五日目1
目覚ましのアラームが鳴る。
結局一晩中一睡もできなかった。できるわけがない。目を閉じれば、同じ光景が浮かぶだけだった。
アラームが鳴り続けている。家から持ってきていた、もう何年も使っている古い目覚まし時計。見なくても分かる、時間は四時。ここ暫く、毎日起きているのと同じ時間。昨日布団に入ってから、およそ五時間ほど経ったことになる。意識はますます冴えるばかり。今でも、絶え間なくあの時の事ばかりが頭の中を駆け巡り続けていた。
濡れたような赤い月、それと同じ色の彼女の瞳。なまめかしい彼女の仕種。長く伸びた牙。そして、人間とは思えない、いや、人間では有り得ないその存在感。吸い込まれそうな瞳。どこまでも深く深く、落ちていきそうな感覚。あのままだったら、本当に落ちていってしまっただろう。
人間ではないものへと。
向こう側に憧れていたなんて、まるで嘘のようだった。あんなものに憧れていたなんて。今は、全身を恐怖だけが支配していた。確かに、僕は普通よりもあちら側に近いのだと思う。でも、それはしょせん、普通が十だとするなら、せいぜい九程度だ。あちら側がマイナスなのだとすれば、しょせん『普通』でしかない。まごうことなく、僕はこちら側の住人に他ならなかったのだ。
例え様のない恐怖。人間ではない彼女への恐怖ももちろんだが、人間ではないもの、人間以上の力を持ったものがこの世に存在するという恐怖、今まで信じてきたもの、今まで疎ましくさえ思ってきた平凡な日常というものが、実はたったひとつの存在だけでこうまでも揺らいでしまうという事実。綱渡りのように微妙なバランスでもっている、いつ脆く崩れ去ってもおかしくない平和な生活。そして、何よりも、自分自身が自分の存在しているこの世界ではない場所に足を踏み入れかけたのだという現実。いや、実際、敷居はもう跨いでしまっていた筈だ。あとは、上げた足を踏み下ろすだけで、もう、二度とこちらには帰っては来られない。そのくらいには、なっていただろう。
彼女を前にしていたときの高揚感は、あの後すぐに消え去っていた。正気に戻った瞬間、辺りに残っていたのは暗闇だけだった。先程まで、異様なほどに明るい月明りに照らされていたはずだったのに。いや、辺りを照らしているはずの月の明りまでが、本当の景色を隠そうとする闇のようだった。この月の光の中は、人間では無いものの領域。月に照らされているここは、人間がいてはいけない、人間ではないものの場所。その不可侵の領域に在る自分という存在を、快く思っていない感情が、ひしひしと伝わってくる。それまでなんとも感じていなかった、それどころか気持ちのいい、自分に近いと感じていた闇も、月の明りまでもが、まるで自分という獲物を狙う野獣のような圧迫感を放っているのを感じていた。
逃げる。ただ、ひたすら。
それでも、闇も、月の光も引き離す事はできなかった。
わかっていた。これは人工の光などでどうにかできるような物ではないと。もしも例え一時的に追い払う事ができたとしても、それが獲物を、自分達の領域を犯したものへの制裁を諦める事など、決してありはしないのだと。
その後どうやって家まで辿り着いたのかさえまったく覚えていなかった。ただ、まんじりともせず、恐怖と戦っていた。ひたすら、待ち続ける。闇と、月の光と、彼女の瞳とを追い払ってくれる陽の光が訪れるのを。
締め切った雨戸の隙間から、ほんの少しだけ、僅かに光が入り込んできていた。陽が昇って来ていたのだ、と理解するまでにしばらく時間がかかった。それほどまでに、僕にとって朝というものは遠い存在だったのだ。朝になったのがこれ程嬉しかったのは、多分生まれて初めてだったと思う。寝不足の、徹夜明けの朝に、日の光を疎ましく思っていたのが、まるで遥かな昔のようだった。それが平和というものだとしたら、なんて遠いものになってしまったのだろう。恐らく昨日の事は暫く、もしかしたら、一生忘れられないかもしれない。そして、夜がくる度に朝の陽の光を待ち侘びて、時計の秒針が動く様子だけを凝視し続ける毎日を送るのだろう。
もう、彼女の事は忘れよう。そもそも、僕と彼女とは何の関わりもないのだ。住んでいる場所も、名前すら知らない。そう、ただ探すのを止める。ただそれだけで、もう彼女とは何の関わりも無くなるのだ。確かに、今までのような何の変哲もない生活に戻るのはもう無理だろう。でも、これ以上深入りしさえしなければ、向こう側へと落ちていく事だけは避けられる筈だ。例えそれが表向きの、偽りの平穏だったとしても、今までの生活に戻れるのだ。いつかは闇への恐怖を忘れられる時も来るだろう。このまま、何もしないだけでいいのだ。
そう、彼女を諦めるだけで。
『ごめん、なさい・・・』
彼女の声。空気に融けて、耳に届く前に消えてしまうのではないかというような、微かな声。春の陽射しに解けてしまいそうなその姿。今にも掠れていってしまいそうなその存在。深い深い湖のような、底の知れない瞳。本が無事だとわかったときの微笑み。ほっとした表情。
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
忘れなければいけない。忘れさえすれば、全てが終わる。もう二度とあんな恐怖を感じる事は無くなる。
血で塗られたように、真っ赤に染まる彼女の姿。冷たい視線。見下すように見詰める禍々しい瞳の輝き。迫ってくる鋭い牙、落ちていく感じ、冷たい感触、自分とは違う存在、人間ではない、人間とは思えないその存在感。
不意に。
思い出す。そう、今までに一度、あの時の彼女と同じ事を感じた事があった。
あれは人込みの中。街の雑踏の中で、あの人と出会ったのだ。
形代という名だと、緑は言った。彼女と同じ雰囲気を持つ存在。ならば、彼女と同じなのだろう。少なくとも、彼女に近い存在ではあるに違いない。
あの人に会わなければならない。なぜだか、無性にそんな気がした。恐怖はもちろんある。だが、緑は大丈夫だといった。定期的に街の人とも関わっているのならば、少なくとも致命的な事にはならないだろう。
そうだ、会わなくてはいけない。
往くにせよ、退くにせよ、何かをはっきりさせなければならない。そう、諦めるにしても、このままではいけない。そう、ぼくは一度『決めてしまった』のだから。そうしなければならない。
生まれて初めて、僕は自分で決めていたのだから。