五日目2
緑は昨日と同じ所にいた。中央通りの途中にある、ガードレール。
一昨日、ここで待ち合わせをしようと決めていた場所。そこに腰掛けて、足をぶらぶらさせていた。良く見てみると、なにやら女の子と話しているらしい。しょうがないな、とは思うが、緑が何をするかは緑が決めることだし、手伝ってもらっている立場である以上、文句を言える訳でもない。それに、緑が何をしていようと、僕には関係ない。
近付いていく僕に気付いたのだろう、話していた女の子に手を振ると、ガードレールから身軽に飛び下りて、緑はこちらに駆けてきた。
「よ、あんちゃん。どーしたんだよ、遅かったじゃん」
昨日の事で緊張していた所でのその呑気な台詞に、一瞬くらっときた。でも、それはそうだ。昨日の事と緑とには、なんの関係も無いのだから。
「緑、聞きたい事がある」
真剣になった僕の表情に面食らったのか、緑は焦ったような驚いたような表情になった。
「な、な、なんだよ、急に。言っとくけど、俺別に隠してる事なんかないかんな」
何故か慌てる。でも、そんな事を気にかけている余裕はなかった。
「緑、一昨日会った形代さんって人が何処に住んでるか、知ってる?」
「え?」
怪訝な表情になる。確かに、なぜここであの人の名前が出てくるのか、昨日の事を知らない緑には分からないだろう。
「まぁ、知ってるっちゃあ知ってるけどさ。何だって急に?」
「・・・どうしても、あの人と話さなくちゃいけないんだ。今、すぐ」
緑は頬をかいて、なんだかわからないといった表情をしていた。が、僕の表情がふざけている訳ではないと言う事だけは分かったのだろう。
「それって彼女を捜す事より、もっと大事な事なのか?」
真顔になって、そう尋ねてきた。
「彼女の事について、だ」
緑をじっと見返す。緑も僕を見詰める。やがて、緑が小さく、息を吐いた。
「知らない客連れてくと、嫌がられんだけどなぁ。あんまり人と関わりたがらないし。・・・ま、仕方ないかぁ」
くるっと踵を返すと、緑は歩き始めた。
「行かねぇの?」
慌てて後を追う。
「まぁ気を使う必要は無いけどさ。軽くなんか土産でも持ってってみるかぁ。でさ、少し遠いけど、いい?」
黙ってうなづく。心の準備をしなければならない。昨日の事。彼女の事。今までの事。頭の中で整理しなくてはならない。でもそれよりも、あの人に会うのだという心構えをしなくてはいけない。日の光の下、緑と一緒で何も起こらないと保証されているとはいえ、昨日のあの彼女と同類の相手の所へ行くのだ。
彼女の瞳。
頭を振るって、浮かんできた記憶を隅へと追いやる。今は思い出さない方がいい。何を話すか、何をするのか。頭の中で筋道だてて、整理する。それだけに集中する。
それは大きい屋敷だった。確かに大きい。しかし、それ以上に古かった。
門の鉄格子は閉まったままぼろぼろに錆び付き、もう何十年も開いたこともないのだろう事を思わせていた。その左右に連なる煉瓦塀も漆喰の部分が禿げ落ち、煉瓦自体が欠けてしまっているものも珍しくはない。
その塀の内側は、木が手入れの様子もなく生えていて、奥にある筈の屋敷の姿をはっきりとは見えさせないでいた。門と玄関を繋いでいたであろう道には草が茫々に生い茂り、人通りの無さを示している。鬱蒼と茂った木々が陰を作り、昼日向でありながら、門の内側だけにはもうすでに夜の帳が降りて来ているようですらある。
「この屋敷さぁ・・・」
急に、緑が口を開く。
「・・・悪い噂が絶えないんだよな。この屋敷が出来たのって大正時代だったらしいんだけどさ、・・・この家を建てたのはイギリス人の駐日大使だか大使館の人だったからしいんだけど。最初の事件が起こったのは、その人がここに越して来てひと月も経たない内だったらしいんだ」
緑がこっちを向いてにやぁーっ、と笑うのが見えた。僕を怖がらせようとしている魂胆は見え見えだったが、だからといって嘘をついているようにも見えない。多分、本当の話だ。
「第一発見者は、そのイギリス人の知り合いの女の人だったらしい。幾らノックしても、呼び掛けてみてもいっこうに返事が無い。不審に思ったその人は、思い切って玄関をくぐった。声を掛けながら廊下を進んでいく。やがていつもの居間に着き、その入り口のドアのノブに手をかける。かちゃ、と音がして、不意にドアが勢い良く開き、何かが体の上にのし掛かってくる。その何かに押し倒されたその女の人は、思わず悲鳴を上げた。だって、そうだろう。そののしかかってきたものっていうのは、白目を向いて、血塗れになった、もう体温も残っていないこの屋敷のメイドの死体だったんだから」
緑の、こちらの反応をうかがうまなざし。でも、ある程度の予想のついていた僕は、割りと落ち着いていた。
ちぇっ、という表情になって、緑は続けた。
「ま、ちっとは脚色がはいってんだろうけどさ。結局、その時にここに住んでいた人達は、全員殺されてて、犯人は今も未だ分かってない。それだけじゃないぜ。そのあとも幾つか事件が起こってて、死人は両手じゃ数えられない程度にはなっているらしい。お陰でさ、今じゃ近寄る奴もいなくなってて、お化け屋敷っていえば、誰でも『ああ、ここか』って分かるくらいになってるよ」
確かに、そう言われてもなるほど、とうなづけるだけのものを持ってる。ここならば、幾人もの死者が出ているとか、何かが出るとかいわれても、そうかもしれないと思うだろう。
「んじゃ、いくか」
軽くそういうと、緑は鉄格子に手を掛けた。多分こつか何かがあるのだろう。緑は片足を引っ掛けると、ひょいっ、という感じで身軽に鉄格子を飛び越えると、す、と向こう側に着地した。
「さっ、早く」
そんなこと言われても。
言っておくけれど、自分の身長よりもずっと高い鉄格子をぽーん、と飛び越えられるような運動神経は、はっきり言って、無い。体操選手でもなければ、とても無理だろう。
という訳で、緑が軽々と越えた鉄格子を、がにがにとみっともなく登る。幸い、錆び付いていたお陰で滑りはしない。服に錆がつかないかと心配になったが、あえて無視する事にした。今はそんなことを気にしていられる時ではない。
本来は道であっただろう所まででしゃばっている木を避けながら進んでいく。足跡さえついていない下生えを踏み分けて歩いていくと、程無く屋敷の全貌が見えてきた。
門の外から見ていた時ほど、汚れても崩れてもいない。確かに古そうではあるけれど、それだけに人の匂いのするような気がした。
ここまで来ると、もう玄関に続く道も整備されている。石畳が並び、煉瓦で仕切られた外側には、外側からのついたてになっている木々の少し手前位まで、しっかりと刈り込みのされた芝生が敷き詰められている。右手には細やかだが、心地のよさそうなテラスがあり、真っ白なテーブルと椅子が置かれていた。位置的にいって野晒しにされているはずなのに、埃も雨垢も着いた様子はない。
なんだか金持ちになったら住みたい家の見本みたいで、外からの印象とは随分掛け離れてしまっていた。
それと、あの人の印象とも。何と言うか、もっとおどろおどろしい、入る前に玄関で躊躇してしまうような家を想像していたのに。
「ここに、あの人が住んでる・・・んだよな?」
なんとなく自信が無くなってくる。尤も、ここに連れてきたのは緑なのだから、僕の自信などは関係がないのだが。
僕の心配など知らぬ風で、緑はまるで当然のように扉のノッカーに手を掛けた。思わず止めようとして、・・・やめる。
心の準備をする時間が欲しかったのだが、そんなものはここに来るまでにもうできていた筈だ。この上時間が欲しいというのならば、それは心の準備では無くて、ただの時間稼ぎだ。きりがない。準備が足りないというのなら、出てくるまでと時間を区切ってすればいい。
程無く、ゆっくりと扉が開いた。これだけ古く大きい扉だというのに、軋む音ひとつしない。僅かに開いたその隙間から、誰かが顔を覗かせた。
「どちら様・・・でしょうか・・・」
びくびくした感じの声。どちらかというと、びくびくしているのはこちらの方のはずなのだけれど。表情もかなりおどおどした様子だった。黒い地味なエプロンドレス。肩口の膨らんだパフスリーブに、頭のひらひら。
疑う余地はない。メイドさんだ。二十歳前位だろうか。結構な美人なのだが、おどおどした表情が気に入らない。近親憎悪という奴だろうか。
「や。さやねえちゃん、こんちは」
緑が気安そうに右手を上げる。さやさんと呼ばれたメイドさんは、明らかにほっとした表情になった。なんだかそれだけで、辺りが明るくなった感じがする。
「いらっしゃいませ」
人が入れる程度に扉を開いて、にっこり。なんだ、こういう表情もできるんだ。
「だんないる? 会いたいって客が来てるんだけど」
ぐい、と緑が僕をメイドさんの正面に引っ張り出す。途端に、おどおどした表情に戻っていた。
「あ・・・い、いらっしゃい、ませ・・・」
警戒している、というよりも、ただ純粋に怖がっている感じだ。出てきたときからすでにこうだったのだから、僕が怖いという事ではないだろう。多分、人間自体が。
「少々、お待ちください・・・」
頭をひとつ下げてから、奥へとさがっていく。扉はきちんと閉められていた。
「まぁ、さ。会ってくらいはしてくれると思うよ。おれもいるしさ」
そうだと思いたい。でなければ、僕は何処へも行けなくなってしまう気がする。行くことも、戻ることも。一生この位置で、過去を悔やみながら。