記憶喪失?
「おーい! だいじょーぶかー?」
声が聞こえる。少し低めの、よく通る女の声だ。その声にあわせて、俺の身体がゆさゆさと揺すられている。
頬に固くて冷たい何かが当たっている。身体が揺れるたびに、頬の下で小石か何かが動いて、少しだけ痛い。
「……ん、ぅん?」
瞼を開けば、石畳が見えた。周りは薄暗くて、どこかの裏路地のように思える。身体を動かせば身体の下敷きになっていた右腕がずきりと痛んだ。僅かな痺れも感じる。
大きな怪我とかじゃなきゃ良いけど。
俺はそんな事をぼんやりと考えて、ふと、ぐちゃぐちゃになった自分の身体を思い出した。神と名乗る男に見せられた、グロテスクな自分の遺体。その光景が頭の中に蘇って、俺は悲鳴と共に飛び上がる。
「あああああああああッ!」
「うおおっ!? なんだ急にびっくりするぞ!」
腕はある! 頭もある! 平気だ! 俺は生きている!
全身をぺたぺたと触りながら、俺は心臓が早鐘の様になっているのを感じていた。間違いなく、俺は生きている。
「どうした? 財布でも盗られたか? 言っとくが俺じゃないぞ。俺があんたの身体を調べた時にゃ、もう無かったんだからな」
俺の目の前で、背の高い女が訝しげに俺を観察していた。俺は元から身長が高いほうじゃないが、にしてもこの女は背が高すぎる。二メートルは超えてるんじゃないかって高さだ。
もちろん彼女の頭も高い位置にあるわけで、必然俺は、見下される形になる。まるで子供の様に、俺は彼女の事を見上げるしかない。
俺が低身長の様に思えるが、これでも百六十は超えているんだ。たぶん。きっと。去年測った時はそうだった。
女は黒いフードを着ていた。彼女の肌は紫がかった青い色をしていた。そしてその額には、立派な二本の角があった。
「……人間じゃ、無い?」
俺は絞り出すようにそう言った。
「ああ? そりゃそうさ。俺はオーガだからな」
「オーガ?」
聞き慣れぬ単語。そんな物、ファンタジーの世界でしか聞いたことが無い。
夢でも見ているのか……? なんて、そんな事を思ったのだけれど、俺はそこで思い出したんだ。あの男の言葉を。
「君には異世界に行ってもらいたい!」
ここは、異世界……? 本当に俺は、異世界に来たのか?
「はは~ん。あんた、二日酔いか? 大方、酒を飲みすぎてぶっ倒れたんだろ」
「ここは……何処なんだ?」
「は? 頭でもぶつけて記憶を飛ばしたか? ここはイミシアイアの……どこだっけ?」
女はキョロキョロと周囲を見渡して、しばらく顎に手を当てて何かを考えていたが、すぐに諦めたのか、肩を竦める。
「どこでも良いや。俺はウリダラって言うんだけど、あんた名前は?」
「田中……田中 朱夏」
「タナカ? タナカ・アカナツ。う~ん。変わった名前だな。何処の出身だ?」
なんて答えるべきなんだ? ここが本当に異世界なら、日本の東京ですなんて言った所で伝わるはずも無い。いや、そもそも伝える必要があるのか? こんな見ず知らずの場所で、自分の素性を明かすのは危なくないか?
俺がそんな風に悩んでいると、ウリダラは不思議そうに首を捻る。
「あん? もしかしてあんた、本当に記憶が無いのか?」
なんて都合の良い解釈だ。願ったり叶ったり。彼女がそう誤解してくれるなら、全力でそれに乗っかろう。実際、この世界の知識は何も無いんだ。記憶喪失と呼んでも差し支えない。
「あ、ああ……。何も、分からないんだ。名前以外……何も……」
「はぁ~!? そりゃ大変だ!」
そう言えば、自然と言葉が理解できる。聞いたことも無い言語なのに、普通に会話が出来ている。
これも、あの胡散臭い神様のお陰なのだろうか。俺はなんとなしに、左目に意識を集中させる。
ちりっと、視界にノイズが走って、頭の中に映像が流れた。ウリダラに顔面を殴打されて、真後ろに吹き飛ぶ自分の姿が、鮮明に映し出される。
「……!?」
俺は咄嗟に、真下にしゃがみこんだ。ウリダラの腕が凄まじい速度で頭上を掠め、風圧で髪の毛が躍る。
「あん? タナカ、お前なかなかやるな」
拳を握りしめたまま、ウリダラは不思議そうに俺を見下ろしている。その目に悪意などは欠片もないが、かえってそれが恐ろしい。
何を考えているんだこの女は。
彼女の腕の筋肉は、俺が見たどんな人間のものよりも逞しい。細いが締まっていて、全く無駄な贅肉が無く、よく鍛えられていることが分かる。
たぶん、林檎とか片手で握りつぶせちゃうタイプの人間だ。人間じゃなくてオーガらしいけど。
そんな腕を全力で使って、俺の頭を打ち抜こうとしたのだ。当たっていたら命は無かったかもしれない。唐突に訪れた命の危機に、俺の心臓は再び暴れだす。
「な、何するんだ急に!?」
「何って……、記憶喪失なんだろ? 一発強めに殴れば、治るかなって」
俺の頭はブラウン管テレビじゃないんだぞ。なんだその治し方。
「そんな訳ないだろッ! 死んだらどうするつもりだったんだッ!」
「あの程度じゃ死なないだろ」
そんな訳ない。俺が見た未来の光景では、俺の顔面は拳の形に陥没していた。あれで死んでないなら、たぶん事故でも死んでない。
「嘘だッ! 死んでたぞッ! 間違いなく死んでた!」
「分かった分かった。悪かったよ。……にしてもタナカ、お前、本当に記憶が無いのか?」
「あ、ああ。記憶が無いのは本当なんだ。ここが何処かも分からないし……、自分の家も、何もわからない」
「その癖に俺の攻撃を躱したのか……。もしかして、名のある武術家? それなら、その変な格好も納得できるし」
そう言われて、俺は改めて自分の姿を確認した。パーカーにジーンズ。そしてスニーカー。元の世界で、死ぬ前に着ていた服だ。あの神様、なんでそういう所で気を利かせてくれなかったんだ。どう考えたって目立つだろ。
「……わからないんだ。何も……」
神妙な顔をして俯いておく。しばらくはこれで行こう。何か困ったら記憶喪失。たぶんこれで切り抜けられるはずだ。
「う~ん。取り敢えず医者につれていくか……? タナカ、お前金も持って無いんだよな?」
「金……。そもそも、それがどんな物かすら分からないんだ……」
「ひゃー! そこまでか! お前、私に見つけられなかったら死んでたんじゃないか?」
ついさっき俺を殺しかけた女の言葉とは思えない。未来が見えていなかったら、顔面を現代アートにされていたんだぞ。
「そ、そうかもな……。助かるよ」
「任せろって。確かあっちに冒険者ギルドの治療所があったはずだから、そこで頭を見てもらおう」
俺はそう言って歩き出したウリダラの後ろを付いていく。
ここがどんな世界で、何があって、どう生きるべきなのか、それは全く分からないけれど、この人はおそらく良い人だ。
彼女について行って、この世界の事を知ろう。生きていくためには住む場所がいる、食べる物がいる。俺はその一つも持っていないし、何も知らないんだ。このまま行けば、すぐに死んでしまう。
「なあ! 記憶が戻ったら、俺と手合わせしてくれよ! あんた、きっと本当はめちゃくちゃ強いぜ!」
駄目だ。絶対に記憶を取り戻したなんて言っちゃ駄目だ。次は死ぬ。確実に死んでしまう。
「あ、ああ……。記憶が戻ったら、考えるよ」
背中に冷や汗が伝うのを感じながら、俺は顔を引き攣らせる。
果たして俺はこの世界で生きていくことが出来るのだろうか……。