四日目 月
公園を出る頃には、辺りはもうすっかり暗くなってしまっていた。
緑と別れてからもう何時間も経っている。律義にも、緑は昨日だけでなく、今日も探すのに協力してくれていた。といっても、二人して駅前でうろうろして、制服を眺めていただけなのだけれど。
いい加減制服姿の学生がいなくなってくる頃、僕はいつもこの公園に来ていた。流石に中学生のうろついて良い時間ではないのと、待つだけならひとりでも大丈夫なのとで、緑は先に帰していた。もっとも、真っ直ぐに家に帰っているかはかなり怪しいが。
昨日、食事の後すぐに探し始めたお陰で、ここから通学できる範囲の高校の制服は、ほとんど確認し終わった、と緑は言っていた。
それでも、ない。確認した中には、彼女が着ていたあの服は無かった。となれば、あれは制服に見えただけのただの私服だったのか、あるいは緑の言うように、確認しきれない聖欄という学校の指定の制服かのどちらかだろう。あれが制服では無いと言うのならば、学校から探す手掛かりはもう無いだろう。彼女の持っていたあの本から探すのはまず無理だ。図書館のシールなんてどこの学校でも同じような物だし、そもそも区別ができるほど正確に覚えてもいない。
でもあの服は、制服に間違いないと思う。根拠はないけれど。聖蘭学園のもので間違いないと思う。ならば、あとは確認するだけだ。
でも、どうやって?
誰かが着ているところから確認するのはまず無理だと、緑は言った。誰かが着ていて、その人が春休みにそれを着て、僕たちがいる前に現れるなんて可能性は有り得ないほど、聖蘭の指定制服の種類は多いらしい。確かに、制服で統一されている他の学校の制服を探すのだけでも相当苦労している。やはり、無理なのだろうか。
滅入る気分をなんとかしようとして、空を見上げた。
月が、浮かんでいた。
今にも落ちて来そうなほどに、巨大な月。落ちて来そうというよりも、吸い込まれそうだ。その月が、紅に染まっている。禍々しい光に照らされ、世界が別の場所のように朱に染まっている。民家も、電柱も、アスファルトも。染まっていないのは、自分の影だけだった。ちょうどそこだけ、切り抜かれたように黒く。全身を月の朱に染められて、まるでこちら側の住人のような顔をしている僕が、本当は仲間として月の光の中のあちら側の世界に受け入れられることは無いのだという証明のように。
それでも、ここにいるだけで奇妙な充足感を感じていた。長い間求めていた世界。今、実際に僕が存在しているこちら側よりも、よほど僕に近しい世界。
今日は、何かが起こりそうな気がしていた。だからこそ、月がこれほどまでに禍々しく輝いているのだろう。これ程の月は、生涯でも幾度も見られるものでもない。こんな夜に何かが起こらない訳がない。何かが起こるからこそ、月がこんなに輝く。月がこんなに輝いているからこそ、何かが引き寄せられる。
だから、それがわかっていたから、僕はほとんど驚いたりはしていなかった。
月の光の中は、こちら側では無い世界。その月明りを浴びながら、道の真ん中に人影がひとつ、ぽつんと立っていた。一度だけ見たことのある服装。まだ確認はしていないけれど、まず間違いなく聖蘭学園の指定制服。前に見掛けてから、ずっとその事しか考えられなくなっていた相手。
どうやら、月を眺めているらしい。こちらに背を向けて、空を仰ぐような格好をしている。その髪が、夜風にもて遊ばれてさらさらと柔らかく舞っている。
禍々しくも人を魅了してやまない美しさを放つ光。その光に照らされて、彼女は昼間には無かった現実感を持って、そこにいた。
非現実と言う名の現実感。
そこに存在するものが、確かに現実の物ではないと言う現実感が、そこにはあった。
それは現実の存在では有り得ない。少なくとも、尋常な存在ではない。
彼女は、こちらに気付いたのか、振り向いた。いや、その自然な様子では、最初から気付いていたのかもしれない。ただ、月に見入っていて、こちらを気に掛けていなかっただけで。月に満足したので、ようやくこちらを気に掛けでもしようか、という様だった。
彼女はゆっくりとこちらを振り向き、風に乱れた髪を、静かに左手でかきあげた。その肉体は、妖しい、濡れたような月の光を浴びて、まるで血で染められたかのように、真っ赤に映し出されていた。
その瞳。
その目は薄く開けられ、こちらを冷ややかに見詰めていた。冷ややか、という表現では不足だろう。どちらかと言えば、見下すと言う表現の方がぴったり来る。科学者が、モルモットを見る目付き。相手が自分と対等だなどと微塵も思っていない目。相手の事を、幾らでも補充の利く消耗品だとしか思っていない目。
その瞳は、中天に浮かぶ今の月と同じ様に、異様に大きく瞳孔が開き、そして、禍々しい真紅の淡い光を放っていた。
そして、笑った。微かに唇の端を持ち上げるだけの嘲笑い。
目付きが、僅かに変わった。
獲物を見る目付き。
柵の中に囚われた羊を見る狼の目。決して逃げる事の出来ない獲物を見る目。実際、逃げようとしても逃げられはしなかっただろう。その妖しい美しさに囚われ、逃げようなどという思考すら存在していなかった。
にやり、と笑って見せる。唇の端が少し上がり、鋭い八重歯が見える。
八重歯と言うよりは、牙。すでに、普通の犬歯には見えない。異様に伸びた、人間の物ではない。少なくとも、犬歯とか、八重歯とか呼べる類いのものではなくなってしまっている。
静かに、近付いてくる。滑るような足取り。足音など、まったく立てない。目前、腕の関節ひとつ分と離れてはいない位置で足を止める。真っ直ぐに顔を見上げている。お互いの視線が絡まり合う。
濡れた瞳。その真紅の瞳は見るものを捕らえて放さない。まるで吸い寄せられるかのように、彼女の瞳以外のものが目に入らなくなる。
つ・・・と彼女が手を伸ばしてくる。その手は滑らかな動きで背中に回され、ゆっくりと彼女自身の身体を引き寄せる。そうして彼女との距離が無くなり・・・。
彼女の肉体の感触。
彼女の髪の匂い。体臭。昼に会った時とは違う薫り。フェロモンの匂い。雌の匂い。
彼女が、胸に顔を埋めてくる。視線が逸れる。しかし、まだ身体は動かない。動こうとしない。彼女の美しさから逃れまいとしているかのように。胸に、額と頬がすり付けられる感触。まるで場慣れした娼婦のような仕種で擦り寄ってくる彼女。別人のような雰囲気。しかし、別人ではない。今の彼女と、昼の彼女とを決定的に繋ぐ共通点があった。
非現実感。
まるで夢の中のような非現実感。朝になれば、全てが消え失せてしまいそうな非現実感。日の光を浴びれば全てが無に帰してしまいそうな非現実感。
彼女の掌が、頬に寄せられる。
瞳。
薄く開かれた目に、大きく開いた瞳孔が映し出され、まるで目全てが瞳孔になったかのように見える。その孔はどこまでも深く、闇く、吸い込まれてどこまでも真っ逆様に落ちていきそうな気さえした。
頬にあった彼女の掌が、ゆっくりと降ろされて行く。首筋をからかうようにくすぐり、胸元へ。外れたままの第一ボタンを通り抜け、第二ボタンへ。ぷちっ、と微かな音がして、ボタンが外される。続いて、第三、第四。
胸元が大きく開く。首筋がはだけられる。爪先立ちになって、彼女が首筋に顔を埋める。まるで香りを楽しむかのように息を吸う。
口を大きく開くのが気配で分かった。むき出しの肌にかかる息吹。
期待の中、目を閉じる。首筋に彼女の牙が埋め込まれるのを待つ。
そのまま、数瞬。
待てども、恐ろしい、それでいて待ち望んだ感触は訪れない。
目を開け、彼女の牙が突き立っている筈の箇所に目をやる。
何も、無かった。血を滴らせながら首筋に埋まる牙も、その痕も。彼女自身さえも。
まるで本当に先程までの事が全て夢だったかのように。胸に残る感触もそのまま残して、彼女はかき消えていた。
ただ、全てが幻ではなかった証拠に、首筋がはだけられていた。しようと思えば、今直ぐにでも牙を突き立てられる様に。