているだけではないようだった。
「ま、男同士の話があるみたいだからさ、おれらがいても邪魔になるだけだろうし。まぁここは二人に任せて、おれらは外に行ってようぜ」
緑がなんだか妙に嬉しそうに、見合いの仲人みたいな台詞を言う。
ぽんと立ち上がって、行き掛けの駄賃とばかりに自分と形代さんの小皿の分のクッキーを全部自分のポケットに詰め込み、ついでに僕の前の皿からさすがに申し訳ないと思ったのか、二、三枚だけ、『残して』全部同じようにポケットに詰め込む。
あまりに大胆な行動にちょっとだけびっくりしたが、緑はそんな事おかまいなしに、メイドさんの背中を押して部屋を出ていく。その体がドアの影に消える寸前、メイドさんが部屋を振り返るのが見えた。
諦めろ、緑。その人は『ご主人様』以外見えてないみたいだから。